第十五章 罪と罰(3)
振り返れば、いつも君がいた。
燦めく春の日も、緑濃い夏の日も、澄み渡る秋の日も、全てが静まる冬の日も。
君はいつでも僕のそばにいてくれた。
そして、君は僕に教えてくれた。
喜びは一緒に味わうことで、より大きな喜びへ昇華されることを。
一人では背負いきれない重荷は、共に分かち合うことで軽減できることを。
悲しみに挫けそうなときは、無理に堪える必要はなく素直に泣いてもいいことを。
本当に大切なことを、君は笑顔と共に教えてくれた。
僕は君からかけがえのないものをたくさん貰った。
僕は君に何かを返せたのだろうか…。
ラムザはうっすらと瞼を開く。視界一杯に白いものが広がる。肌触りが良く微かに陽の香りがした。数回瞬いていると、視点が合ってきた。リンネル製の布だった。同時に、ラムザは自分がうつ伏せにされ、大きな枕のようなものに上体をもたせかけているのに気がついた。少し遅れて、上半身は素肌を隠すかのように包帯が巻かれ、麻色のガウンが着せられていることにも気がついた。
「僕は…いったい…?」
まわりを見ようと思い、身体を起こし首をねじ曲げる。途端に、背中に激痛が走った。
「―――っ!」
悲鳴を押し殺し、瞳だけを素早く左右へ動かす。
部屋は広くない。また、見覚えもなかった。
壁は石材を積み上げられて作られており、正面には頑丈そうな鉄製の扉が一枚あった。目に見える範囲で家具と認識できるものは二つだけ。自分が俯せている寝台と脇にあるサイドテーブルだ。テーブルの上には持ち歩いていた私物――着替えなどが収納された背負い袋、鞘に収められた一振りの長剣、髪を束ねるのに使っていた濃紺の紐――が置かれていた。
不意に、ティータの笑顔が、紐を贈ってくれたときの微笑みが頭をよぎる。
ラムザは手を伸ばした。腕は指先から肘に至るまで丹念に包帯が巻かれており、動かすごとに引きつるような痛みがする。身体は背中に鉛でも乗せたかのように重く、意志に反してちっとも動いてくれない。しかし、彼は渾身の力を込めて腕を伸ばし続けた。
数十秒の格闘の末、ようやく指先が紐に触れたとき、金属音と共に扉が開かれた。
「まだ動いてはいかん!」
入室してきた誰かが叫び、寝台に身体を押さえつける。紐は指の先をすり抜け、ぽとんと床に落下した。ラムザはすぐさま目を下に向けたが、ベッドが邪魔でどこに落ちたか分からない。
「ん? これが取りたかったのかね?」
枕脇に立つ人物が身体を屈めて紐を拾い上げ、差し出してくる。ラムザは礼を言いつつ受け取り、改めて相手を見た。
小柄な老齢の男性だった。頭部に白い布を巻きつけ、その端から顔を覗かせる髪も同じ白。動きやすい平素な衣服の上に、これまた白色のローブを羽織っている。清潔感のある格好だ。柔和そうな丸い顔には、見る者を安心させる何かがあるように思えた。
「儂は医者じゃよ。三日前、お前さんは酷い火傷を負ってここに運ばれてきた。覚えているかね?」
胸を射られたティータ。
アルガスの哄笑。ディリータの怒号。
轟音。爆発。炎上する砦。真っ赤に染まった空。ふわりと降り注ぐ白い雪。
火傷という一言が、ラムザの記憶巣に決定的な一撃を与えた。
「ディリータは! ティータは!?」
思わず身体を起こしかけた途端、再び激痛が襲いかかった。背中が燃えるように熱い。
「動いてはいかんと言うとる!」
医師はラムザの身体を押さえつつ、厳しい口調で言った。
「お前さんには見えないだろうが、火傷は広範囲じゃ。左肩から背中にかけて真っ赤に腫れ上がり水疱もできておるのじゃ。無理に動くと水疱が破れ、感染症を引き起こしかねんぞ」
「あの…僕のほかに火傷の治療を受けている人はいますか?」
痛みに顔をしかめつつ、ラムザは尋ねる。
白眉の間に悲しみの色をのせて、痛ましげに目を伏せて、医師は答えた。
「総攻撃が開始されてからの急患は、お前さん一人だけじゃ」
相手が嘘を言っているようには到底思えなかった。
ディリータは、ここにはない。
ティータも、いない。
治療を受けているのは、自分だけ。
―――では、二人はどこにいるのだろう?
