第四章 邂逅(4)
すぐ追いかけたおかげか、建物の構造を熟知しているためか、イリアの姿を見つけるのにマリアは苦労しなかった。建物と隣家との境界を示すレンガ壁の狭い空間、北向きのために日が射さぬ薄暗い場所で彼女はうずくまっていた。
驚かさないように「イリア」と呼びかけてから、マリアはゆっくりと歩み寄った。長いスカートの裾を折りたたんで膝の裏に当て、イリアのそばにしゃがむ。手をそっと伸ばし、小刻みに震える背中をあやすようになでた。
「ねえ、イリア。あれはラムザの本心じゃないわ」
マリアがきっぱりと言い切れるのには、理由があった。どうして同行を嫌がるのかとラムザに訊いたとき、一瞬、彼は表情を動かした。安堵したような、申し訳なさそうな、泣き出しそうな、苦しそうな、様々な感情が入り交じって一言では説明しがたい表情。
微細な変化でひとの内面を推し量るという難解な問題も、その人物をよく知っている者にしてみれば、糸口さえ見つけられれば比較的容易い。マリアにとっての糸口は、瞬き一つの間におこったラムザの表情の変化だった。
「きっと何か深い事情があるのよ」
「―――違う」
遮るようにイリアが言い、顔を両手で隠したまま頭を振る。訝しげに眉を寄せるマリアの反応を察してか、彼女は一息に言いきった。
「あんな冷淡な態度をとるのは、なにか訳があるんだってことならわたしにもわかる。…でもっ、あのときのラムザは、揺るがなかった。わたしの目をちゃんと見て言った。それまで一度として視線をあわせていなかったのに、あのときだけはちゃんとっ!」
悲鳴が木霊し、きつく閉じられた指の隙間から雫が幾つもしたたり落ちる。
「………」
そんなイリアに、マリアはかける言葉を見失う。
後ろめたいときや嘘をつくとき、決して視線を合わせない。数あるラムザの癖の中でも、最もわかりやすいものだ。良くも悪くも自分自身を偽れない人。それが、マリアの知っているラムザ・ベオルブだ。
この癖を裏返して考えてみれば、こうとも言える。
彼は、心の底から思っていることを告げる際には必ず相手の目を見るのだ、と。
だから、イリアの言うことも決して的外れではないのだ。
「わたしじゃ、ダメなんだっ。非力だし、魔道士なんて魔法力が尽きればただのお荷物だし、ティータちゃんを助けると言ったのに助けられなかった嘘つきだし、ラムザに隠し事をしていた卑怯者だし!」
マリアはそっと目を伏せた。
彼女は知っていた。イリアの心にジークデン砦の出来事が重くのし掛かっていたことを。軍師の策謀に気付いていながらラムザに告げられなかったから、結果として骸旅団によってティータがさらわれて見殺しにされた、と後悔し続けたことを。
イリアだけがそんなに責任を感じることはない、とマリアは思う。
畏国内の貴族のうちでその家名を知らぬ者はないとまで言われるベオルブ家の嫡男にして、先の五十年戦争の際には優れた戦略眼と冷徹な現実認識能力によって数々の戦で北天騎士団に数々の勝利を導き、軍師として名声をほしいままにしているダイスダーク・ベオルブが、エルムドア侯爵を骸旅団に誘拐させたと言われて、あの当時の自分は信じることができたか。
答えは「否」だ。
侯爵救出に向かい見事達成した実の弟に、ダイスダーグは誉めるどころか「命令違反だ」と冷厳な叱責を加えた。家門や社会的地位、階級の上下に関係なく、全ての人に等しく軍律を適用する。生まれも育ちも生粋の貴族であるダイスダーグがそれを実践している様に、マリアは素直に感嘆したものだ。
ラムザは口には出さなかったが、そんな長兄を誇りに思い、全幅の信頼を寄せていたはずだ。
『誇り高きベオルブ家の人間が、そんな卑怯なことをするものか!』
ウィーグラフに向かって発せられた絶叫は、マリアの記憶に鮮やかに残っている。
だからこそ、ジークデン砦でおこった一連の出来事は悪夢そのものだった。手ひどい裏切りにラムザの心は折れ砕け、ディリータはその身を憎悪に焦がし、私達は無力感を嫌と言うほどに味わい、絶望というものを知った。
