うたかたの夢(3)>>間奏>>Zodiac Brave Story

うたかたの夢3

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「シア、ちょうどよかった」
 そう声をかけられたのは、職場であらかじめ頼んでいた二人分の食事を受け取り、家に帰ろうときびすを返したときだった。
 彼女は振り返り、帳場の奥から現れた<<一角獣亭>>の店主に会釈する。
「マスター、なにか?」
「少し話があるんだ。ちょっと来てくれ」
 真剣な表情で店主は言い、帳場の奥にある扉の前で足を止める。
 彼女は首をかしげた。
 その扉の先にある部屋は店主専用であり、従業員の立ち入りは許されていない。同僚の間では、売上金を保管しているとか従業員の査定表を置いているとか、様々な噂がある場所だ。だが、扉の内側から鍵がかかっているため、真相を確かめた同僚はいない…。
 強い視線を感じて顔を上げれば、カウンターを挟んで正面にいる同僚は好奇心で瞳を輝かせていた。抱え持っていた紙袋が取り上げられ、「なにがあるのか教えてね」とささやかれる。彼女は曖昧に笑い、店主の下に向かった。
 開かずの扉が開かれ、店主から先に入るよう促される。足を踏み入れれば、そこは短い廊下になっていた。五メートル程先には、また扉がある。
 奥に行くべきか、ここにとどまるべきか。
 彼女が判断に迷っていると、背後の扉に鍵を掛け終えた店主は顎をしゃくった。
 彼女は無言の指図に従って歩を進め、ドアノブに手を掛ける。引けば、かちゃと澄んだ音を立てて扉が開いた。
「え?」
 目の前の光景に、彼女は意外に思った。
 部屋は決して広くない。十歩も歩けば、向かいの壁にぶつかるだろう。当然、家具も少ない。室内の中央に応客用のテーブルと椅子が二脚あるだけだった。
 殺風景な印象を受ける部屋だが、掃除が行き届いているために息苦しさは感じられない。
 従業員は立ち入れないから、店主が毎日掃除してるのだろうか。いや、そもそも、ここは何の部屋なのだろう。金勘定をするためのものにしては、どうも様子がおかしいような…。
「ここは、儲け話の依頼人を通すための部屋だ」
 内心の疑問を見透かしたかのように、店主が言う。視線を向ければ、丸い顔には苦笑が浮かんでいた。
「顔が知られるのを嫌がる人が結構いるのでね、こんな部屋が必要になるわけだ。噂通りでなくてすまないね」
「い、いえ…」
「とりあえず、立ちっぱなしと言うのも何だからそこに座ってくれ」
 言われるままに、指さされた椅子に彼女は腰掛けた。店主もテーブルを挟んで向かいにある椅子に座る。普段より改まった店主の姿勢が、彼女の心に不安の影を投げかけた。
「実は、つい先程こんな依頼が届いてな」
 店主は懐から丸められた羊皮紙一枚を取り出し、テーブルの上に置く。見るように目で促され、彼女は手に取り、広げた。似顔絵と数行にわたって文字が書いてある。読み書きができない彼女に記載内容を理解することはできなかったが、絵を理解することはできた。彼女は目を見張った。
「ジーンにそっくり…」
「やっぱりそう思うか」
 店主はため息混じりに言い、両手でがしがしと髪を掻き上げる。困り果てた様子に、彼女は詳しい説明を求めた。
「依頼自体は単なる“人の探索”なんだが、その内容が問題でな…ここにはこう書いてある。『この者、ラムザの所在を知らせた者には金貨一枚を、この者を保護し下記の場所に連れてきた者に金貨五枚を与える』」
「金貨ぁ!」
 思わず椅子から腰を浮かせた彼女に、店主が頷く。
「内容に比例しない報酬の多さも問題だが、書いてある住所も問題でな」
「連れてこいと指定されている場所ですか?」
「そうだ、ここは…」
 店主がある固有名詞を口に出す。
 その単語は、彼女を驚愕の渦に叩き落とした。


 人間というのは不思議なもので、精神が混乱していても身体はいつも通りに動くものらしい。
 ふと気づけば、目の前に見慣れた建物が、彼女の仮初めの家があった。扉の取っ手に手を掛け、一瞬ためらう。ゆっくりと呼吸をし、表情と声音を整えてからドアノブを引いた。
「ただいま」
 ところが、返事がない。室内に人の姿はなく、しんと静まりかえっていた。
「あれ?」
 彼女は室内の四方に視線をさまよわせる。
