うたかたの夢(2)>>間奏>>Zodiac Brave Story

うたかたの夢(2)

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 昨日訪れた酒場を、今朝再び訪れた。
「ここでちょっと待っててね」
 勝手口らしき扉の前で、シアはそう言う。彼は頷き、彼女が扉の向こうに消えるのを見届けた。
 扉がぱたんと閉められる。
 彼はしばし木製の扉を見つめていたが、そのうち飽きてしまった。視線を左右にめぐらせる。
 裏通りにあたるこの細い道は、店が立ち並ぶ表通りとちがって人気があまりなく静かだ。また、建物と建物の間にあるという立地条件のためか、薄暗くてほこりっぽい。敷石はところどころ剥がれているのに修理がされておらず、食べ滓や紙くず等のゴミがちらちらと目についた。
(ずいぶん荒れているな。五十年戦争の影響で財政が逼迫しているから、街の整備にあてる費用もけずられているのだろうか。それとも、近隣の人々に、掃除するゆとりが失われているのだろうか)
 そんなことを彼が考えていると、扉が開く音が耳朶を刺激する。
 振り向けば、開かれた扉の向こうにシアと恰幅のいい男性がいた。
「お待たせしました。わたしが<<一角獣亭>>の店主です」
「わざわざ時間をさいてもらい、ありがとうございます」
 たがいに儀礼的な微笑みを浮かべて、会釈をかわす。
 シアは店主の耳許で何かを囁き、彼に向かってウインクをして扉の向こうに去っていった。
「で、何用ですかな」
 彼は、昨日店内で騒動を起こしたことを謝罪し、放り投げた男性の容態を尋ねた。
「ああ、あの客でしたら、意識を取り戻した後は特に問題も起こさないで出ていきましたよ。それに、あの程度の騒動は商売上しょっちゅう発生しているので、わざわざ改めてお詫びしていただくほどのことではありません」
「そうですか…」
 遺恨なく解決されていたことに、彼は安堵した。
 用は済んだので店主にシアへの礼を託して立ち去ろうと思ったのだが、
「ところで、あなたは今まとまった時間がありますか?」
 と、呼び止められる。
 正直なところ、するべき事も行くべき場所も思いつかない。だから、彼は首を縦に振った。
「でしたら、今日一日ここで働いてもらえませんか?」
 彼は目を瞬かせる。
「実は、従業員の一人が急病のため欠勤してしまい、人手がほしかったところなのです。本日は大口の予約があるので、忙しくなるのは明白ですから。もちろん、あなたの都合がよければになりますが…」
 店主の表情は真面目そのものであり、冗談を言っているようにはとても思えない。
 ―――働く。仕事をする。
 彼は、それらの言葉を胸中で呟いてみた。
 意味はわかる。特定の相手方に対して労務に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約束することだ。
 だが、どこか実感がわかない。
 考えてみれば、当然である。
 彼には、労働という単語を裏付ける経験が全くなかったからだ。
 他人がしているのを遠くから見つめたことはあるが、金銭を得るために己の手足を動かしたことはない。要求されたこともなかった。疑問を感じ心苦しいと思ったことはあったが、否定することも拒絶することもなく、他人から与えられる労務を当然のように受けてきた。何らかの報酬を与えることもなく…。
「どうですか?」
 店主は真摯な態度でこちらの返事を待っている。
 彼はしばし考えたが、
「僕でよければ働きます」
 と応えた。
 未知の事に対する不安はあったが、好奇心もあった。
 そして、なにより触れてみたかった。知りたかった。理解したかった。