そして、誰よりもその度合いが深かったのは、イリアだった。士官アカデミーを出奔して以来、彼女は寝る間を惜しんで魔法書を読み、備品を壊す危険性があるにもかかわらず魔法の訓練を繰り返していた。白魔法だけでは満足できず、黒魔法を修めて時魔法をも学び、やがて召喚魔法まで習得していた。
全ては、力を手に入れるために。もう二度と無力感で泣かないために。そして、絶望に捕らわれないために。
―――そう、私はイリアの気持ちを知っている。
なぜなら、私だって同じだから。ラムザ一人に途方もない重荷を背負わせてしまった事実に抗いたくて、ここにいるのだから。アデルもイゴールもイリアも、そして私も、それぞれの覚悟と決意をもって士官アカデミーを飛び出しただから。
だから、
マリアは昂然と立ち上がる。イリアの背中を見下ろし、口を開いた。
「じゃあ、これからどうするの? このままラムザを放っておくの? いまラムザを見逃せば、きっと、彼は二度と私たちの前に姿を現さないわ。あなたはそれでいいの?」
震えていた肩が、掠れた嗚咽が、止まった。
「ここで泣いていたって何も変わらないって、本当はわかっているんでしょう。だったら、泣くのはもうやめて、ラムザと正面から向き合ってあの言葉の真意を訊きなさい」
マリアはイリアの返事を待たずに身を翻し、その場を離れる。
背丈の低い草むらを踏む足音が徐々に遠ざかり、やがて、完全に聞こえなくなった。
「………」
イリアはのろのろと顔を上げ、手許に視線を落とした。自身が流した涙で、手はぐしょぐしょに濡れている。
『このままラムザを放っておくの? いまラムザを見逃せば、きっと、彼は二度と私達の前に姿を現さないわ。あなたはそれでいいの?』
それは嫌だ。絶対に嫌だ。
でも―――、
『助けはいらないし、謝罪もほしくない』
真意を訊くのは、恐い。仲間だと、大切だと思っている人にもう一度自分の存在を否定されるのかと思うと、恐くてたまらない。
だけど―――、
『ここで泣いていたって何も変わらないって、本当はわかっているんでしょう』
―――マリアの言うとおりだ。
涙するだけじゃ、誰にでもできる。
嘆くだけで何も行動しないのなら、何もしていないのと同じだ。
それじゃ、ジークデン砦の時と何一つ変わらない。
イリアは唇をぎゅっと噛みしめた。指先だけでポケットの中を探ってハンカチを取り出し、まずは顔を、次に両手を拭う。湿っていない部分を使って鼻をかみ、出た鼻水を包むようにハンカチを畳んでポケットにしまい、勢いよく腰を起こした。
長いこと中腰姿勢だったせいか、立ち上がるなり軽い目眩に襲われる。が、イリアはかぶりを振ってそれを追い払った。強ばっていた足をゆっくりと動かして、物陰から中庭に出る。西日の眩しさに手をかざしたとき、ふと声が聞こえた。
「自力で立ち上がってくれると信じていたわ」
木製のベンチに、マリアが腰を下ろしている。にっこりと嬉しそうな笑顔を浮かべて。イリアは自然と口元がほころぶのを自覚した。
「うん。ありがとう、下手な慰めをしないでくれて」
「どういたしまして。じゃ、戻りましょうか」
「うん」
二人並んで琥珀色に染まる中庭を歩み、先ほど逃げるように押し開いた扉をくぐり、宿屋へ入る。宿泊している部屋へと通じる階段を上ろうとしたとき、頭上から下る足音が聞こえた。
「イゴール」
マリアの呟きに、緑の双眸がこちらをみつめる。イリアの顔を認めた瞬間、彼は心配そうに表情を曇らせた。
「ラムザの様子はどう?」
「かわらず黙秘を続けている」
マリアの問いかけに答えたとき、イリアが辛そうに俯くのをイゴールは見た。階段を下って板張りの床に足をつけるなり、彼は黒いつむじをみつめながら口を開く。
「おまえはどうする?」
「もう一度ラムザとちゃんと話がしたい」
躊躇いもなく答えが返されたことに、正面から互いの視線が交わっていることに、そして、なによりも青紫の瞳に一定の決意が宿っていることに、イゴールは安堵した。
「そうか、わかった」
「問題はどうやって本音を引きずり出すか、よね…」
マリアが肩に垂れる亜麻色の髪を人差し指に絡めはじめる。イゴールは感情を切り替え、確定に近い推測を述べた。