自問すると同時に、ある想像が脳裏をかすめる。
「―――うっ」
不意に、突然の吐き気を覚えて、ラムザは口元を抑えた。
「う、うぅ…」
喉元にせり上がってくる嘔吐感を必死に堪えた。
見間違いだと思いたかった。混乱した精神が見せた夢だと思いたかった。
だけど、あのときと同じ引きつるような痛みが脳裏にある光景を突き付ける。
あの爆発の瞬間。
時間が止まったかのような一瞬。
石造りの城塞から吹き上がった炎は、蹲るディリータと彼の腕の中のティータを瞬時に呑み込んだのではなかったか。救い出そうと差し伸べた手は届かず、閃光と爆風によって阻まれたのではなかったか。
「うそだ…うそだよね…」
そう呟くも、否定するだけの証拠はない。どこにもない。
それどころか―――
爆風によって陸橋から地面に落下したとき、二人がいた陸橋は綺麗さっぱり吹き飛んでいたではないか。目に写る物は全て炎に包まれ、天をも焦がすように燃え上がっていたではないか。舞い散る雪さえも一瞬で蒸発していったではないか。
肯定するに足りる状況証拠だけが、次々と思い浮かぶ。
己の発想に寒気がした。目眩もする。
背中は焼けつくように痛いのに、身体はぴくりとも動かないのに、頭だけがさかしく働き続ける。そして、悪夢のような記憶を繰り返し再現していく―――。
「薬湯をもってくる。安静にしていなさい」
唐突に医師はそう告げ、部屋を出て行った。扉の向こうから、がちゃんと鍵がかけられる。ラムザは一抱えほどの大きさはあるクッションに顔を埋めた。
「うそ…だよね…。ディリータ」
***
廊下へと足を踏み入れるなり、扉の両脇に控えていた兵士二人のうち一人が扉を閉め、もう一人が手早く錠を下ろす。見事な連携作業に、老人は鼻を軽く鳴らした。
自分がいるのは、イグーロス城内にある無数の建造物のうち、一、二を争う程の堅固さを備えた北の塔の最上部だ。
北の塔は、元々、敵に城内を占拠された場合における城内の住人の最終的な避難所――キープと呼ばれる防衛施設だった。今から約三百年前は内乱と反乱が相次いだ時代であり、安全のため、時の城主は家族・側近・侍従と共にこの塔で暮らしていたという。厚さ数メートルという分厚い石の壁の中で、成人男性の頭部半分にも満たない小さな窓から差し込む日の光を明かりとするだけの、暗く冷たい生活。時の住人は、さぞ暮らしにくかったのだろう。数十年の時間をかけて城内をすっぽり覆う堅固な城壁が完成されるなり、彼らは居住を居館(パラス)に移した。そして、残されたキープは、いつしか罪人を抑留・拘禁する牢獄として利用されるようになった。
最初に誰がその利用法を思いついたか知らないが、罪人の逃走防止という趣旨からすれば適当であると老人も認める。だが、衛生環境上の観点から考えると、問題がありすぎる。分厚く冷たい石の壁に囲まれた、三メートル四方の狭い部屋。天井に近い部分に小さな空気孔から日が差し込むだけの、薄暗い空間。普通の人間が長時間いて精神上の異常を訴えない訳がない。まして、あの少年が――身体は完治まで数週間はかかる火傷を負い、精神は親しい者を喪った事に深く傷ついた彼が耐えられるとは思えない。医師としては、即刻、もっと環境のいい場所に――例えば北天騎士団本部にある医療棟に移転させたい。
しかし、そう主張しても通らないこともよく分かってはいた。
北の塔に移送されたという事は、何らかの形で法を犯した事を意味する。騎士見習いという身分から推察するに、軍規に違反したのだろう。
そして、残念ながら、軍事に関して老医師に権限はない。騎士団の上層部が拘禁を命じたのならば、それに従うしかない。医術に携わる者として出来ることは、患者の心身に気を配りながら治療に最善を尽くすことだけだ。
―――それにしても。
老医師は扉の両側で直立不動の姿勢で立つ兵士二人を一瞥し、歩き出した。廊下を通り、段差の激しい螺旋階段を慎重に降りていく。
―――どうも変じゃな。
牢内にいる患者は自力で立つ体力さえない重傷人だ。逃亡する可能性が皆無であることは、少々の知恵を回せば誰にでも分かることだ。それなのに、扉前の監視の兵を二人も配置した。ならば、監視対象となっているのは牢に出入りする者、すなわち、自分の動向だ。余計なことをしないように、不要なことを口に出さないように、見張っているのだろう。
他人との接触を極力避けるべく、厳重な監視の下におかれた少年。
―――彼は、そこまでするほどの重要人物なのか?