 世界の本当の有り様を、そこに生きる人々を。


 薄汚れた外套と衣服を脱ぎ、提供されたベージュ色の服に着替える。白いエプロンを上から羽織り、紐をしめる。一緒に手渡された白い紐で髪を一つにまとめてくくろうとして―――
「くっ、うまくいかない」
 彼はうめいた。
 くくり慣れた長さより短くなっているせいか、紐を巻いているうちに横髪がばらりと落ちてしまう。しかも、ここ最近ろくに櫛を通していなかったせいか、毛先がもつれていたりよじれてしまっていたりする。髪油――髪を束ねるのに使われる香り付きの油――でもあれば楽にくくれるのだろうが、そんな気の利いた物が下町の酒場にあるわけない。
 いうことを聞かない髪と格闘していると、ドアをノックする音がした。
「開けてもいい?」
「はい」
 扉が控えめに開かれる。扉の向こう、廊下にいたのはシアだった。
「準備はできた―って、髪がまだね。あたしがゆってあげるよ」
 駆け寄ってきたシアの手によって、紐が奪い取られる。続けて、手振りで後ろを向いているよう指示される。彼は大人しく従った。
 背後に立つ彼女の手によって、うなじ辺りの髪がすっと持ち上げられる。直後、
「きれいな色の髪ね」
 独り言のような呟きが発せられた。
「そうですか?」
「うん。太陽みたい。うらやましいな」
 不意に、彼の脳裏に様々な記憶が蘇る。
『クセはない、なのにコシはある。しかも、色は遠目にも鮮やかな金。いいわねぇ』
 はきはきとした口調。くしづかれる感触。後頭部に走る痛み。
『カツラを作ったら良い感じになるかも。ねぇ、切るときには必ず言ってね!』
 いたずらっぽく笑う青紫の瞳。
『いやぁ、おまえの髪は目立つから助かるぜ。特に、そのアホ毛!』
 満員の大講義室内で響き渡った大声。頭の一点を無遠慮に指されたのに、なぜか怒る気になれなかった。
『たしかに目立つ。かなり距離があっても見分けられるだろうな』
 低い声が発した呟き。本気か冗談か。判断に迷った。
『こいつは立派な個性の一つだよ。よかったな』
 口の端をニッと引いて笑ったのは―――
「―――ねぇ、ジーンったら!」
「え!?」
 正面から発せられた声によって、物思いが中断される。
 顔を上げれば、そこにいるのは焦げ茶色の髪をもつ少女。向けられた榛の瞳は、思い浮かべていた人物と共通する色。心臓が一瞬どきっと跳ね上がった。
「髪結えたよってさっきから言っているのに、なにぼんやりとしていたの?」
「えっ、あ…すみません」
 反射的に謝罪の言葉を口に出す。
 シアは暫くこちらをじっと見ていたが、
「いいわ。仕事場に案内するから、ついてきて」
 すっと横を通り過ぎ、扉をくぐっていく。
 彼はその後を追った。


 イグーロスの繁華街に位置する酒場、<<一角獣亭>>。
 客の注文に応じて飲食物の提供を行うだけでなく、旅人達に一夜の宿を提供し、世情や政治情勢などの情報を収集し、一定の金銭と交換にそれを伝達する。のみならず、イグーロス城下町における儲け話――冒険者や傭兵など戦う術を心得た者達へ金額と引き換えに労務の提供を求める――をも取り扱っている。
 つまり、さまざまな取引を行う場として経営されている施設なのだ。
 来集する客の目的が多様であるならば、それを歓待する側も多様な技能が要求される。
 彼は、いま、そのことを実感していた。
「ここから右側にある部屋を正午までに掃除してね。あたしは左側をするから」
 水を張った桶、箒や雑巾を器用にも片手で抱えて、シアは隣の部屋に消えた。
 彼は仕事場として案内された部屋――酒場の二階にある客室――を端から端まで眺める。