「おそらく、これ以上問いつめても無駄だ。何も喋らないだろう」
「そうね。一度こうと決めたらテコでも動かせない頑固な性格は、変わってないようだから…」
マリアが呆れるようなため息を零す。
賛同するかのように苦い笑みを浮かべるイゴールに、イリアは話しかけた。
「ねぇ、アデルは? まだ部屋で話しているの?」
「いや、俺よりも前に出て行ったが…」
「じゃ、頼むぜ!」
イゴールの答えを遮るように、向かいののれんが勢いよく払われる。弾丸のように廊下に飛び出してきたアデルは、こちらをみて眼をぱちくりさせた。
「お、もう全員そろっているのか。呼びに行く手間が省けたぜ」
「何をしていた?」
「ドゾフさんにラムザを見張っているよう頼んだ。またとんずらされちゃ、たまらないからな」
当たり前のように返されたアデルの答えに、マリアは熱心に頷き、イゴールは苦い笑みをさらに深め、イリアは憂いにその表情を曇らせた。
「じゃ、真相を明らかにしに行こうぜ!」
意気揚々と拳を上げたかとおもうと、アデルは中庭へと駆け出していく。迷うことなくマリアが彼の後ろに続き、数瞬の思索の間を経てイゴールとイリアが後を追った。
ゆるやかなカーブを描いて敷かれている石畳に沿って中庭を横断し、一軒の平屋建ての建物にたどり着く。そこは、かつてはドゾフの前の経営者である老夫婦が暮らしていた建物であり、現在は四名以上の者が宿泊するための大部屋として使用されている。
面前にある木の扉を、アデルがノックする。
十秒ほどの時間をおいて扉がわずかに開かれ、彼ら彼女らが『ラムザの依頼主』と推定した金髪碧眼の女性――アグリアスが顔を覗かせた。四人の顔を見るなり、形のよい眉が怪訝の形に寄せられる。
「なにか用か?」
「まわりくどい言い方は好きじゃないから、単刀直入にきく。あんたがラムザを雇っている理由を知りたい」
警戒心顕わな質問に、怯むことなくアデルが受け答える。
堂々とした態度に好感を抱きつつも、アグリアスはドアノブを引き寄せた。
「貴公らには関係のないことだ」
だが、すかさずドアと壁の隙間に潜り込まれた足によって、完全に閉め切られることを阻害される。
「あんたにとってはそうでも、俺たちにとっては大いに関係があるんだよ」
アデルはつま先に力を込めて扉を元の位置に戻し、
「私達は彼らを――ラムザを探し出してガリランドの依頼主のところまで連れて行くという依頼を一年前から請け負っています。今日偶然にも彼を見つけることができたので、明日にでも彼と共にガリランドに行こうと思ったのですが、『任務遂行中だから』と拒絶されました。突然の話ですから彼の意向はなるべく尊重したいと思いますが、私達としても、私達を信じてこの依頼を任せた人の誠意を裏切るわけにはいきません。そこで、妥協案として、彼の任務が終わるまで行動を共にすると申し出たのですが、これも問答無用で却下されました」
と、マリアが慎重に言葉を選びながら事情を説明した。
「何をどう言っても、あいつは『君達には関係ない』の一点張りでな。そこで、あんたから事情を聞こうと思い立ったわけよ」
年若い四つの真摯なまなざしを正面から受けてアグリアスは暫し黙考し、やがて口を開いた。
「依頼内容は極秘なので言えない。だから、任務が無事に完了したら私から彼にここへ戻るように伝えよう。それを待つというのはどうだ?」
「承伏できない」
アグリアスにとって最大の譲歩ともいえる案を、イゴールが間髪入れずに退ける。アデルが勢いよく拳を振り上げ、扉のすぐ傍に叩きつけた。
「俺達だけじゃなく現実からも逃げ回っているあいつが、素直に戻ってくるわけがねぇ!」
ごぉんと重い振動が壁のみならず建物全体を震わせる。
苛立ちを滲ませた怒号よりも黒髪の若者が口にした表現に、アグリアスは目を瞬いた。
『逃げている』
ラムザのことをそう表現したのは、これで二人目だ。
『おまえは現実から目を背け、逃げているだけの子供なンだよ!』
最初の一人がそう叫んだとき、ラムザが露骨に動揺したのは記憶に新しい。
