うたかたの夢(1)>>間奏>>Zodiac Brave Story

うたかたの夢(1)

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Prologue

 日常なんて、作業の繰り返し。
 朝、日の出と同時に起き、顔を洗って食事をとる。身支度が調えば、仕事場となっている酒場に行き、着けばマスターに挨拶をして、料理の下ごしらえを手伝う。午前10時を告げる鐘が鳴れば、白いエプロンを着けて厨房から食堂に移動し、客の注文を聞く。腰や尻を触ろうとする無礼者を適当にあしらい、うわべだけの笑顔を浮かべて料理を届ける。客の波が落ち着く頃を見計らって昼食を食べ、日没までの時間を再び接客と清掃に費やす。マスターからあがりの許しがでれば、酒場を後にし、お金に余裕があれば公共浴場に行って身体を清め、無ければ家にまっすぐ帰って、疲れた身体をベッドに沈める。
 陽が昇れば、また同じ作業の繰り返し。
 十日に一度ある休みでは多少変わるが、家の維持や衣服の洗濯・食事作りなどの作業に追われるという点において、仕事との違いはない。
 物語に登場する英雄のように大事をなすことも、酒場にやってくる冒険者達のように立身を求めることもない。
 作業の積み重ねによって時間が経過し、月日が流れ、日常という単語の意味となる。
 ―――彼女は常々そう思っていた。


 しかし、些細なことから変化は訪れる。
 当人が望んだとしても、望まないとしても。




「やめろ!」
 制止の叫びが上がったとき、正直驚いた。
 鋭い語気に気圧されたかのように、腰に回されていた腕が緩み、尻をなで回していた手が離れる。その一瞬の隙をついて彼女は身体を捻り、不作法な客から距離をとった。
 発生源の方に目を向ければ、薄茶色の外套を羽織った人物が席を立っている。目深く被ったフードに隠れて顔は見えないが、随分小柄だ。声から判断するに男の人だと思うのだが。
「なんだぁ、おめぇは…」
 相手の背丈に気勢を取り戻したのか、男は酒臭い息を辺りにまき散らしつつその人に近づく。相手の視界を塞ぐように立ち、無駄に高い身長と分厚い身体で威嚇するかのように胸を張った。
「オレ様は、このイグーロスで知らない者はいないダラス様だぞ。凄腕の冒険者だぞ!」
(凄腕というけど、冒険譚はとんと耳に入らないけど)
 内心でツッコミをいれるが、口にはださない。
 酒癖が悪かろうが、不平屋だろうが、ほら吹きだろうが、客であることに変わりはない。ウエイトレスという立場からも、愛想の代価たるチップを貰うためにも、いらぬ怒りを買うことは得策ではないからだ。
 一方、フードの人物はそんなしがらみがない立場ゆえか、
「聞いたことありませんが」
 淡々とした声音で答える。そして、
「今のあなたはどう考えても、嫌がる女性に不埒な行為をしている酔っぱらいです」
 余計なことを付け足す。
 直後、男の顔はアルコール以外の影響で真っ赤になった。
(揉め事決定だわ)
 身の安全のため、彼女は剣呑な気配を醸し出す二人からさらに距離をとった。
「お前こそなんだ、この良い陽気に暑苦しく外套なぞ羽織って。ツラくらい見せろ!」
 男の手によってフードが払いのけられる。隠されていたものがあらわになった瞬間、思わず彼女は息を呑んだ。
 有り体に言えば、凄い綺麗な“少年”だったのだ。
 卵形の輪郭。ミルクに朱を混ぜたような肌に、澄み切った青灰色の瞳。僅かな歪みもない鼻梁に、柔らかくも引き締まった唇。顔を形作るパーツの全てが完璧かつ絶妙なバランスを持って配置されている。
