罪と罰(2)>>第一部>>Zodiac Brave Story

第十五章 罪と罰(2)

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 穏やかな光が窓から部屋の中に差し込んでいる。
 頭上から降り注ぐ温もりに、マリアは顔を上げた。
 四方を取り囲む、石の壁。粗末なワラ布団のベッド。木のテーブルに椅子。部屋の片隅に置かれたついたて。室内からは開閉不能な鉄製の扉。その上部に取り付けられた、鉄格子つきの小さな窓。
 目に写った物自体に変化はない。
 ただ、背後から降り注ぐ光によって、その物が備え持つ色・形がよりはっきりと見えるだけであった。
「私、こんな所で何をやっているのかしら」
 掠れた声での呟きに答えはない。重苦しい雰囲気が醸し出す、苦い沈黙が返ってくるだけである。
 マリアはため息をつき、頭を巡らす。
 太い鉄格子が填められた窓の向こうは、あの日と違って、青い空が何処までも広がっていた。


 あの日。
 惨劇から目を逸らし、逃げるように灰白色の砦を立ち去ったあのとき。
 厚い鈍色の空から降ってきた白いものに最初に気づいたのは、イリアだった。
 息を呑む音に、号令でもあったかのように、全員が頭上を仰ぎ見たのをマリアははっきりと覚えている。
「嘘だろッ!? 」
 アデルが仰天し、
「雪か」
 イゴールが確認するようにつぶやく。
 マリアは手をかざし、雪のひとかけらを手のひらで受け止める。それは瞬く間に小さな水滴に変わり、革のグローブに小さな染みを作った。
「金牛の月に雪が降るなんて…初めて見たわ」
「わたしも」
 イリアが頷くのを横目で見ながら、マリアは振り返った。
 砦の上空には雲が厚く重く垂れ込めており、雪が螺旋状になって粛々と降り注いでいる。その情景は、息が詰まるほど綺麗だった。
 不意に、景色が滲む。
 マリアは手の甲で目尻を拭い、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す。ようやく視界が元に戻ったと思った刹那、それは起こった。
 砦から深紅の炎が吹き上がる。
 僅かに遅れて、爆音が辺りに響き渡った。
「―――ッ!」
「ラムザ! ディリータ!!」
「くそッ!」
 小さく悲鳴をあげたのは、誰だったか。
 砦にいる仲間の名を叫んだのは、誰だったか。
 鋭く舌打ちしたのは、誰だったか。
 正直、よく覚えていない。
 気がつけば、全員が、全速力で来た道を逆行していた。
 四人の中で最も足が速く、しかも身軽なアデルが先頭を、そのすぐ後ろをイゴールが走る。若干距離をあけて、イリアとマリアが続いた。彼女たちが出遅れた理由ははっきりしている。マリアにとっては胴に装備しているチェインメイルの重さが、イリアにとっては高位の白魔法――蘇生魔法を行使したことによる倦怠感が、足枷となったのである。
 砦に近づくにつれて、むんとした熱気が肌を撫でていき、喉を焼いて呼吸を乱す。それに構わず、四人の候補生達は一気に勾配のきつい坂道を駆け上った。
 砦の全容が見え始めたとき、一際大きな爆発が起こった。正面奥の一番大きな建物が火を噴き、砦を構成していた物質が破片となって宙高く舞い上がっていく。どんという鈍く重い音にマリアが頭を巡らせば、真っ赤に焼けた煉瓦が地面に小さな穴を穿っていた。
「イゴール、左は任せたぁ!」
 アデルは水筒の水をすべて頭にぶちまけ、火の海へ飛び込む。
 イゴールは背中の長弓と矢筒を取り外し、マリアに向かって放り投げる。彼は後ろを見向きもせず、叫んだ。
「お前達は退路を確保しててくれ!」
 燃えさかる炎に怯むことなく、イゴールも砦へと駆け出していく。
 長弓と矢筒を両手に抱えたマリアは、唇を噛んだ。退路を確保せよといわれても、彼女に火災を静める術はない。消火作業に役立つ水場は付近にないし、黒魔法の凍結呪文は使えない。また、自然の力を借りる風水術も習得していない。イリアなら凍結呪文を使えるが、疲労が顕わな彼女に無理をさせる訳にもいかない。出来ることといえば一つくらいしかない。