 二脚ある椅子はきちんと引いてあって、背もたれの部分がテーブルの端に接している。あの少年が仮の寝床としているテーブルの下には何もなく、椅子の脚と木の床が見えるだけ。少年の私物の一つ…毛布代わりに使っている薄茶色の外套は、器用に壁のデコボコを利用して掛けてある。その近くには、もう一つの私物である背負い袋がきつく封された状態で置いてあった。
「どこにいるの?」
 屋内を歩き回ってみるが、衝立の向こうの台所にも、そのはす向かいのトイレにもいない。もしやと思って自分の寝室へのドアを開けてみるが、室内は、最後に出入りしたときと…散髪作業を終えて道具を戻しに入ったときのままのようだ。家具は言うに及ばず、木箱の上に置いたハサミやクシなどの小物の位置にさえ変化がなかった。
「変ね」
 彼女は扉を閉めて、しばし考える。
 私物があるのだから、出ていったということはない。いや、そもそも、彼は他人から頼まれたことを理由もなく放棄するような人ではない。彼とのつきあいは三日とまだ浅いが、その点に関しては確信に近いものがあった。なぜなら、手前勝手な約束事の積み重ねによって彼を引き留めているのは自分なのだから。
「中にはいない…だったら外かな?」
 推測を確かめるため、玄関から表へ出て裏手に回る。直後、彼女はぎょっとした。こちらに背を向けて蹲るように座り込んでいる人影を、見つけたからだ。
「ちょ、ちょっと、どうしたの!?」
 全速力で駆け寄り、肩を押す。すると、さほど力を入れていないのに、相手の身体はぐらりとかたむき地面に倒れた。
「ジーン!」
 悲鳴が口から飛び出る。が、相手からの反応はない。ぴくりとも動かない。双眼は閉じられており、眉間には深い縦皺が一本刻まれている。
 恐慌状態になりそうな頭を理性でもって押しとどめ、彼女は相手の正面に回り込んだ。まぶたにかかる前髪をかき分け、現れた白い額に手をあてる。
 熱くはないし、冷たくもない。平熱だ。
 続いて、わずかに開いた唇に手をかざす。かすかだが、規則正しい息遣いが感じられる。
 ほっ、と安堵の息が漏れた。
「寝ているだけか…驚かさないでよ」
 非難めいた呟きにも、彼は目を覚まさない。もう一度肩を揺すってみるが、状況は変わらない。先程発した大声にも反応しないことからしても、随分深く眠っているようだ。
(玄関に鍵をかけ忘れているし、留守番役は庭で眠り込んでいる。これじゃあ、泥棒が来ても気づかなかったでしょうね。そりゃ、盗られて困るようなものは何もおいてないけど…)
 心配する気持ちが霧散すると、別の感情が鎌首をもたげてくる。
(どうやって起こそうか。首筋に水を数滴たらそうか。それとも、脇の下をくすぐってやろうか)
 あれやこれやと思案をめぐらしていると、不意に金属の鈍い光が視界の端をかすめる。視線を向けると、彼は右手に何かを握りしめていた。指の隙間からは、ガラスに覆われた目盛りのような線と数字が刻まれた金属板が顔を覗かせている。
 彼女はパチパチと瞼を瞬いた。
「これ…懐中時計?」
 ポケットなどに入れられる大きさで、時間を計るために使われる道具。職人が一つ一つ手作業で作っていくために途方もなく高価で、貴族でも特に裕福な者だけが持っている品物。
 話には聞いたことがあるが、実物を見るのは初めてだ―――。
(やっぱり、彼は…)
 奇妙な得心が心の泉を満たす。
 こぼれ落ちそうになるため息を堪え、少年の右手から目を逸らして、三度肩を揺する。力を込めて前後に揺すった甲斐あってか、閉じられていた瞼が僅かに震え、青灰の瞳がゆっくりとこちらを見上げた。
「あ、戻られたのですか?」
「うん。だいぶ暖かくなったとはいえ、こんなところで寝ていると風邪をひくよ」
「そう…ですね。気をつけます」
 少年は流れるような動きで立ち上がる。その際、右手に握られていた小物がズボンのポケットに消えるのを彼女は視界の端で見たが、口には出さなかった。
 二人並んで玄関まで戻り、扉を開けて家の中に入る。同居人が屋内に入ったのを確認して、彼女は扉を閉めた。
「昼に軽く食べてから随分時間が経ったし、お腹すいたでしょ。ご飯もらってきたからそれを―――」
 玄関の脇に立ったまま進もうとしない少年に椅子を勧めつつ、彼女は視線をテーブルに投げかける。そこには、何も物が置かれていない。職場で受け取ったはずの食事の包みは言うに及ばず、市場で買った品物を詰めた紙袋でさえ。