 顔を縁取る黄金色の髪がかなり痛んでいること――肩のラインで適当に刃物をあて、ばっさり切ったような印象がある――を差し引いても、その美貌は損なわれていない。
(深窓のお姫様ってこんな感じなのかしら)
 彼女は状況を忘れて、思わず見とれてしまった。
「こりゃ、凄い美人さんじゃねぇか。お前、男にするにはもったいないぜ」
 男は短く口笛を吹き、少年の肩に馴れ馴れしく手を置いた。
「こんな薄汚い外套よりもそこらのウエイトレスが着ているスカートの方が数倍似合うぜ、坊主。なんだったらオレが着せてやろうか?」
 その刹那、少年が動いた。相手の襟元を乱暴に掴んだと思った瞬間、男の身体は宙に飛んでいた。音を立てて石床に落下する。白目を剥いて、男は床に横たわっていた。
 少年が何かをして、酔っぱらいの男を投げた。
 それは理解できる。
 だが、彼女には、その手段が見えなかった。いや、正確に言えば目はきちんと映しているのだが、脳が伝達された情報を認識する前に少年の動作は終わっていたのだ。彼は、外見に似合わず、卓越した武芸の持ち主だったのだ。
「…あ」
 その少年といえば、なぜか苦しげな表情を浮かべて男から手を放す。そして、懐から取り出した貨幣をテーブルに置いた。銀貨が一枚。注文していた食事代金の、およそ五倍の額である。
「お騒がせしました」
 穏やかな、だがよく通る声で彼は言い、頭をすっぽりとフードで覆い隠して外に出て行った。
 木製の扉が軋む音と共に、集中していた他の客達の視線も散っていく。
 同時に彼女もはっと我に返った。厨房に駆け込み、エプロンを脱ぎ捨てる。
「マスター、今日、早引けさせてください!」
 咎める店主の言葉を無視し、彼女は裏口から表へ飛び出し、店の入り口にまわる。
 幸いと言うべきか、薄茶色の外套を羽織った小柄な後ろ姿はすぐ見つけられた。行き交う人で賑やかな表通りから薄暗い路地に入ろうとしている。
「待って!」
 ありったけの大声で呼び止めると、彼は足を止め、振り返ってくれた。
「あなたは?」
 駆け寄るなり、フードの奥から怪訝そうな声が発せられた。




 妙なことになった。
 彼はそう思う。
「お茶入れるから、そこに座って待ってて」
 焦げ茶色の髪をお下げに結わえた少女はそう告げ、ついたての向こうに消えた。彼は言われたままに椅子に腰掛け、辺りを見渡す。
 煉瓦造りの壁に板張りの床。家具といえば、中央に置かれたテーブルと二脚の椅子と数種類の布をつなぎ合わせた衝立のみである。足下に視線を落とせば、床には傷や凹凸が目立つ。ほんの好奇心で踏んでみれば、ぎしと軋んだ。
「あまり力を込めて踏まないでね。床が抜けるかもしれないから」
 茶器同士が擦れ合う澄んだ音に混じって、咎めの言葉が耳に届く。
「ごめんなさい」
 衝立の向こうに見える少女の影に向かって謝れば、
「やだ。そう素直に謝られるとこっちとしても困るよ」
 と、笑いを含んだ声が返ってくる。彼はどう言えばいいか解らず、口ごもる。その反応さえ少女にとっては面白いものだったのか、彼女はくすくすと笑った。
「そういえば、名前まだ言ってなかったね。あたしはシア。あなたは?」
 ついたての端から顔を覗かせて、シアと名乗った少女が尋ねてくる。彼は、先程とは全く違う理由で、どう答えればいいか迷った。
 彼の名前は、ここイグーロスでは、ある階級に属する者達に広く知れ渡っている。もちろん、面前の少女がその階級に無縁であることは、纏っている衣装とこの家屋の状況から容易く推察できる。
 しかし、油断は出来ない。七年間を過ごした“あの家”は、近隣の街や村に住む人達を積極的に使用人として雇っていた。そして、自分は、彼らから話が聞きたくてよく顔を見せていた。この少女の身内あるいは知り合いが勤めており、自分のことを伝え聞いている可能性も否定できない―――。
