邂逅(5)>>第二部>>Zodiac Brave Story

第四章 邂逅(5)

>>次頁へ | >>長編の目次へ | >>前頁へ

 最初は居心地のよかった静寂だが、感情の荒波が過ぎ去った今となっては息苦しさが増すばかり。
「…………」
 ラムザは抱えていた膝を離し、床に手をついて立ち上がった。慎重に扉を開けば、目の前には廊下が広がるばかり。しんとした静けさが、耳に張り付く。
 零れそうになるため息を、ラムザは息を止めることで喉に押し込めた。後ろ手でゆっくりと扉を閉める。一度はラッドと共にあてがわれた部屋に向かったが、三歩も歩かないうちにその足は止まった。踵を返し、廊下の突き当たりにある階段を下る。
(どこか一人になれる場所で心の整理をしたい)
 足音を殺して歩いていた彼だったが、偶然にも地下から登ってくるドゾフと出くわしてしまい、徒労に終わった。
「だ、旦那、そのほっぺたはどうしたんですか!?」
 左頬を指さされてとっさに手で隠したが、見られてしまったあとではもう遅い。ラムザは思案を巡らし、表情に微苦笑を選んだ。
「たいしたことはないよ」
「そんなに腫れていて、たいした訳ないじゃないですか!」
 問答無用で腕を引かれて食堂に連れて行かれ、戸口から最も遠い壁際の席に座らされる。
「ここで待っていてください、いいですか!」
 こちらにぐいっと顔を寄せながらドゾフが言う。真剣な表情と強い口調に、ラムザは反射的にうなずいてしまった。
 勢いよく厨房へと駆け出したドゾフは、さほど時を置かずしてもどってきた。
「ほら、これで冷やしてください」
 差し出された手に載せられていたのは、きれいにたたんである湿った手布である。ラムザはわずかに目を伏せた。
「へいきだよ。そんなに痛まないから」
「そりゃ、腫れて痛覚が鈍っているだけです。結構赤くなってますよ」
 だからほら、とテーブルに投げ出していた拳がドゾフの手によって開かれ、てのひらに手布が渡される。受け取ってしまったそれをそっと左頬に当てれば、じんと痛む頬に濡れた手布が想像以上に心地よかった。
「そうだ、お連れの男性から伝言があります。『ちょっくら出かけてくる。今夜帰ってこなくても心配しなくていいぜ』だそうです」
「そう、わかったよ」
 顎を軽く動かして了承の意を示す。
 話はそれだけだろう。口を閉ざしてドゾフが仕事に戻るのを待ったラムザだったが、一向にその気配がない。それどころか、彼は椅子を引き寄せて自分の傍に腰掛けてしまった。
 打算も思惑もなくただ真摯に見つめてくる視線は、先程まで話していた彼ら彼女らを如実に連想させる。ラムザはたまらず目を逸らした。卓に投げ出した右手に目線を落とし、声音を整えて口を開く。
「ドゾフはこの宿の経営者になったんだね」
「はいっ、前主が郊外に隠居する際、住み込みで働いていた自分に『この宿は譲る』と言って…」
「だったら、こんなところで油を売っている暇ないだろう。宿の仕事は見た目には簡単そうだけど、かなりの重労働なのだから」
 ―――だから、僕のことは放っておいてくれ。
 暗にそう告げたラムザだったが、ドゾフには通じなかった。
「いえっ、湯殿の準備はできたし、夕飯の下ごしらえもあらかた終わっていますから、大丈夫ですよ」
 彼は、ラムザが自分のことを気遣ってくれているんだと勘違いしたのである。
 面前にあるニコニコ笑顔で目論見が外れたことを悟ったラムザは、椅子を引いた。相手が動かないなら自分が移動すればいい。そう考えて椅子から立ち上がりかけた彼だったが、
「旦那、夕飯の献立ですが、なにがいいですか? なにかリクエストがあるならお応えしますよ」
 絶妙なタイミングで話しかけるドゾフによって、またしても未然で防がれた。中途半端に腰を浮かせた姿勢は重力と鎧の重量で長時間保持できず、椅子に再び腰を落とす。
「いや、特にないよ」
「好き嫌いとかは?」
「それも特にないよ」
「本当ですか? 一年前ここで食事をとったとき、香りの強い野菜が苦手のように思えましたけど」
 視線が自然とドゾフを追う。
 彼は過去を思い出すかのように、テーブルをとんと軽くたたいた。
「ほら、この宿に案内したとき、自分が夕飯を作ってお出ししたでしょう? メニューの中にはセロリのグリーンサラダもあったのですが、旦那は口を付けるなり顔をしかめていたので…ひょっとして嫌いなのかな、と」
 ラムザは押し黙った。
 ドゾフの指摘は事実だ。ただ、苦手ではあるが食べられないという程嫌いではないし、『好き嫌いしていたら背が伸びないぞ』と父や兄のみならず妹にまで説教されて以来、出されたら食べるよう心がけていた。だから、あのときも、残さず食べたような気がするのだが。
 一日にも満たない時間を一緒に過ごしただけのドゾフに気付かれているとは思わなかった。そして、言われるまで思い出しもしなかった、ラムザにとってはささいなことを、一年が経った今でもドゾフが覚えているとも思わなかった。
「まちがっていましたか? それとも、克服されたんですか?」
 不安げに訊ねてくるドゾフに、ラムザはゆるゆると頭を振った。
「いや、今でも苦手だよ。できれば食べたくないな」
「合点承知です。旦那がこの宿に泊まるときは、必ず、セロリを入れない料理にしますね!」
 ドゾフが片袖を捲り上げ、力拳を作る。
 商人らしい朗らかな威勢の良さに、ラムザの口元がほころびはじめる。だが―――、
「ですから、これからもドーターにお越しの際は寄ってくださいね」
 そのドゾフの言葉に、微笑みの一歩手前で表情筋の動きが止まった。
 努力が実って自分自身の力で生活できるようになったおかげだろう、血色のよくなった顔に好感を抱かせる笑みを刻んでドゾフは返事を待っている。
 ラムザは椅子から立ち上がった。
 傭兵として培ってきた身体能力を最大限生かして、素早く身を翻す。
「部屋にもどっている」
 振り返ることなく、駆け出したくなる足を辛うじて抑制して食堂を出て行く。
 頷くことはできず、かといって嘘もつきたくないラムザに、許された唯一の選択だった。