 部屋自体はそんなに広くない。十歩も歩けば四方の壁にぶつかるだろう。そして、家具も多くはない。隣室に接している両側の壁に密着するように寝台が二つ置かれ、その間には多目的用のサイドテーブルが設置されている。サイドテーブルの上には雨戸が下ろされた窓があった。
 こうして大まかにみれば、部屋自体は、一夜の宿を求めた旅人に提供する、典型的な宿泊施設の一室だ。
 それなのに………
 床のあちこちに転がっている幾つもの酒瓶。ぐちゃぐちゃに乱れたシーツ。寝台から放り投げたかのように置かれている毛布。そして、部屋中に充満しているアルコール臭。
(なにをしたら、一晩でこんなに散らかせるのだろうか)
 彼はため息を一つ零し、傍らに置いていた掃除道具一式を手に取って、部屋に足を踏み入れた。
 清掃作業そのものは順調だったと、彼自身は思う。
 雨戸を押し開き、室内に日光を入れると同時に換気をも行う。部屋中に散乱していた酒瓶は、使用済みのシーツと共に一箇所にまとめておく。少しかびくさい毛布は窓枠を利用して天日干しをし、箒で床を掃き清める。雑巾でサイドテーブルを拭こうとした際、
「もう終わった―って、まだなのね」
 戸口でシアの声がする。振り返れば、彼女は困ったような呆れたような表情をしていた。
「あのね、ジーン。あなたの担当場所はここだけじゃないのよ。あと四部屋あるのよ。それらは終わったの?」
「いえ、まだです」
「正午には客がいつでも入れるようにしておかないとダメなの。一部屋に三〇分以上もかけて…あと一時間しかないのに、残り四部屋が全部掃除できるの?」
 彼は驚愕し、焦り、そして項垂れた。
 受け持った部屋の数を忘れたわけではなかった。また、自分では効率よく清掃をしているつもりだった。しかし、想像以上に時間が経過していたらしい。どうも、時間を計るものが身近にないと調子が狂うようだ。でも―――
「仕方ないね」
 シアは両袖をまくり上げて、部屋に入ってくる。
「あたしが手伝ってあげるから、さくっと終わらせましょう」
 そう宣言した直後から、
「使用済みのシーツは、階段近くに置いてある大きな籐かごに載せて」
「酒瓶はまとめて厨房の裏口に置いてきて。駆け足よ!」
「あぁ、掃き残しがある! 部屋の隅から隅まできちんと掃かないとダメじゃない!!」
「そんなあまい絞り方じゃ床が水浸しになっちゃうわよ! ぞうきんはね、こうやって絞るの!!」
 と、矢継ぎ早に指示と叱責が飛び、シアの手足が素早く動き、室内のゴミや埃を取り除いていく。
 理屈を考える余裕もなく、彼は指示には従い叱責には謝罪し、身体を動かし続けた。
 その結果、正午の鐘が高らかに鳴り響く頃には、最初の部屋のみならず残り四つの部屋―――どの部屋も一番目のものと大差なく散らかっていた―――は整然かつ清潔なものへと変わった。
「ぎりぎりだけど間に合ったわね。さてと―――」
 シアは平然たる様子で思案を巡らしている。
 慣れないことをして体力のみならず神経を消耗した彼は、疲れを隠すために、細く長い息を一つ吐いた。


 シアから次に行くように言われた場所は、厨房だった。稼ぎ時である昼時を迎え、忙しいのだろう。酒場の主人はフライパンをもって縦横無尽に動き回り、揃いの白いエプロンを着用した女性達がひっきりなしに食堂と厨房を出入りしている。
「暇そうにしているなら、あっちへ行け!」
 竈(かまど)のそばで炒め物をしていた店主が、怒鳴り声を上げる。
 一瞬何を言っているのかわからなかった。が、手持ちぶさたにしているのは自分しかいないに思い至り、主人が指さす方角へ、厨房の裏口付近へ駆け寄った。そこには人一人が座れそうな大きさのたらいが二つあった。一つは泡だらけで、もう一つのは水が張ってある。
(これ、なにするためのものなのだろう?)