「どうしたの? 名前、忘れちゃったの?」
「あ、その…僕…」
 気遣わしげな声に応じる方便が思いつかず、彼は手元に視線を落とす。
 居心地が甚だ悪い沈黙が、二人の間に流れ、長々と室内を満たした。
「ねぇ、ジーンって呼んでもいい?」
 思いもがけない提案がなされる。彼は心の底から安堵し、次いで何度も首を縦に振った。
「よかった。あと少しでお茶が入るから、待っててね。ジーン」
 見る者を安心させる微笑みを残して、シアは再びついたての向かい側に戻っていく。彼は相手に気取られないように気をつけながら、ため息をつく。
(これって騙していることになるのだろうか)
 胸の奥がずきっと痛んだ。


 窓から差し込むオレンジ色の光が室内を照らし、琥珀色に染めている。
 手を伸ばしたカップはほんのりと暖かい。立ちのぼる湯気は頬をくすぐるように撫で、ゆっくりと天井に昇っていった。
「さあ、どうぞ」
 勧められるままにカップを傾け、暖かい液体を喉に流し込む。舌に馴染んだものより渋みと苦みが強い茶葉のようだが、薄めに淹れてあるせいか飲みにくさは感じなかった。
「おいしい?」
「はい」
「よかった」
 シアは口元を微かに綻ばせ、次いで、頭を下げた。
「改めてお礼を言わせて。あのとき助けてくれてありがとう」
 感謝されることは何もしていない。
 それが彼の素直な心情である。
『あの、助けてくれてありがとう!』
 あのとき、息を弾ませて駆け寄った彼女…シアに、彼はかぶりを振った。
『そんなことない。あたし、初めてだった。エッチなことをしようとする客から見返りもなしに助けてもらったのって。とても嬉しかった』
 そういう彼女は、本当に嬉しそうだった。
 しかし、こちらとしては、感謝の言葉を重ねられれば重ねられるほど心苦しい。
 あれは、彼女を助けるためにやったのではないからだ。
 女性にとって無条件で嫌悪感を誘う行為に対し、笑みを浮かべていた少女。恐いはずなのに、嫌なはずなのに、他人に心情を悟られまいと必死に表情を取り繕っている。
 その様子が、遠い昔のある記憶に、雪舞う城塞での出来事に直結した。これ以上見ることが耐えられなくなって、声をかけていた。
 男の暴言で頭に血が上り、投げ技で口を封じ込めて、ようやく気づいたのだ。
 辛いと思ったのは、面前の光景に対してではない。何も出来なかった無力な自分を思い知らされることが、恐かったのだ。
 全ては、自分が満足するためにしたことである。
 他人に、シアに、感謝される謂われは全くない。
 だから、
「僕は、感謝されるようなことは何もしていません」
 彼は同じ言葉を繰り返す。だが、
「ねぇ、それってずいぶん傲慢じゃない?」
 ため息と共に返ってきたのは、思いもよらない言葉だった。視線をカップから正面に移せば、シアは真剣な表情で自分を見つめていた。
「あたしは嬉しかったし、感謝しているのよ。でも、さっきから、あなたはそんな言葉はいらないといって、こちらの気持ちを受け止めようとしない。ううん、違う。最初から無視しているよう。それって、あたしの気持ちや感情を軽視しているのと同じよ」
 ―――そうかもしれないな。
 そんな自嘲めいた想いが胸中をよぎる。
 彼女が発した感謝の言葉は、聞こえている。言葉の意味も、きちんと認識している。しかし、指摘された通り、言葉に込められた気持ちを受け取ることを拒絶している。
 嫌われることが恐くて、自分の気持ちをきちんと言葉に載せることをしなかった。
 辛いことから目を逸らし、耳に心地よい言葉だけを信じ、背後に潜むものを深く考えようとしなかった。