老医師は軽くかぶりを振った。あの少年の個人情報については、老医師には一切知らされていない。火傷を負った経緯・年齢・所属部隊は勿論のこと、名前さえもだ。知らされたのは、「どのような手段を講じても生かし続けろ」という無情な命令だけだ。それに、考えても少年を取り巻く環境が変わるわけでもない。
老医師は小さく息を吐き、思考の方向性を今後とるべき治療の模索に切り替えた。熟考していたんだろうか、
「ケヒト医師」
背後からの呼びかけに振り返ると、周りの景色は、塔内部の螺旋階段から北天騎士団本部施設に通じる二階の渡り廊下に変わっていた。
「受け持ちの患者は、どのような具合ですか?」
赤銅色の髪をもつ少壮の男性が、穏やかな声で尋ねてくる。老人は、黒を基調とした軍服に胸部から肩にかけられた銀の飾り紐――軍師直属であることを示す徽章――に気づき、答える義務があることに思い至り、事実を告げた。
「先程、ようやく意識が戻りました」
「そうですか」
男性は一つ頷き、老医師の横を通り過ぎ本部施設方面へ足早に向かっていく。老医師は特に気にもせず、少年が落ち着くまでの時間を稼ぐために、医療棟へ通じる道を歩むことを再開した。
***
『願いを等しくする友を、この手で助けるために』
その誓いが、心の奥底にあった不安と孤独を埋めてくれた。
『その時点で、臆病者じゃないよ』
軽く叩かれた背中は、暖かった。
『俺には彼女が敵とは思えない』
その一言が、胸の内を掻き乱していた嵐を静めてくれた。
『俺はラムザを信じる!』
悔し涙を堪えつつも君がそう断言してくれたことが、嬉しかった。
同時に、君の信頼を受けることが誇らしかった。
君は、いつだって、望む言葉を望む時に言ってくれた。
そうして、僕の支えになってくれた。
―――僕は君の支えになれたのだろうか。
ぴんっという金属音に、ディリータの姿は淡雪が溶けるようにかき消えた。意識がゆらゆらと浮上する。
瞼を開いて最初に見たものは、またしても白色のクッションカバーだった。肌触りの良さは変わらないが、少し湿り気があった。
―――いつの間にか眠っていたのか。
ラムザは貼り付いたような重さを感じる瞼を上げ、背中を動かさないように気をつけて首を横に向けた。視界を塞ぐ髪をかき上げ、正面を見遣る。一人の男性を従えて入室してくる人物を視認した瞬間、ラムザは硬直した。
「久しいな、ラムザ」
剣の切っ先に似た灰褐色の瞳を僅かに緩め、暖かみある声で、彼は言う。
「ダイスダーグ兄さん…」
ラムザは続けて声を発しようとしたが、数瞬後、そのまま口を閉じた。この兄には、訊きたいこと、言いたいことは山のようにある。だけど、何から言えばいいのか、何から問えばいいのか分からなかった。
「容態はどうなのだ?」
「左肩から背中にかけての火傷が最も重く、医師は完治まで三週間はかかると言ってました」
滑らかにそう答えたのは、ダイスダーグの隣にいる赤銅色の髪をもつ男性だった。
「魔法治療はしたのか?」
「脱水症状が酷く、体力面から問題があったとか」
「ふむ」
かつかつと靴を鳴らしてダイスダーグが近づく。狭い室内だ。三歩目でベット縁まで近づいた彼は、すっと手を伸ばした。指先が背中に触れ、ゆっくりと中央から上へと移動していく。最も熱を帯びた箇所――左肩にその指先が触れた瞬間、走った激痛に耐えられずラムザは小さく悲鳴をあげた。
「報告に偽りはないようだな」
ダイスダーグは淡々とした口調で言い、手を離した。
ラムザは深呼吸を繰り返す。十秒ほどの時間をかけて苦痛を鎮静させる事に成功すると、瞳を動かし、兄の表情を窺う。無表情だった。何を考えているか、何を思っているか一切相手に気取らせない鉄壁のポーカーフェイス。
―――恐い。
ラムザは、ただ、そう思った。
「三週間も待つつもりは、私にはない」
ダイスダーグは再び片手をラムザの背中に伸ばした。今度は、ガウンに触れるか触れないかの距離で止める。抑制のある声で、一定の律動を帯びた呪文が紡がれていく。
「ケアルジャ」
ダイスダーグが小さく呟いた言葉に、ラムザは目を見開いた。