 疑問が脳裏をかすめた瞬間、
「これ、よろしくね!」
 一人の女性従業員がこちらに駆け寄り、真横にある台に十枚程の皿を積み重ねていく。どの皿も、油や食べ残しなどで汚れている。
(洗えってことかな)
 ヒントを元にたらいの付近を見渡せば、食べ滓を捨てるバケツやタワシが見つかった。台に備え付けられた取っ手には、清潔そうな手布が掛けてある。洗い終えた食器を拭くためのものだろう。
 そう目安をつけた彼は、右手にタワシを、左手に一枚の皿をもってたらいの側に腰を屈めた。
(マーサが厨房でよくやっていたなぁ…)
 懐かしさと悲しさが胸の内にこみ上げたのは、最初だけだった。
 次から次へと持ち込まれ山積みになっていく食器の数々が焦りを呼び起こし、長時間の中腰姿勢が情感を塗りつぶしていく。やがて、彼は、与えられた仕事を効率よく行うにはどうすればよいかを考え、思いついたことを身体に実行させていった。
 そうやって試行錯誤を繰り返して、どのくらいの時間が経過しただろうか。
「お疲れさん。もうあがっていいよ」
 そう店主から声をかけられたとき、腰と背中の筋肉はすっかり強張っていた。両足も無様にふらつき、床に尻もちをついてしまう。直後、複数の口から笑いが噴き出た。
「ジーン、大丈夫?」
 差し出されたシアの手をやんわりと断り、細心の注意を払って立ち上がる。顔を上げれば、周りにいる人達の中で最も愉快そうなのは店主だった。肥満気味の腹を両腕で抱えて笑っている。
 理由も分からず笑われて、心地よいと思う人間はまずいない。彼もその例に漏れなかった。自分でも、目つきがきつくなっていくのが分かる。
 直後、店主は笑いを収め背筋をしゃんと伸ばした。
「いや、失礼。ここまで熱心にしてくれるとは思っていなかったもので。どう見ても…」
「マスター」
 店主の言葉を、シアが遮る。
 意味ありげな声音が気になったが、
「これは給料です」
 店主から差し出された銀貨二枚に、彼の視線は釘付けになった。
「本日はお疲れ様でした。おかげで助かりましたよ」
 無意識に手が動いていたのだろうか。あかぎれが目立つ店主の手から自分の手のひらへと、二枚の銀貨が移動した。
 すしっとした重みが伝わる。
 銀貨自体は、彼にとって見慣れたものだ。十歳の頃から毎月一回父若しくは長兄から与えられてきたものであり、使い道がなく貯めていたそれらが懐にしまった財布に入っている。
 それなのに、こんなに重かっただろうか。
 こんなに輝いて見えただろうか。
 これほど貴重な物に感じたことが、今まであっただろうか…。
「どうされました?」
「ひょっとして、昼ご飯も食べずに食器を洗い続けたせいで疲れた?」
「うわ、この子、お昼食べてないの?…シア、あんたが連れてきたんだから、責任もって監督してあげないとダメじゃない」
「そんなこと言われても、あたしは洗濯で忙しかったのよ」
「あんまり仕事熱心だと、この子に嫌われるよ〜」
「愛想つかれたりしてね」
「そんなんじゃないってずっと言ってるでしょ!」
 シアの大声に、彼は話があらぬ方向へ飛躍している事に気づいた。銀貨を包むように右手を握りしめ、店主に向かって一礼する。
「こちらこそ、ありがとうございました」
 それ以外、告げるべき言葉が彼には思いつかなかった。


 酒場を出れば、街は夕陽によって淡いオレンジ色に染まっていた。
 今朝シアの後ろについて歩いてきた小道を、再び彼女と共に、逆に辿る。
「よかったね、ジーン。お昼ご飯包んでもらえて」
 彼は足を止め、彼女の背に声をかけた。
「シアさん」
「なに?」
「なぜ、店主に僕を雇うよう言ったのですか?」
「う〜ん」
 シアは振り返り、首を左右に傾げる。二つに分けて結った三つ編みが、動きにあわせて揺れた。