 その結果、多くの人を傷つけ、大切な人達を失ったというのに。
 つい二週間前の出来事なのに。
 忘れられない、いや、決して忘れてはならないことなのに。
 僕は、また、同じことを繰り返そうとしていたのか―――。
「ごめんなさい。その通りかもしれません。でも…」
 ありったけの勇気をだして、彼は続きの言葉を、本心を口に出す。
「僕はあなたを助けるためにしたんじゃないんです。ただ、あの状況を見るのが辛くて、目の前から排除したかっただけであり、全ては僕が手前勝手にしたこと。あなたに感謝されるような立派な行為じゃない」
 いつの間にか俯いていた顔を上げれば、シアは変わらず真剣な表情で自分を見つめていた。
「あなたがそう思うならそれでいいよ。でもね、あたしが『嬉しかった』と伝えたことだけは、心に留めておいて」
 優しく思いやりのある言葉だ。
 己の気持ちを正しく伝えられたことに安堵し、シアの気遣いに感謝した。
「はい」
 頷き、カップに半分ほど残っていたお茶を一気に飲み干す。そして、席を立った。
「ごちそうさまでした。そろそろおいとまします」
「えっ、もう?」
「はい。そろそろ日も落ちますし」
「夕飯くらい食べていけばいいのに」
「そこまでしてもらうわけには、いきません」
「あたしがあなたに、ジーンに食べさせてあげたいから誘っているの!」
 シアは椅子を蹴倒し、ばんっと両手でテーブルを力強く叩いた。
「酒場で食事をとれなかった原因はあたしにあるのだから、夕飯くらい食べて行きなさい!」
 声高に叫ぶシアを目の前にし、彼は対応に戸惑った。
 そこまで甘えることはできない。
 それに、より切実な問題がある。
 食器の数や家屋の規模から判断するに、シアは一人暮らしだ。今から食事を作るとなると、出来上がるのは早くて日没後、遅ければすっかり暗くなっているだろう。
 同年と言ってもいい少女の家に男の自分が夜分遅くまで居座っては、倫理上、非常にまずい。
「そこまで甘えることはできません」
「甘えじゃなくて、感謝の気持ちよ! 男なら鷹揚に受け止めなさい!!」
「いえ、あの、その…男だからこそ…」
「ああ、もう、ごちゃごちゃうるさい! あなたがあたしの家で夕飯を食べることは、すでに決定事項なの。じゃないと、家に招待した意味がないじゃない。わかったわね!」
 シアの手がテーブルに当たる度に、テーブルが激しく揺れる。床もけたたましい音を立てて軋んでいる。テーブルに置かれた彼女の陶器のカップは、今にも落下しそうだ。
 奇妙に迫力あるその姿に彼は気圧され、反射的に首を縦に振ってしまった。
「よし、じゃあ、暫く待っていてね。すぐ取り掛かるから。あ、お茶のお代わりいる?」
「いえ、お気遣いなく」
 朗らかな笑顔にそう答えた声は、自分でも疲れのある声だなと思った。



 がたごたと響く物音で目が覚めた。
 寝台から身を起こし、耳を澄ます。物音の発生源は隣室…台所兼居間のようだ。
(泥棒かな。こんな家にくるなんて物騒になったものね)
 この家は、元は廃屋だった。持ち主不在のまま放置されていたものを、彼女が適当に改修して住んでいるだけだ。出ていけといわれればいつでも出て行けるように、生活する上で必要最低限のものしか置いていない。泥棒が好みそうなもの…貴金属や調度品などを蓄えているような家には到底見えないはずだが。
(あきらめて帰ってくれれば、ことは丸く収まるんだけどなぁ)
 数分待ってみたが、物音が静まる気配はない。
 それどころか、「あれ?」「おかしいなぁ」と、訝しむ声まで聞こえだしてきた。
 彼女は含み笑いをする。
(素人の泥棒か。これなら、機先を制すればあたし独りでも撃退できるかな)