王女の命を奪おうとした許し難い男であるが、あの言葉には、あの男なりの真意が込められていたのではないか。アグリアスはそう思う。
そして、いま、奇しくも同じ表現を用いた者がアグリアスの目の前にいる。外見にも年齢にも態度にも、あの男を連想させるものは何もないというのに、この奇妙な符合は一体なんだ。
「貴公は、彼の何だ?」
アグリアスの口からぽろりと零れた疑問。
アデルは躊躇うことなく答えを返した。
「友人だ」
そして、その凛とした答えが、オヴェリアの心を一定方向に動かした。
「アグリアス、彼らをお通しして」
「しかしっ!」
「その方の友を想う心に、嘘はないわ」
静かながらも毅然とした王女の言葉に、アグリアスは無言で四人を招き入れる。
短い廊下を経て居間へと案内された四人の視線は自然と、二人の女性を左右に従えて端然と椅子に腰掛けている、フードで顔を隠した人物に集う。訝しげな視線に気付いたのか、その人物はゆっくりと立ち上がり、フードの端に手をかけた。
「初めまして。私は、オヴェリア・アトカーシャと申します」
涼やかな紺碧色の瞳が印象的な少女の顔が、外気に晒される。四人はその美しさに目を奪われ、次に少女が口に出した固有名詞に混乱した。
「アトカーシャって王家の姓だよね…?」と、イリアが呟き、傍らのイゴールが無言で頷く。
「南天騎士団に誘拐された姫君が、どうしてこんな場所にいらっしゃるの!?」と、マリアは叫び、
「………本物?」と、アデルが首を傾げる。
王女親衛隊に属する者にとって屈辱的な疑問に、アリシアが目尻をつり上がった。
「無礼なッ!」
「アリシア」
いきり立つアリシアをオヴェリアは片手で制する。右手の薬指に填めていた指輪を外し、ラヴィアンに託した。
「それを皆さんにお見せしなさい」
ラヴィアンは恭しくそれを受け取り、命令通りに順々に四人に見せていく。純金の台座に刻まれているのは、聖印を掲げる双頭の獅子。王族に連なる者だけに使用が許されている、唯一絶対の紋章である。
「うぉっ、マジで本物なんだ!」
せわしくなく指輪とその所有者を交互に見る黒髪の若者の反応は、自分を知る者だけしか周囲にいなかったオヴェリアにとってとても新鮮だった。桜色の唇が自然と柔らかな笑みを刻む。
「納得していただけましたか?」
「ああ、これ以上ないほどに」
淡々とした口調で応じたのは、茶色の髪を有する背の高い若者である。向けられた緑の双眸に冷たいものを感じるのは、気のせいだろうか。オヴェリアは指輪を填め直す動作に紛れて、その視線から目を逸らした。冷たい金属の感触が、するりと薬指を通っていく。
「オヴェリア様自ら名乗ったのだ。そちらも名を明かすのが礼儀だと思うが」
沈黙するオヴェリアに代わって、アグリアスが口を挟む。
ごもっともな指摘に、アデルは頷いた。
「そうだな。俺はアデル。あっちのヤツがイゴールで、こっちがイリアにマリアだ」
順々に指さしながら、わざと姓を省いて紹介する。簡単な説明が終わるなり、アデルは背後で佇立するアグリアスににやりと笑いかけた。
「当然、あんたらの名前も教えてもらえるんだろうな?」
「無論だ」
アグリアスは重々しく頷き、自分のみならずアリシアとラヴィアンの姓名を明かす。
ごく自然に姓をも名乗るアグリアスの態度が、彼女たちが生粋の貴族であることを四人に伝えた。
「じゃあ、お互いに名乗ったことだし、そちらの事情を教えてもらおうか」
「聞けば後戻りはできぬぞ。それでもいいのか?」
「俺達にとっては、ここであいつを見逃す方が何万倍も辛い」
アグリアスの脅しにアデルはきっぱりと断言し、マリアが「そうね」と首を縦に振る。
彼らが四人とも本気でそう思っていることは、物怖じせぬ態度が、瞳に宿る意思の光が教えてくれる。アグリアスはオヴェリアの元に歩み寄り、まずは主を座らせ、次いで、テーブルを挟んで佇む四人に椅子を勧めた。
「長い話になる。座りなさい」
四人は同性同士で左右に分かれ、空いた椅子に腰掛ける。
無言で問いかけてくる四つのまなざしを受けて、アグリアスは事のあらましを語り出した。