「お得意さんのキャラバンから予約が入っていたのにエメリーが急に熱を出して、人手が足りなかったのは事実なの。人件費を切りつめるためか、マスターは最低限の人しか雇わないから。急に人が減ると仕事量が倍増するのよねぇ」
「でも、ほとんど初対面の僕を紹介した理由は何ですか。役に立つ人材かわからないでしょう?」
「うん、酒場の仕事が完璧にできるとは思ってなかったよ。料理の要領は悪いし、食後の後片付け作業はとてもゆっくりだったし。でも…」
 今朝の出来事を指摘していた明快な口調が、最後には暗く沈んだものへと変わる。
 彼は無理に引き出そうとはせず、ただじっと続きを待った。
 そして―――
「でも、一番の理由は…そのままお別れになるのが勿体ないような気がしたからかな」
 その言葉に何と返せばいいかわからず、絶句した。
「そうそう、あたし、明日はお休みなの。だから、その髪切ってあげるね」
 不意に、話が変わる。
 前後のつながりがわからなくて、彼は首を傾げた。
「はい?」
「髪をくくるとき、約束したでしょ。忘れちゃった?」
 そう言われても、心当たりはない。正直にそう伝えたが、シアはふるふるとかぶりを振った。
「もう決定事項だもんね。さ、家に帰るわよ!」
 シアの手が手首に載せられ、腕を引かれる。
 そんなに強い力ではない。本気を出してふりほどけば、いとも簡単にできる。そのあとは、全力で走り去ればいい。そうすれば、もう、シアと会うことはない。
 心の片隅では、そう囁く声がある。
 それなのに、どうしてか、彼にはそれができなかった。



 用意するのは、クシとハサミにカミソリ、そして、予備の白いシーツ。
 水洗いをした木製の櫛がきちんと乾いていることを、ハサミとカミソリに錆びや刃こぼれがないのを、シーツの手滑りの良さを確認する。一通り検分し不備がないとわかると、彼女はそれらを両手でつかみ取り、室内を大股で歩き、右足で玄関の扉を押し開いた。
 正面から裏手へ足早に向かえば、家の煉瓦壁と生い茂った雑草との間に偶然できた空間に、椅子に腰掛けた少年がいた。両拳を軽く握って膝の上に置き、背筋をぴしっと伸ばしている。
「お待たせ」
 声をかけると、ジーンは首だけを動かし、問いたげな瞳をこちらに向けてきた。
「これとこれ、持っててね」
 彼女は敢えてその瞳に答えず、膝の上に散髪道具一式を載せる。シーツだけを片手に持って彼の背後に回れば、抗うように身動ぎした。
「本当に切るのですか?」
「もちろん」
 彼女は明快に断言し、シーツを相手の胸が隠れるように掛ける。端と端を肩に回してうなじで一つにくくりつけ、シーツに巻き込んでしまった髪を両手で掻き上げた。
「だって、こっちは顎のラインまでしかないのに、反対側のこっちは肩にかかっているのよ。切り口は大ざっぱだし、毛先はぱさぱさに乾いているし、枝毛もあるし。折角いい髪をしているんだから、きちんと整えてあげないとかわいそうよ」
 昨日髪をくくりながら言ったことを、再び、該当する箇所を軽く引っ張りながら告げる。痛みがあるせいか、大きめな声で言ったおかげか、今日はきちんと彼の耳に届いたようだ。言い終わると、ジーンは僅かに首を下げた。
「クシ、だして」
 ふわっと布が膨らみ、シーツの端から青い袖とクシを持った手が現れる。彼女が目的物を受け取ると、腕は下ろされシーツに隠れる。
 どうやら、シーンは抵抗を諦めたようだ。
 彼女は微かな笑みを口元に載せ、ぴんと撥ねた癖毛らしき一房を摘んだ。
「さぁてと、どんな風に切ろうかな。なにか要望はある?」
「…………」
「ジーン、聞いている?」
「………お任せします」
 返事が返ってくるまでたっぷり三十秒はかかった。しかも、なんだが声に元気がない。
(まだ何か不満なことがあるのかな)
 気になったが、彼は頭をむやみやたらに動かすこともなく、おとなしく椅子に腰掛けている。