 厳粛な沈黙が室内を支配する。
 話し手を務めていた者にとっては一息つくために、聞き手を務めていた者達にとっては語られた事実を素直に受け止めて己の心で整理するために、必要な時間だった。
「あなたたちは、なぜドーターにいらしたのですか?」
 マリアが静寂を突き破る。
 その質問には、語り手を務めていたアグリアスに代わって、アリシアが答えた。
「オヴェリア様の旅支度を調えるためよ。あした、市場を見に行くつもりよ」
「でしたら、私とイリアがご一緒します。顔なじみの店に行けば細かいことを聞かれずにすみますし、多少割り引いてもくれますから。イリア、いいわよね?」
「うん、薬草の補充もしたいから」
 ドーターを中心に活動してきた冒険者の言は、不慣れな土地で隠密行動の難しさを感じていた女騎士達にとって喜ばしく、修道院の外の世界を書物でしか知らない王女にとって頼もしい限りだった。
「感謝します」
 だから、自然とその言葉が口から出たオヴェリアだったが、続けて発せられた言葉にどきりと身を竦ませた。
「勘違いするな。俺個人の意見を言わせてもらえば、あんたたちの生死なんか正直どうでもいいんだ」
 イゴールは、ただ、王女と呼ばれる少女を見据える。
 色をなす女騎士達にも、驚きと困惑を織り交ぜた仲間達のまなざしも意に介さず、彼は続けて言った。
「ただ、ラムザがあんたを助けると言ったから、俺もあんたを助ける。それだけだ。だから、もし、あんた達がラムザの誠意を裏切るようなことをすれば、俺はあんたたちに弓引くだろう」
 鋭い緑の双眸を、オヴェリアはみつめ返す。やがて、彼女は静かに微笑をたたえた。
「わかりました。肝に銘じておきます」
 気分を害する様子もなく穏やかに発せられた王女の言葉に、イゴールは矛先を収める。
 その後、明日の予定に関する事務的な会話が続き、双方の合意が得られると冒険者達は立ち去っていった。
 慣れ親しんだ者だけの空間になった途端、オヴェリアの顔に陰りが差す。
「うらやましいわ」
「なにが、でございますか?」
 ラヴィアンの質問にオヴェリアはすぐに答えず、白いレースのカーテンが揺れる窓へと視線を転じた。
「ラムザさんには、真剣に心配してくれる友人が四人もいるのね」
 紺碧色の瞳は、本館へと遠ざかっていく四つの背中を映している。
 哀しさと寂しさを滲ませたその横顔に、女騎士達はかける言葉を見出せずただ王女の傍らに佇むことしかできなかった。