 火勢と熱気に後ずさりしそうになる足を渾身の力でその場に釘付けて、マリアはじっと前を見据えた。瞬きする間も惜しんで、火が燃えさかる方角を見定め、風上に立っていることを確認する。そして、砦にいるはずのラムザとディリータの無事を祈り、助けにいったアデルとイゴールの帰還を待った。
 そうして、どのくらいの時が経過しただろうか。
「あっ」
 隣にいるイリアが小さく声をあげ、左側面に走り出す。マリアが視線を巡らせば、炎の壁越しに、二つの人影が見えた。
「ブリザド! 」
 裂帛を籠めたイゴールの言葉に、炎の壁は消え失せ蒸気が吹き上がる。それは数秒間の出来事でしかなかったが、アデルとイゴールが脱出するには十分だった。二人は目を見張るほどの速度で、こちらに向かってくる。
 マリアも地を蹴った。アデルの背中におぶさり彼の両肩にだらんと腕を垂れている誰かを認めたからだ。そして、ものの数歩も走らないうちに、マリアにはその人物が誰か理解できた。アデルの両肩から垂れている赤い腕に絡みついている、青色の布。春の空によく似た色合いの布で縫われた上着の持ち主は、ラムザだ。
 ―――彼は無事だったのね。
 マリアの足は一つ安堵し、もう一つの懸念事項を走りながら尋ねた。
「ディリータは!?」
 駆け寄ってきたアデルの表情が凍り付き、イゴールが目を伏せる。
 周囲の熱気が、一瞬、消え失せた。
「みつからなかったの?」
 イリアが、静かに問うた。
「ああ。周辺をぐるっと探したけど、火の勢いが激しくてこれ以上は…」
 悔しそうにアデルが呟いた。
「ここも危険だ。安全な場所まで退避する」
 マリアから長弓と矢筒を奪うように取り戻すと、イゴールは風上へ駆け出した。ぎりっと歯噛みして、アデルもその後に続く。マリアは小さく悲鳴をあげた。アデルが背を向けたことで、見てしまったのだ。彼におぶさっているラムザには意識がなく、その背中は左肩を中心に真っ赤に腫れ上がっていた。


 イゴールの言った「安全な場所」とは、具体的にはどこを意味したのだろう。
 あのとき、彼は迷うことなく北東の山道を…フォボハム領に通じる道を選んだ。重度の火傷を負ったラムザのことを考慮するなら、砦からも最も近く、しかも優秀な医者がいると断定できるイグーロスに向かうのが普通なのに。
 今思えば、彼は誰よりも冷静に現実を直視していたのかもしれない。
 私達は、北天騎士団に所属する騎士に刃を向けた。
 ティータちゃんを射殺するよう命令を下した騎士団が信じられなくなったから。
 ディリータがアルガスに殺されそうになったから。
 騎士達に殺気まじりの剣を向けられたから。
 そのまま大人しく殺される理由が胸のどこにも見出せなかったから。
 理由はいくらでも思いつくが、『騎士団の命令に異議を唱え、任務遂行中の騎士を殺害した』という事実は変わらない。決して覆らない。
 今なら、彼の行動も、あのときの状況も、理解できる。
 だけど、当時の私は何もわかっていなかった―――。


 ろくに整備されていない山道を、最初は走り、やがて疲れでとぼとぼと歩くようになって半時間が経った頃。人一人がやっと抜けられる曲がりくねった岩場を抜けると、天をも焦がす火柱を上げていた砦が嘘のように思える景色が広がっていた。
 雪が交じった北風は止み、鈍色の雲の切れ間からは陽の光が帯状に降り注いでいる。眼下の谷底には岩山に囲まれた森があり、せせらぎが流れていた。
「水だ!」
 アデルは歓声を上げ、背中のラムザを気遣いつつ岩山を駆け下りる。
「あそこなら落ち着いてラムザの治療ができるね」
 続けて、イリアも滑り落ちるように谷底へと下りていった。
 マリアはイゴールを見た。彼は眉間に深い縦皺を刻んでいた。
「イゴール?」
「あ、ああ、すまない。俺達も行こう」
「ええ」