 記憶の砂が砂時計内で勢いよく逆流する。彼女は両手で頭を抱えた。
「しまった、全部仕事場に置き忘れちゃった!」
「<<一角獣亭>>にですか?」
「う、うん」
「取ってきます」
 扉の取っ手を押そうとする少年の手を、彼女は押しとどめた。
「い、いいよ、わざわざ行かなくても。明日仕事ついでに取りに行くから。そ、それよりも、喉乾いてない? 今日はいい天気だったから何か飲みたいよね。いま、お茶をいれるね。そこに座って」
 我ながらつたない話題転換だと思った。事実、その通りだったのだろう。
 少年は無言で椅子に腰を下ろし、問いたげな視線を向けてくる。
 竈(かまど)に移動し彼と自分との間に衝立(ついたて)を挟むことで、彼女はその視線を避けた。水瓶の蓋を開け、中に貯めている水を柄杓ですくい、ヤカンに注ぎ入れる。

『もし儂の推測通りなら、この酒場はお終いだ。よりにもよって、あの名門貴族の子弟を顎でこき使ったと知れたら』
『でも、まだ本当のことと決まった訳じゃありません』
『しかし、一度会っただけの儂でさえこの似顔絵からあの少年を連想した。お前さんだってそうだ。まず間違いないとみていいだろう。ああ、どうしたものか』
 顔面を絶望に染めた店主が、頭を抱えて呻くように言う。
『マスター、あたしが本人に直接確かめます。それまでは、この依頼を表に出すのを待って下さい』
『そうしてくれるか』
『はい』

 水音が途切れ、柄杓の中が空になる。彼女は回想を打ち切り、相手に気取られぬように気をつけながらため息を一つ吐いた。
 確かめるといっても、どうやって聞き出せばいいんだろう。家のことはあまり話したくないようだし。なるべくさりげなく切り出すためには…。
 右手に水汲み作業を行わせ、頭は思考を凝らす。が、これだ!と思う案が浮かばない。正直に職場での出来事を話すか、それとも明日酒場で件の羊皮紙を見せるか。思いつくのはこの二つだけだ。発想の平凡さに彼女がイライラしていると、
「シアさん」
 真横で抑揚のない声がする。
 首を動かせば、先前見た似顔絵そっくりの…端正だがどこか表情に乏しい少年がいた。
「あふれています」
「へ?」
 指さす方向に視線を向ければ、ヤカンには水が満タンに入れられており、余剰分がヤカンの外側を伝って石造りの竈(かまど)を濡らし、さらには床にぴちょんぴちょんと滴り落ちていた。
「―――あっ、ぞうきん、ぞうきん…」
 彼女が探し当てるよりも早く、「失礼」という呟きとともに青い袖に包まれた腕が面前を横切った。自分より少し大きな手が雑巾を掴み、水が飛び散った竈へと下ろされていく。次に行われるであろう作業を想像し、空恐ろしい思いにとらわれた彼女は雑巾の端をつかんだ。
「あたしがふくよ」
「いえ、このくらいはさせて下さい」
「いいの、あなたは座ってて」
「そう言うわけにはいきません」
 断固たる口調で拒否される。
 だが、こちらとしても引くわけにはいかない。彼女は思いっきり力を込めて雑巾を引っ張った。
「いいからあたしにまかせなさい――っ!」
 勢いづいた肘がヤカンの側面に当たり、猛烈な痛みが腕全体に伝わる。衝撃によって握力が一時的に失われ、指から雑巾が滑り抜けた。
「…大丈夫ですか?」
「え、ええ…」
「僕がしますから、休んでください」
 その言葉通り、彼は雑巾で竈を、床を拭いていく。
 辺りを見渡すが、予備の雑巾も代用できそうな布もない。痺れる肘をさすりつつ、彼女はその作業をみつめていた。
「…シアさん」
「なに?」
「先程から様子が変です」
「そ、そう?」
 正直どきっとしたが、何でもない風を装う。だが―――、
「買い出しの際に何かあったのですか?」
 彼は端的に動揺の発端を指摘してくる。誤魔化そうにも、まっすぐ向けられた青灰の瞳がそれを許さない。数秒の逡巡の末、彼女は素直に告白した。
「酒場でね…ザルバッグという人がラムザという名の男の子を捜している、ってビラを見たの」
 彼は一度またたきをした。
「で、そのラムザという男の子は、あなたにそっくりだった」
「…そうですか」
 彼はそう言っただけで、肯定も否定もしなかった。表情を動かさずに、流しで雑巾を絞り元の位置へと戻している。
 想像していなかった反応に、彼女は内心首を傾げる。
(動揺してないなぁ。同じ顔の別人かな?)