(抵抗はしてないし、文句も言わないし、続けてもいいよね)
 自分でそう説き伏せ、彼女は作業に取り掛かった。
 毛先からクシを通し、滑らかになったらクシを上へ移動させてまた梳く。一房分を梳き終えれば、別の箇所の髪を手に取り、梳く。髪全体の状態を正確に把握するために、そして、痛んだ箇所を更に痛めないよう注意を払って、丁寧かつ念入りに行う。
 椅子に腰掛ける人物は沈黙を守り、彼女も作業に集中しているため率先して喋ろうとはしない。
 髪を梳く音。時折吹く風に乗って届く、近所の人の話し声。
 それ以外の物音がしない、静かな時間。それは、髪全体を梳き終え、髪についていた汚れがとれて毛先のもつれやねじれが解け、本来備え持っていた艶を取り戻すまで続いた。
「ハサミ、かして」
 櫛をスカートのポケットに仕舞って言えば、シーツの下でジーンはもぞもぞと動き、数秒の間を経てハサミの取っ手部分が差し出される。彼女は受け取り、空いた手でジーンの左耳下辺りの髪を掻き上げた。
(後頭部の左側が特に痛んでいたから後ろ髪を徹底的に短くして、側面の長さに合わせるようにてっぺんの髪を流せば形になるかな…)
 脳裏に描いた散髪設計図に従って、左手で髪を挟んで右手に握ったハサミでもって切断していく。切断された髪はシーツに落ち、その上を滑っていった。
「慣れていますね」
 切った箇所と全体とのバランスを確認している際、ジーンが控えめに声を掛けてきた。
「そう?」
「切り始めの時、躊躇というものが感じられなかったので」
「躊躇するなら『切ってあげる』とは言わないよ」
「それはそうかもしれませんが」
 ジーンは言葉を濁す。
 彼女は無理矢理聞き出そうとはせず、最前の彼の指摘を肯定した。
「昔は家族の…弟の髪を切っていたの」
「かぞく?」
「うん。手先がいちばん器用なのがあたしだったから」
 目をつぶれば、様々な思い出が胸をよぎる。
 山と森に囲まれた小さな村。煉瓦造りの素朴で簡素な家。
 日の出と共に畑に向かい、収穫を少しでも増やすために日が暮れても耕していた父。家畜の世話や機織りに保存食作り。いつも何かの作業をしていた母。食べられる野草を見つけてくるのが村の誰よりも巧みだった、二つ年下の弟。木イチゴ、ヤマモモ、ムクの木の実。弟が採ってくる季節ごとの木の実は、麦粥だけの食事に希少な甘みを添えてくれた。
 僅かな収穫と山の恵みに感謝して、家族全員ですごした日々。貧しくも、朗らかで暖かかった。
 なのに―――
『隣は、一人を出したらしい。うちもそろそろ…』
『そんなの嫌ですよッ!』
『だが、収穫が見込めない以上仕方ない』
『嫌です、だって、あの子はまだ十三歳ですよ!』
『なら、近い将来、飢え死にするのをなすすべもなく見ろというのかッ!』
 泣き崩れる母。その震える肩をそっと抱きしめる父。
 長雨が続いた二年前の夏のある夜、偶然見てしまった出来事。
 その二日後、両親が言い争った理由を知った。がたごとと揺れる馬車の中、重い鉄球に繋がれた足枷を填められた状態で目覚めたことによって―――
 瞼を開けば、弟の赤茶色のぼさぼさ頭とは異なる、豊かに流れる川のような金色の頭がある。髪を切る作業をするために椅子に座らせてから半時間は経過していると思われるのに、位置はあまり変わっていない。
「もっとも、“ジーン”はあなたのようにおとなしくなかったけどね」
「そうですか」
 呟くようにそう言ったきり、彼は詳しいことを聞いてこなかった。
 彼女もそれ以上語らず、散髪作業を再開する。
 切られた金色の髪が、音も立てずに、二人の周囲に散っていった。



 違和感がある。
 彼が最初に抱いた感想が、それであった。