 音を立てないように寝台から降り、衣装箱と壁との隙間に立ててあったデッキブラシを手に取った。長い柄をしっかりと握りしめ、ゆっくりと慎重に足を運び、扉前に移動する。
 最後の確認とばかりに耳をそばだてれば、侵入者は台所にいるようだ。
 彼女は深呼吸をし、心構えをして、ドアを押し開いた。
「動くな!」
 人影にデッキブラシの先端を突き付ける。
 そこで彼女が見たものは―――
「え?」
 目を丸くして振り返る少年が一人。
 整った顔立ちには困惑の色がありありと浮かんでいる。
 肩越しにある竈には火が灯され、設置された寸胴鍋からは野菜が煮え立ついい匂いがする。その両手には、泥棒が絶対使わないと断言できる小道具が、お玉と小皿が握られていた。
「あ」
 彼女は予想外の状況に硬直する。同時に、昨夜の出来事がどっと脳裏に蘇った。
 何となく気まずいような、いたたまれないような沈黙が二人の間を流れ………
「床の掃除ですか?」
 少年が、ジーンが淡々とした声で尋ねてくる。
「え!ええ、こまめな掃除が家を長持ちさせる秘訣なのよ!」
 苦しい言い訳だ、と自分でも思った。
 ところが、ジーンは至極真面目な表情で、
「もう少しで食事が出来るので、そのあとにしてもらってもいいですか?」
 と言う。
 彼女はこくこくと頷き、次いで、デッキブラシを下ろした。
「あの、それと、服を着替えてきてもらえませんか?」
 恥ずかしそうに背を向けた仕草につられるように視線を落とせば、目に写ったのは薄地の寝間着。はだけた胸元を手で隠し、自分でもびっくりする大声をあげて、彼女は寝室に逃げ込んだ。
 扉を乱暴に閉めるなり、
 しまったなぁ。
 そんな苦い思いがこみ上げてくる。
『ごちそうさまでした。とてもおいしかったです』
 簡単かつ質素な夕食を、野菜と卵を使っただけのサンドイッチをジーンは綺麗に平らげ、にこやかな笑顔でそう言ってくれた。
 その表情が嬉しくて、久しぶりに誰かと一緒に食べる食事が楽しくて、
『食後のお茶を淹れるから』
 と、帰るそぶりを見せたジーンを強引に引き留めたのは自分。
 困ったように視線を宙に泳がせる様を見たくなくて、湯が沸くまでの時間のみならずお茶を淹れた後も口を動かし続けていたのも、自分。
 はっと気づいたときには、時刻は真夜中に近かった。宿を探すには難儀な時間だった。だから、
『この部屋の床で寝ることになるけど、よかったら泊まっていって』
 と、一夜の宿を提供していたのも自分である。
(ああ、それなのに、泥棒扱いしたなんて。少々寝ぼけていたとはいえ最低かも)
 寝間着から普段着に着替え、後悔のため息を一つ漏らす。
 寝癖のついた長い髪を櫛で整えていると、気遣わしげに扉をノックする音がした。
「なに?」
 扉に向かって口を開けば、
「シアさん、このデッキブラシ、どこに片付ければいいでしょうか?」
 相も変わらず平坦な声が返ってくる。
「あ、その辺に立て掛けておいてくれればいいよ。あとでこっちに戻すから」
「わかりました」
 扉の向こうの気配が、遠ざかる。
(でまかせの言い訳なのに、本気にしているのかな)
 彼女は小さく笑い、髪を三つ編みにする作業を始めた。


 塩で味付けされた野菜スープに目玉焼き、そして切り分けられた黒パン。
 テーブルの上に並べられた料理の数々。辺りに漂う、暖かい食事の匂い。
「どうですか?」
 調理した少年は、緊張した表情でこちらの反応を待っている。
 スープを匙で一口すすった彼女は、
「美味しい」
 と、心からの賛辞を贈った。 ジーンの表情がほっとしたものになる。
「よかった」
 ナイフで目玉焼きを切り分ければ、半熟状態の黄味がたらりと皿に流れ出る。彼女は黒パンの切れ端で掬い上げ、口の中に放り込んだ。