 マリアとイゴールの二人が岩山を下りると、アデルはせせらぎの近くにある小さな洞窟にラムザをうつ伏せに寝かしつけ、イリアはその傍らで自分の鞄をまさぐっていた。
 二人分の外套の上に横たわるラムザは、ぴくりとも動かない。双眼は閉じたままであり、その背中には、火傷の応急手当として、ぐっしょりと水に濡れた手布が当てられている。手布の端から見える赤く腫れ上がった皮膚が、腕に絡みつく袖の布地が、毛先の半分以上焼け縮れている金髪が、あまりにも痛々しかった。
「アデルは水をたっぷりと汲んできて。イゴールは魔法薬の数を数えて」
 鞄から大小様々な小瓶と金属製の小箱を取り出しつつ、イリアが矢継ぎ早に指示を飛ばす。即座に指示に従う二人を横目に、マリアは訊いた。
「私は?」
「……ナイフ持ってる?」
「予備の短剣ならあるけど」
「貸して」
 マリアは右腰の短剣を鞘から抜き、イリアに差し出す。
 受け取ったイリアは銀色の刃をじっと見つめ、すぅーと長い息を吸い込んだ。濃紺の紐で一つに束ねられたラムザの髪を握りしめ、紐より下の部分に刃を当て、ばっさりと切ってしまう。
 マリアは思わず叫んだ。
「ちょっと、いいの?!」
「患部に髪の毛がかかると衛生上良くないし…ここまで酷く痛んでいるなら、切った方がいいよ」
 イリアは唇だけを動かし、許してね、と呟く。
 その手のひらから金の髪がこぼれ落ち、か細く射し込める西日を受けて一瞬きらりと光った。
「これ、ありがとう」
「…うん」
「イリア。全員の荷物をみたが、魔法薬はポーションが四個しかない」
 返されたダガーをマリアが受け取るのと、焦りを含んだ声でイゴールが告げたのはほぼ同時だった。イリアの顔が曇る。
「だったら、魔法薬は全部両腕の火傷に使うわ。イゴール、そっちはお願い」
「背中はいいのか?」
「効力が見込めないと思う」
「わかった」
 イゴールは一つ頷き、懐から小刀を取り出した。ラムザの両腕に絡みつく袖を切り裂き、鞘に収める。イリアから茶色の小瓶を受け取ると、中身を清潔そうなハンカチに含ませ、ラムザの両腕を丁寧に拭っていく。つんとしたアルコールの臭いがマリアの鼻を刺激した。
「お〜い、ひとまず空になってた水筒に水を入れてきた。まだいるか?」
 両腕に四つの水筒を抱えたアデルが、洞窟内に駆け込んでくる。
「たぶん大丈夫だと思う」
 イリアは小声で答え、治療を始める。
 ラムザの背中にあてられた手布を慎重に剥がし、水筒の水でもって火傷の部分を清めていく。水浸しになった患部を柔らかで清潔そうな白い布で丁寧かつ慎重に拭き、水気を拭う。続けて、別の手布を手に取り、イゴールが先程行っていたのと同じ作業を…消毒をしていく。
「回復魔法はかけないのか?」
 横から見ていたアデルが疑問を呈する。イリアはかぶりを振った。
「体力がかなり落ちているから、回復魔法はかえって逆効果になる」
「どういう意味だ?」
「回復魔法は、対象者の体力を代償にして自然治癒力を強化促進する魔法よ。そして、上位の魔法になればなるほど対象者の体力の消耗が少なくてすむの。切り傷や擦り傷程度なら対象者の体力が十分にあるからケアル…初級魔法で十分だけど、傷の具合が重いと対象者の体力も低下しているから、上位の回復魔法でないと怪我の完治と同時に衰弱死する危険性があるのよ」
 マリアがアデルに詳しい説明する。行使できない故か魔法に全く興味がない黒髪の候補生は、ぽんと軽く手を打った。
「イリアが『回復魔法は万能じゃない』と口酸っぱく言っているのは、そういうことか」
「………」
 当のイリアは答えなかった。彼女は、額からこめかみに流れる汗を拭うこともせず、黙々と治療を続けている。消毒が終わると、手元に置いてあった瓶を取り出し、手のひらに無色透明な軟膏を落とす。金属製のへらですくい取り、両腕の火傷より白っぽく腫れている左肩から背中に向かって伸ばすように、慎重に丁寧に塗っていく。
「イリア、こっちは終わった。包帯をしておいたほうがいいか?」
「うん。皮膚の免疫力が下がっているから」