ケアルジャ。それは、回復魔法における最高位の呪文である。効果は絶大だが、祝詞(のりと)に対する理解の困難さと膨大な魔法力を消費するため、熟練の白魔道士でも行使できる者は数少ないとイリアが言っていた…。
青い光が、ダイスダーグの手から溢れ出し、ぬるま湯のような温かさを帯びた風が背を撫でて、左肩へと収縮していく。背中の細胞一つ一つが脈打ち蠢動するかのような感覚が、背筋を這う。未知の感触にラムザはきつく目を閉じた。
「起き上がりなさい、ラムザ」
瞼の裏に感じていた光が収まるなり、ダイスダーグが命じる。
聞く者を従わせる力を帯びた声に、ラムザはおずおずと身を起こす。そして
「え?」
首を傾げた。苦痛を感じない。いや、遙かに軽減されている。先程までは誰かが触れるだけで身を飛び跳ねるほどの激痛を感じたのに、いまは鈍く痛むだけだ。
ダイスダーグは戸惑いの表情を浮かべてマットレスに腰を下ろす弟を見下ろし、片手を軽く横に動かした。
「レナード、席を外せ」
「承知しました」
レナードと呼ばれた男性はダイスダーグに一礼し、部屋を出て行った。鉄製の扉がばたんと閉められる。
室内に残された二人は、暫し無言だった。
ラムザは俯き、手元に視線を落とす。右手にある濃紺の紐を睨み付けるように見ている。
ダイスダーグはベッドの足下にあった簡素な造りの椅子を枕もとに移動させ、腰掛けた。一向に顔を上げようとしない弟の表情は、ざんばらに切られた金髪に隠れて判別しがたい。彼は、伝え聞いた事柄から相手の内心を推し量り、適当と思える言葉をかけた。
「砦のあらましは、おおよそ聞いている。お前には辛い思いをさせたな」
労るような声音に、ラムザはぎゅっと拳を握りしめた。『辛い』という単語だけで片付けられるほど、あの喪失感は軽いものではない。腹の底から湧き上がった怒りが恐怖を払いのけ、心の奥底にあった疑念と混じり合う。数秒後、それらは奔流となってラムザの口から溢れ出た。
「兄さんはアルガスに一体なにを命じたのですか。どうしてティータを射させたのですか! ティータの身柄が確保されるまで総攻撃はしないと言ったではないですか!! ティータのことを実の妹のように想っているといった言葉は、嘘だったんですかッ!!」
「ラムザ、私は嘘などいっていない。あの兄妹とは八年間、同じ邸で同じ時を過ごしてきた。血の繋がりこそはないが、家族同様に想っていた」
「では、なぜッ!?」
ラムザは顔を上げ、初めて正面からダイスダーグを凝視した。
ダイスダーグは即答しなかった。躊躇からではない。自分の言葉を激昂する弟に十分染みわたらせるために必要だから、沈黙を保つ。炎に似た揺らめきをしている弟の瞳を平然と受け止め、頃合いを図る。そして、静かな声で言った。
「我らには果たさねばならない責務がある。閣下の剣として敵を屠り、その威光を世に知らしめるという責務が。『全てにおいて骸旅団殲滅を優先させる』という特命を忠実に履行する義務が。身内が賊に拐かされたという個人的な理由で、軍の行動に制限をかけることは許されない」
ラムザは違和感を感じ、ダイスダーグから視線を逸らした。右手を更にきつく握りしめる。手の中にある紐がちりっと小さな音を立てた。
「だから、アルガスに、ティータを…射殺するよう命じたのですか」
「ラムザ、それは違う。私は『骸旅団が娘の身柄を盾に撤兵を要求した場合、彼女を必要以上に傷つけることなく、人質としての価値がないことを奴らに汝の弓術でもって知らしめよ』と命じた。『射殺せよ』とは命じていない」
「同じ事です! アルガスはなぜか平民を憎んでいた。その彼に、ティータの生殺与奪の権利を与える事自体、殺害を容認するようなものではないですか! 兄さんは…、兄さんはアルガスを利用してティータを殺したんだッ!!」
ラムザは両手で顔を覆い、溢れ出そうになる嗚咽を堪えた。
少し遅れて、彼は違和感の正体をはっきりと理解した。
この兄とはよって立つ価値観が全く異なるのだ。長兄の言葉は、どれもこれも軍師としての回答だ。目的を達成させるため、戦局を俯瞰し冷然と策略を巡らす。必要とあれば、嘘をつくことも犠牲が出ることも厭わない。そして、犠牲となる者の個性に着目することはない。兄の頭の中では、犠牲者は単なる数字として認識されているのだ。