「すみません。こんなに作ってしまって」
 悄然と頭を垂れて、ジーンはテーブルの中央に置かれた鍋を指さす。その中には、二人分というには明らかに多すぎる量のスープがある。
『最初に塩を入れすぎてしまったので水を追加したら、今度は味が薄くなってしまって。いい味に整うまで塩と水を交互に入れていたら、量が倍増していました』
 身支度を調えて調理場に顔を出すなり、申し訳なさそうにジーンが告げてきた。
 彼が陥った状況は遠い昔に経験したことであり、とても懐かしく微笑ましいものに思えた。
 その気持ちは、今も変わらない。
 だから、
「塩加減を間違うのは、初心者がよくやることだよ。今晩食べるから気にしないで」
 先程と似たような言い回しを使って、慰める。
 ジーンは暫くじっとこちらを見ていたが、
「…はい」
 微かに首を縦に振り、食事を再開する。彼女も、喉の渇きを満たすべく匙をスープ皿にくぐらせた。
 食器同士が擦れる音が時折するだけの、静かな時が流れていく。
「シアさんは、今日どうされるのですか?」
 唐突な質問がジーンの口から発せられる。
「仕事に行くに決まっているじゃない」
 当たり前のことを訊かれる事を疑問に思いつつ、彼女は答えた。
「仕事……あの酒場で給仕をすることですか?」
「ええ、そうよ」
(給仕とは、またずいぶんと珍しい表現ね)
 改めて面前にいる少年を見つめる。
 一つしかない窓は西の方角なので、朝方の室内はまだ薄暗い。なのに、彼の髪は淡く金色に光っている。若干伏せられた瞳は、今は暗さを増しているが、お日様の下では青に微量の灰色を加えたような独特の色をしている。
 一般的な常識として、金髪碧眼は貴族の象徴である。
 もっとも、ここ数十年、長引いた戦争によって貧窮した貴族が平民階級に流れ出ているせいもあってか、平民にも金髪碧眼の人は存在するようになった。実際、職場の同僚にも一人いる。しかし、脳内で想像していたいかにも貴族的な金髪…ぶっちゃけ言えばジーンの髪の色は、初めて見た。
 それに、訛りや淀みが全くない綺麗な発音。品の良さが滲み出ている立ち振る舞い。世俗に塗れていない言葉遣い。
 以上から判断するに、
(やっぱり、ジーンは貴族なんだろうなぁ)
 彼女はそう思う。
 同時に、疑問が幾つも浮かび上がってくる。
 良いところの坊ちゃんが、こんな繁華街で何をしているのだろう。お家はどこなのだろう。どうして、自分のことを言いたがらないのだろう。なぜ、平民のあたしをさん付けで呼ぶのだろう。
「あの、シアさん?」
「へっ!…な、なに?」
 自分の考えに沈んでいたせいか、呼びかけに応じた声は上ずっていた。
「僕も同行していいですか?」
「酒場に?」
「はい」
 ジーンははっきりと頷く。
 意図がわからなくて、彼女は首を傾げた。
「どうして?」
「昨日の喧嘩で迷惑をかけたので、店の方にきちんと謝りたいんです。僕が放り投げた人…ダラスという男性だったかな、彼の容態も気になりますので」
(神経の細かい人ね)
 彼女の率直な感想がそれであった。
 酒に酔った客が引き起こす騒ぎなど、あの酒場では毎日発生している。十代後半の少年が力業で静めたという事実は珍しいが、特に心痛めるものではない。迷惑料なら、余分に支払った金銭で事は足りている。
 言葉を尽くしてそう説明したのだが、ジーンは最後まで納得しなかった。
 その瞬間、面前の少年を特徴づける言葉として、「美人さん」「真面目」の他に「頑固」という新しい単語が彼女の脳裏に追加された。

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