「わかった。マリア、そこの包帯をとってくれ」
「これね」
 イゴールが指さす包帯を手渡すついでに、ラムザの両腕を見る。綺麗な肌色だった。先程までの腫れや発赤が嘘のよう。これなら数日もしないうちに剣を持てるようになるだろう。マリアは一つ安堵し、イゴールの作業を手伝った。
 ちらりと横を見れば、アデルもイリアの手伝いをしていた。使い終えた手布をまとめたり、軟膏を追加したり、ガーゼや包帯など治療に使う物を順序よく渡したりしていた。
 こうした共同作業がようやく終わり、火傷を負った部分が全てガーゼと包帯に覆い隠された頃には、洞窟内はすっかり暗くなっていた。頭を巡らせば、空は厚く重い暗灰色の雲に覆われ、小さな花びらのような雪が宙を舞っている。
 四人の候補生はラムザを洞窟内に残して外へ出た。一息つき、お互い目配せする。最初に口を開いたのは、イゴールだった。
「手当はあれで十分なのか?」
 鋭い瞳でそう問われたイリアは、申し訳なさそうに俯いた。
「ひとまずはね。でも、今後、脱水によるショック症状が起こる可能性が高いの。火傷の範囲がかなり広いから。ショック症状が起こる前に、医者に診せた方がいいと思う」
「イリアがいるから大丈夫じゃないのか?」
 楽観的なアデルの意見に、当の彼女はゆるゆるとかぶりを振った。
「わたしは少し医術をかじっただけ。半端な知識に基づく医療行為は、最も危険よ」
「そうかぁ」
「ここから一番近い街はイグーロスね」
「イグーロスはダメだ」
 マリアの意見はきっぱりと拒絶される。彼女は片眉を心持ちつり上げ、イゴールを睨めつけた。
「でも、ここからリオファネスまで数日はかかるわ。ガリランドも似たような距離。ラムザの体力がそこまでもつとは思えない」
「何もリオファネスに行く必要はない。フォボハム平原にある村なら半日の距離だ」
「地図にも載らない村にイグーロスと同等の医者がいるとは思えないわよ!」
「だが、イグーロスに行くよりは遙かにマシだ!」
 マリアは目を瞬いた。いつも冷静なイゴールが、声を荒げている。かっと頭に上った血が急速に下がっていった。
「それはどういう意味なの?」
 イゴールは唇を真一文字に結び、口を閉ざす。
 口を開かせるべくマリアがじろりと睨み付けても、射抜くような瞳で見つめるアデルにも怯むことなく、沈黙を保ち続ける。
 長い長い静寂の中、困惑と疑問だけが胸の内で膨れあがっていく。
 だが、マリアがそれを爆発させる前に、アデルが声を張り上げた。
「そこにいるのは誰だ! こそこそ隠れていないで出てこい!」
 視線を森に向け、すっと身構える。
 その刹那、マリアも森に潜む気配を察知する。時を同じくして、森の手前の茂みから数十人もの兵が姿を現した。彼らの手にあるのは、巻き上げ済みの自動弓。鎧の左胸に刻まれているのは、白獅子の紋章だった。
「すまない。立ち聞きする気はなかったのだが、でる機会がなかった」
 左横から発せられた低い声。
 マリアは愕然として振り返る。そこには、彼女が感知していなかった、そして見知っている人物がいた。
 燃えるような赤い髪を短く刈り上げ、澄ましたような物腰の男。黒に近い青色の衣装についている階級章は、将軍に次ぐ地位――将官のものである。
「あんたはっ!」
 アデルが唸るように言う。当の相手はそれに構わず、
「彼らは砦に先行していた候補生達だ。身元は私が保証する」
 茂みにいる兵達に告げた。
「はっ」
「引き続き作戦を続行してくれ。ただし、ドウベーの班はそこに待機すること」
「了解しました」
 がさがさと草を踏み分け、遠ざかっていく兵士達。
 エバンスは警戒心顕わな候補生達を順次見渡し、にこやかな笑顔で言った。
「ケンカはいかんぞ」
「ふざけるな。誰のせいでラムザがあんな大火傷をし、ディリータが行方不明になったと思っているんだ!」
 アデルが口に出した固有名詞に、エバンスの顔から笑みが消えた。
「どういう事だ?」