 赤くなっていた西の空が、徐々に暗さを増していく。
 コン、コォン、コン。
 その変化をぼんやりと眺めていたラムザは、耳朶に滑り込んできた物音に振り向いた。
 微妙に強弱の異なるノック音が、短い旋律のようにも暗号のようにも聞こえる。
 ―――ラッドか?
 少し遅れて、内側から鍵を掛けていたことを思い出す。ベッドに下ろしていた腰を上げ、ドアに歩み寄った。
「ラムザ」
 扉に触れようとしていた手が、ぴたりと止まる。
 耳に優しく響くソプラノは、明らかにラッドの声ではない。
「わたし、イリアだけど…」
「―――っ!」
 ラムザは大きく息を呑み、その場で勢いよく回れ右をした。
「あのね、イヤならね、無理に開けなくてもいいから」
 こちらの気配を感じ取ったのか、イリアが躊躇いつつも言葉を紡ぐ。
 ラムザは背を向けたまま、硬直していた。
 扉を開けるどころか、振り向くことさえできない。
「ただね、少しだけ、わたしの話を聞いてほしいの。」
 イリアの声は途切れがちで、元気がない。そうさせているのは間違いなく自分だ。辛いと思うのはお門違いだ。口元が自虐的な笑みを刻むのをラムザは自覚した。
「………」
 閉ざされたまま一向に開かれる様子がない扉を前に、イリアは小さく息を吐いた。
 背筋をしゃんと伸ばし、うつむいていた顔を上げて口を開く。
「あのね…、さっきは急に泣き出して、ごめんね。あなたにとっては急な話だったのに、こちらの気持ちをぶつけるばかりだったって、反省している。でもね、あのときに言った言葉は本当だよ。嘘じゃない。わたし、あなたに謝らないといけないことがあるの」
 途切れがちだったイリアの声が滑らかになるにつれて、痛々しさをも増していく。
 逆らいがたいものを感じ、ラムザは口を噤んで耳を澄ました。
「わたし…ね、知っていたの。エルムドア侯爵を骸旅団に誘拐させたのがダイスダーグ卿だったってことを…」
 ひっと鋭く短い音が、ラムザのすぐ耳許で響く。己の喉が鳴った音だと気付いたときには、膝から力が抜け落ちていた。背中が扉にぶつかり、ずるずると滑り落ちていく。
「盗賊の砦に出立する前、イグーロス城で半日だけ自由行動になったでしょう。わたしは城内の図書館に行ってたんだけど、閲覧した本に小麦の備蓄表が挟まっていて、読んでみたらランベリー領からの小麦の買い付けがやけに多かったの。そのときは『なんか変だな』くらいに思っていたんだけど…、風車小屋でウィーグラフの言葉を聞いてからは無視できない疑念になって、ジークデン砦から帰ってから軍師に尋問されたときに確信に変わった。『君のことはラムザからよく聞かされている。書物が好きなようだが、最近読んで感銘を受けた作品のタイトルを教えてくれないか?』って訊ねたときの軍師の目、すごく冷たかったから…」
 イリアの言葉の一つ一つが、耳の奥で木霊する。

 ダイスダーグが、イリアの名を記憶している。
 ジークデン砦だけでなく、エルムドア侯爵誘拐事件の真相を知る者として。

「わたし恐くて…、怯える態度でさとられると分かっていても身体の震えが止まらなくて…、牢に戻されてもいつ殺されるか怖かった。五体満足で士官アカデミーに戻されたときは、夢じゃないかって思うくらい信じられなかった。でも…、学長にお会いして、あなた一人が処罰されたって聞いて、ものすごくショックだった。わたしの分を含めて処罰されたんじゃないかって」
 イリアは扉に当てていた手を降ろし、ゆっくりと目を閉じる。

『なんでラムザだけが処罰されるんですか!』
 軍師の手紙を読むなり、激したアデル。
『ジークデン砦で北天騎士団に敵対行為をしたのは私達だけです。ラムザは一人だって斬っていません!』
 怒りの顔を染めて、ジャック教官に詰め寄るマリア。
 ぎりっと唇をかんで手紙を握りつぶしていたイゴール。
『…すまない、結局見つけることができなかった』
 自分たちに向かって深々と下げられた、砂色の頭。
 非情な現実を認めたくない。理不尽を許せない。心の底から納得できるまで、抗いたい。そう思っているのは自分だけじゃなかった。みんな、そうだった。
 そのことを、あなたに伝えたいの。

「士官アカデミーを飛び出して一年間、あなたにもう一度会いたいと願っていた。ジークデン砦のことをきちんと謝って、あなた一人に全てを押しつけてしまった無力な自分と決別したかった。そして、今度こそ、仲間としてあなたを守るんだと誓った。魔法以外に取り柄のないわたしが言っても説得力ないかもしれないけど、本当だよ」
 閉じていた目をゆっくりと開き、扉の向こうにいる彼に笑いかける。
「だから、わたしはわたしの意志であなたについていくよ。たとえ、もう一度北天騎士団を、軍師を敵に回すことになっても構わない。…アデルも、マリアも、イゴールも、みんな同じ気持ちだから。だから、あなたがわたし達のことを仲間だと思っているのなら、わたし達の気持ちを頭ごなしに否定しないでほしいの」
「―――っ!」
 決然たる彼女の声に、ラムザは告げる言葉が見つけることができない。
 薄い扉を挟んで、沈黙が両者の間を満たす。
 やがて、扉からイリアの気配が遠ざかった。
「わたしがあなたに伝えたかったことは、それだけ。…じゃあ、また夕食時に会おうね」
 ぱたぱたと走る足音が徐々に遠ざかり、完全に聞こえなくなる。
「どうして…」
 ラムザは膝を抱え、額をその上に乗せた。
「ジークデンで死にそうな目にあったというのに…なんで、まだ僕のことを…」
 震える唇が、じぃんと熱い目頭が、意思の楔を解き放つ。
「僕のことなんて放っておけばいいのに…そうすれば僕は―――っ!」
 最後の言葉は、嗚咽に掻き消された。

>>次頁へ | >>長編の目次へ | >>前頁へ

↑ PAGE TOP