犠牲となった者は、ティータなのに。
彼女は、同じ邸で同じ時間を過ごし、数多くの想い出を共有する家族なのに。
めくるめく季節の中でけぶるような微笑みを見せてくれた、かけがえのない存在なのに。
「では、お前はどうなのだ?」
唐突にそう問われ、ラムザは虚をつかれた。
「え?」
意味を図りかねて顔を上げると、底光りのする灰褐色の瞳があった。
「お前はあのとき私に問うた。『ティータを見殺しにするんですか』と。なぜ言った。妹を誘拐されて不安がっているディリータの目の前で」
ラムザは困惑した。『あのとき』とはティータが誘拐されたとダイスダーグから聞かされたときを指しているということは分かった。記憶の泉を探れば、朧気にそう言った気がしたからだ。
言われてみれば、なぜ言ったのだろう。
ディリータが動揺していたのは明白だったのに。兄達の前では一歩後ろに退いたような態度を崩さない彼が、顔を強張らせ、不安を封じ込めるように拳を握りしめていたのに。彼の心情を考慮するならば訊くべきではなかったのに。
「お前はそのとき、『誘拐犯の要求に応じない』事で得られる戦略的効果を考えた。そして、その有効性を認めた。だが、それにはティータの死が高い確率でつきまとう。恐ろしくなって、否定してほしくて、お前は私の言葉にすがった」
「―――っ!」
ラムザは横っ面を鞘尻で殴打されたような衝撃を感じた。
その通りだった。あのとき、自分はダイスダーグの言うとおりの思考を辿った。目的のために誰かを切り捨てる。それは、アルガスが指摘した『利用する者』の発想。長兄と全く同じ考え方ではないかっ!
「違う」
そう否定する心の片隅で、「そのとおりだ」と肯定する声がある。
『たかが平民の小娘を助けるために盗賊の要求をのむと本気で思ってたのか?』
あのとき、僕は、一瞬返答に詰まった。そして、否定も肯定もしなかった。はっきりと肯定の言葉が出なかったのは、心のどこかでティータの死を仕方ないものと認識していたからではないだろうか。
「う、うぅ…」
ラムザは息苦しさをおぼえ、ガウンの胸元を掴んだ。頭の奥がずきずきと痛む。
徐々に激しさを増す頭痛に顔を歪めつつも、思い起こすのは自分の言動。
『大丈夫さだよ、ディリータ。ティータは無事さ』
不安を吐露する彼に、そう言った。
『行こう、ティータを助けに』
一緒に行くと言ってくれた皆に、そう告げた。
それなのに、僕は、心のどこかでティータの事を諦めていた?
「ち、違う!」
嫌悪感を振り払うように、ラムザは叫んだ。
「僕はティータを助けたかった!」
「それは私も同じだ。だが、仕方あるまい。北天騎士団を預かる我らが盗賊に屈することは、ラーグ閣下の権威を傷つけると同義。それだけは、断じて避けねばならん」
淡々とダイスダーグが言う。灰褐色の目が、ラムザを射った。
権威ヲ守ルタメニ、ティータハコロサレタ…。アルガスノ指摘ドオリニ…。
突き付けられた真実は冷たい楔となって、ラムザの心臓に深く打ち込まれた。
「あ…あぁ…そんな…」
ラムザは喘いだ。頭痛は頭をかち割るような痛みに変わり、息苦しさはますます増していく。胸元をさらに強く握りしめようとしたが、その手は小刻みに震えていた。
「……僕…は…」
権威という曖昧で不確かなモノのために、戦ってきたというのか。大切な人を見殺しにするために、剣をとったというのか。目的を達成するため何もかも利用する考えを培うために、この手を血に染めたというのか。
だが、極度の震えで麻痺した唇は、これらの述懐を言葉として紡ぐことはなかった。
視界がぐらりと揺らぎ、目の前に自然ならざる闇が降りてくる。
ラムザは抗うこともせず、その闇に、思考を浸し意識を委ねた。
『アルガスの次は、お前の番だッ!!』
全てが闇に呑まれる直前、脳裏をよぎったのはディリータの憤怒の形相。
僕はそう罵られて当然だったんだね。
何も知らかった僕は、君に何も伝えられず、何も返せなかったのだから。