「どういう事だぁ…アルガスにティータちゃんを射殺するよう命じておいてよくそんなことが言えるなッ!」
「馬鹿な! ザルバッグがそのような命令を下すはずがない!」
「馬鹿はそっちだ! あいつは『軍師の命令だ』といった。だったら、将軍が知らないはずないだろうッ!!」
「アデル、少し落ち着け」
 口角に泡を飛ばして詰め寄るアデルを、イゴールが押しとどめる。
「落ち着けだぁ…お前よくそんなことが言えるな!」
「彼に文句を言っても状況は変わらん。いや、むしろ…」
 イゴールはそこまで言って、口ごもる。
 煮え切らない態度に、アデルは怒りの矛先を切り替えた。
「お前もさっきから何を言いにくそうにしてるんだ。何か知っているならはっきり言えよ!」
「口に出しても詮無きことだ」
「お前が勝手に決めるな! いつから一人で全てを決めるほど偉くなったんだよッ!」
「あぁ、もう、いい加減にして! 大声だしたらラムザの怪我に障るじゃない!!」
 アデルの怒号にイリアの叫びが覆い被さる。
 アデルはふんと鼻を鳴らしてそっぽむき、イゴールはバツが悪そうに俯いた。
「状況を説明してくれないか。この中では一番君が冷静そうだ」
 エバンスは亜麻色の髪の女子候補生に囁く。
 正直なところ、マリア自身も冷静とは言えない精神状態だった。彼女が押し黙っていたのは、ただ、仲間達に先を越されたにすぎない。
 胸の内にあるどろどろと暗い感情を表に出さないよう顔を精一杯繕い、ぽつりぽつりと語り出した。


 一通り話し終え、マリアは赤毛の騎士を見る。彼は絶句しているようだった。額に手をあて表情を隠す。長い長い沈黙の末、呻くようにいった。
「君達は、最悪のタイミングで砦に到着したということか」
 ならば、最良のタイミングとはいつなのか。全てが終わった後だとでも言うのか。
 そんな疑問がマリアの脳裏をよぎったが、口には出さなかった。
「あんたはここで何をしているんだよ。騎士ならチョコボという立派な騎獣があるじゃないか。どうしてさっさとジークデン砦に向かわない?」
 とげとげに尖ったアデルの指摘に、エバンスは騎士としての顔を取り戻す。
「我々は作戦に従って行動している。これ以上は、君達に言う必要ない」
「骸旅団員を捕縛若しくは殺害するために、ここで待ち伏せをしていた。ここには水がある。命からがら戦場を逃げ出した者が一息つくには、最適の場所だ」
 エバンスの表情に驚きの色が浮かぶ。候補生達も発言者を、イゴールを凝視した。
「敵と識別した者は全て始末する。軍師殿が好みそうな手だ」
 ひどく醒めた緑の瞳を面前の虚空に向け、呟く様に言う。
 数秒後、自分に注がれる複数の視線に気づいたのか、彼は顔を伏せた。
「なかなか見事な戦略眼と洞察力をもっているな。ほぼ正解だよ。そういうわけで、我々は勝手に持ち場を離れる訳にはいかないんだ」
 エバンスは一呼吸し、私人として最も気になることを尋ねた。
「ところで、ベオルブ候補生の容態はどうなのだ?」
「よくありません。火傷の程度は重く、回復魔法を受け入れる体力さえないのですから」
 代表してイリアが答える。エバンスは怪訝そうに眉を寄せた。
「ならば、何故君達はここにいるのだ? 本陣には数人の医師が控えているのに。位置は砦からイグーロス方面に向かえばすぐわかる。現在、君達は北天騎士団の一員として扱われているのだから、戦傷を負った場合無償で治療を受けることが…」
「“反逆者”でもか?」
 イゴールが口を挟んだ。
「俺はディリータを殺そうとしたアルガスに矢を射った。そのとき、あいつは言った。『反逆者だ』と。そして、『抵抗するなら殺しても構わない』とも。あいつの命令に従って、六名の騎士が俺達に敵対行為をした。大人しく殺される訳にはいかなかったから…」
「さっきも言ったが、ザルバッグが射殺命令を下すはずがない」
 続きの言葉を封じ込める様に、エバンスが断言する。