 背中に手をあてても髪の感触はなく、動きを阻害されることもない。首をふれば、かつては動きにあわせて束ねた毛先が一緒に動いていたのに、今はそれもない。うなじを隠していたものがまとめて消え失せ、恥ずかしいような頼りないような気がする。
 そう感想を漏らせば、シアは明快に
「そのうち慣れるよ」
 と断言し、後片付けが終わるなり買い出しに行ってしまった。一人残された彼は屋内でするべきことを思いつけず、かといって「留守番お願いね」と頼まれたからには勝手に出ていくこともできず、家屋の裏手――さきほど散髪していた空き地――にいた。背中を壁に付けて地面に腰を下ろし、頭上を仰ぎ見る。屋根の向こうに広がる青い空が、真っ先に目に飛び込んできた。所々に綿のような白い雲が浮かび、後ろから前に向かってゆっくりと形を変えて移動している。彼は今にも空に溶けてしまいそうな一つの雲に注目して変化の様子を観察していたが、徐々に首が痛くなってきたので視線を正面に向けた。名を知らぬ草や蔦が、足下近くまで地を埋め尽くし、隣家との境にあるらしき石の塀をも覆い隠している。
「ん?」
 ふと、青々とした草むらの中にきらりと光るものが彼の目にとまった。興味惹かれ、立ち上がって手に取ってみる。それは、長さ五センチ位ほどの一本の髪だった。日の光を反射して、黄金色に輝いている。
 手に握ったそれを指先でくるくる回し、光の加減によって発生する色の変化を眺める。と、するりと指先から抜け草むらに落ちた。直後、強い風が吹く。何の抵抗もなく、それはふわりと浮き上がって宙を飛んでいく。風が収まってから辺りを見渡してみたが、もうどこにも見つけられなかった。
「軽いんだな」
 新鮮な驚きが、彼の胸中に湧き上がる。
 彼にとって長い髪を維持してきたのは、義務感からだった。人体急所の一つである頸部を守るために、母親の形見をいつも身につけるために、騎士として生きる決意を証明するために。必要なことであり、思慕であり、己への楔であった。
 しかし、今となっては、すべてが無意味だ。形見は人に譲り渡して手元にはない。剣を棄て戦うことを放棄したのだから、身を守る必要はない。唯一だと思っていた騎士への道は、自ら閉ざした。
 意義を失ったものは、不要なもの。
 未練たらしく背負う必要はなく、捨ててしまってもいいのだ。
 ならば―――
 彼は上着の胸ポケットに手を入れ、しまっていた物を取り出す。冷たい金属の感触がするそれに一瞥を向けることもなく握りしめ、勢いよく腕を振り上げた。そして……
「―――っ!」
 あげた腕が、おろせない。握力を緩めることも、できない。振りかぶった腕の筋肉が疲れを訴え小刻みに震えだしても、握りしめた物は手から離れない。離せられない。
 振り下ろせ、落とせ、捨ててしまえ。
 心はそう叫んでいるのに、身体が逆らう。
 ―――いや、抗っているのは………。
 本心が閃く。直後、両足から力が抜け、地面に膝を打った。打ち付けたところがずきずきと痛んだが、それ以上に痛いところがある。彼は空いた手で胸元を握りしめた。
「ははっ…」
 笑い声が彼の唇を割る。明るく朗らかなものではない。それは自嘲だった。
 自分にとって苦くて辛くて嫌だと思うものは捨てることについては、なんら感慨を覚えなかった。なのに、暖かくて心地よくて嬉しいと思えるものは棄てることができないのか。心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖を感じるのか。なんて自分勝手で浅ましく、卑しい心なのだろう。こんな自分の弱さが、多くの人を傷つけ殺して“彼”からの信頼を喪わせたというのに―――
「最低だ」
 言葉に出せば、とめどなく笑いの衝動が押し寄せる。彼は逆らうこともせず、その感情を声に載せ続けた。

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