「あいつはティータ嬢を無事に救出するべく、あらゆる手段を講じていた。彼女が誘拐されてからたった一刻で、複数の部隊を捜索に当たらせていた。挟撃作戦という過度な兵力を動員する作戦を採用したのは、総攻撃開始を少しでも遅らせ、後背の部隊を丸々捜索にあてるためだ。先行部隊に君達を参加させたのは、行動の自由を与えるため。同時に、救出した際に見知った者がいる方が安心するだろうという心遣いもあったはずだ。
 そこまで彼女のことを考えていたあいつが、射殺を命じるはずがない。射手の独断による可能性が高い。命令違反・独断専行は処刑もありえる重罪。断罪されるべきは、君達ではなく客員騎士の方だ」
「…あなたの言うとおりだとしても、処罰を下す軍師殿は違うかもしれない」
 イゴールがぽつりと呟く。
「君はずいぶん軍師を嫌っているな。珍しい人だ」
 エバンスは茶化す様に言い、真剣な瞳をイゴールに向けた。
「オレの言葉が信じられないというならそれでもいい。だが、ベオルブ候補生に必要なものは、一刻も早い医師による本格的な治療のはず。本陣にはそれがある。それに、最新情報がまっさきに入るのも、本陣だ。生死不明のハイラル候補生のこともすぐにわかるだろう。君らの正当な権利は、オレの名――エバンス・フェグダにかけて、必ず擁護する。本陣に向かってはくれないか?」
「それは命令ですか?」
 アデルは相手に対する不信感を隠そうともせず、訊く。
 赤毛の将官は首を横に振った。
「強制するのならば、先程の兵でもって力ずくで連行している。そうしたくなかったから彼らを下がらせたのだ」
「では、なぜ連行しなかったのですか?」
 イリアが尋ねる。
 まっすぐ向けられた青紫の瞳にエバンスは少し考え、答えた。
「そうだな…失いつつある信頼を取り戻したかったから、かな」
「それは俺達の北天騎士団に対する信頼ですか? それとも、ザルバッグ将軍に対するものですか?」
「両方だな」
 イゴールの質問に、エバンスはさらりと答えた。面前の候補生の顔を順次見渡せば、亜麻色の髪の女子候補生が手を挙げていた。
「貴方がラムザやディリータを気遣う理由は何ですか? ラムザがベオルブ家の人間だからですか?」
 この質問に対し、エバンスに迷いはない。彼はきっぱりと言い切った。
「それは違う。二人は友人の…ザルバッグの弟だからだ」
 候補生達は無言で顔を見合わせる。軽く頷き合うと、イゴールが前へ進み出た。
「軍師は信用できないが、あなたは信用できる。だから本陣へ向かう」
「でも、私達は総攻撃における北天騎士団の対応を容認した訳じゃない。間違ったことをしたとも思っていない。何ら罪のないティータちゃんを犠牲にした勝利なんて、認めたくないから」
「民を守るどころか犠牲にする騎士団なんて、本末転倒よ」
「ディリータは実の妹を喪った。ラムザは信じていた者に裏切られた。これ以上あの二人を傷つけるようなことをしてみろ。許さないからな!」
 赤毛の将官は候補生一人一人の言葉にじっと耳を傾け、茂みに控えていた騎士を招き寄せた。
「話は聞いていたか?」
「あらかたは」
「では、彼らと共に本陣に向かってくれ。治療のためイグーロス城へ戻るのであれば、貴官らも同行してほしい」
「はい」
「くれぐれも丁重にな。あとは頼む」
 彼は候補生達に向かって軽く頭を下げ、そして、森へ入っていった。


 ―――私は本当に正しい選択をしたのだろうか。
 自問するも、マリアには答えが見出せない。
 そのときは最善だと思っていた。
 本陣には、あの騎士の言うとおり、医師が数人控えていた。そして、医師達はすぐラムザを診てくれた。彼の容態について、これから起こるであろうショック症状について、わかりやすく説明してくれた。また、本陣に同行してくれた騎士は、ディリータの消息がはっきりしたらすぐ知らせると約束してくれた。
 しかし、状況は刻々と変化する。
 過去において最善の策が、現在も最善とは限らない。
 その事に思い至らなかった自分が、愚かだったのか。
 本陣からイグーロス城の北天騎士団本部施設にラムザを移送させると医師達が決めたとき、私は特に疑問に思わなかった。よりよい治療を受けさせるなら本部施設の医療棟の方がいいという説明に、納得したからだ。
 そして、イグーロス城に着くなり私達はラムザと引き離された。彼は担架でどこかへ運ばれていき、私達にはそれぞれ部屋が与えられた。「休息をとるがいい」という言葉に甘え、暖かい食事とお風呂を堪能し、提供されたベッドで睡眠を貪った。
 瞼を指す光に目を開ければ、全く違う部屋――室内の様子から誰もが独房だと認識する場所――にいたなど、誰が想定できただろうか。
 マリアはテーブルに頬を埋め、瞼を閉じ―――、
「―――!」
 がばっと身を起こした。
 硬い音が響く。
 石畳を靴底が踏む音だ。誰かが、マリアがいる独房へと近づいてきているのだ。
 彼女は叫んだ。
「誰っ!」「誰だ!」「誰だよ!」
 複数の声が重なる。
「………え?」
 扉の小窓に張り付けば、一人の男性が見えた。年の頃は三十代後半か。赤銅色の髪を全て後ろに流し、鉄鉱石のような瞳をこちらに向けてくる。纏っている黒の式服の肩に飾られた紐は銀色。それは、軍師直属を示す徽章だった。
「士官アカデミー第五七期生第三班の諸君、ご機嫌いかがかな?」
「三日もこんな所に閉じこめられて機嫌が良い訳ないだろうッ!」
 幅広い通路を挟んで正面の独房から発せられた、怒声。
 目を眇めれば、扉の小窓に顔を密着させているアデルが見えた。
「ラムザの具合はどうなんだよ! ディリータの消息はわかったのか!」
「ベオルブ候補生は、北天騎士団に籍を置く医師が診ているよ。安心したまえ」
 男はあっさりと答える。
 マリアは不信の眼差しを向けた。
「信じられないかね、ベトナンシュ候補生?」
 男は殊更に姓を強調する。
 ―――君達の身上は調査済みである。
 そんな声なき声が聞こえてきそうだ。
「理由も説明せずに監禁を命じる人の部下を、信じられると思うの?」
「もっともな考えだな」
 男はわざとらしく頷いた。
「だが、私は嘘はいっていない。ベオルブ候補生を死なせるわけにはいかないのでね」
 意味を図りかね、マリアの思考は一瞬凍結した。
「どういう意味だ」
 はす向かいの扉の中にいる人物が、凄味のある声で言う。姿は見えないが、恐らくイゴールなのだろう。
「つい先程報告が入った。『ジークデン砦の火災はようやく鎮火し、焼け跡を調べたところ焼死体が七つ発見された。完全に炭化しているが故に身元確認は難航しているが、纏っていた装備から推測するに軍師の別命を受けていた騎士七名の可能性が高い』とね。ここまでいえば、わかるだろう?」
 マリアははっとした。
 他の仲間達もすぐ気づいたのだろう。
「ディリータは生きているのね!」
 隣の独房からイリアが嬉しそうに叫び、
「俺達を取り調べるつもりか」
 吐き捨てるようにイゴールが言った。
「ベオルブ候補生の容態が落ち着き次第、諸君らには人質となった少女が射殺されてから爆発炎上するまでの経緯を話してもらう。なお、諸君らには命令違反の嫌疑もかかっている。“言葉”を慎重に選んで真実を話した方が身のためだぞ。身内の者に累を及ばせないようにするためにもな」
 最後の言葉は独語に近い、低い声での呟きであった。
 だが、日常的な雑音が一切ない牢獄では、彼ら彼女らの耳に大きく響いた。
 男は踵を返し、立ち去ろうとする。
「おい、ちょっとまて! 身内の者って…家族に何かするつもりか!!」
 アデルの怒号が男の背中に浴びせられる。
 その歩みが止まった。
「一つ重大なことを言うのを忘れていた」
 男は振り返り、いかにも思い出したかのように言った。
「ミザール候補生には閣下が直々に尋ねたいことがあるそうだ。そのつもりでいるように」
 足音が遠ざかっていき、やがて、聞こえなくなる。
 後に残されたのは、鉛が気化したかのような重苦しい静寂だけであった。

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