 ところが、そうではなかった。
 規則正しく床を踏む靴音に彼女がはっとすれば、台所に少年の姿はない。衝立の向こう側から見える人影に首を動かせば、彼は壁に掛けてある外套に手を伸ばしているではないか!
「ちょっと、なにしているの!」
「なにって、追っ手が殺到する前にここを出ていくんですよ」
 淡々と言い、外套をはおる。続けて、足下にある背負い袋をひょいと肩に掛けた。
「三日間、お世話になりました」
 彼はこちらに一礼し、足を玄関へと向ける。
 慇懃丁寧な謝辞に比例しない無表情さが、彼女をかっとさせた。玄関へと駆け出し、己の身体でもって扉を塞ぐ。顔を上げれば、恐ろしいほどの気迫を込めながらもどこか静かな瞳があった。
「追っ手が来るまで足止めするつもりですか?」
 彼女はかぶりを振る。
「では、あなたが僕を兄さんの下に連行するのですか?」
「ちがう」
「別に遠慮する必要はないですよ。僕の居所を通報するだけでかなりの金額が支払われるんでしょう?」
 彼女は言葉に詰まった。
 面前の少年を依頼人の下に連れて行けば金貨五枚。所在を通報するだけでも金貨一枚が手に入る。金貨は彼女にとって大金だ。一枚あるだけで、一ヶ月は慎ましく暮らしていける。一瞬でも心動かされなかったと言い張ることは、決してできない。
「僕としては、そうされるととても困るので…」
 右手首を掴まれ、手のひらが上に向かされる。微かな重みを感じて視線を向ければ、銀貨が三枚ある。渡された硬貨の意味を悟った瞬間、彼女は猛然とした怒りを感じた。
「ふざけないで!あたしはこんなお金がほしいわけじゃないのよ!!」
 面前の少年に突き返す。
 彼は意外そうにまたたきをした。
「…では…どうして…」
「依頼人は実のお兄さんでしょ。あなたには帰る家も帰りを待つ家族もいるのに、なんでここにいるのよ。どうして帰らないのよ!」
 大声が室内をこだまする。
 最後の響きが空気に溶けた頃、面前の少年に劇的な変化が訪れた。仮面のように張り付いてた無表情が崩れたかと思った瞬間、両腕が動き、気づけば胸ぐらをつかまれていた。
「帰る…家に帰ってどうしろというんだ…」
 震える声に視線を向ければ、目尻にはうっすらと光るものがあった。
「アルマに全部話せというのか…ティータがどんな風に殺され、ディリータに見放されたことを…。『仕方ない』の一言でティータの死を正当化する兄さん達に迎合しろというのか…。そうして、ティータとディリータがいない現実に直面しろというのか…。僕は嫌だ、そんなのは嫌だッ!!」
 胸をしめる力が増していき、息苦しさで視界がぐらりと揺らぐ。
「何も知らないくせに、あなたにそんな権限があるというのか! どうなんだッ!!」
 絶叫が中途半端にどぎれた。
 胸ぐらを拘束されていた両手が外され、面前の少年の身体がぐらりと傾く。彼女はとっさに手を伸ばし、床に落ちる直前でその腕をつかんだ。
 少年の体重は想像よりも重かった。彼女の腕力ではとても支えきれず、二人共々床に倒れた。一度横転し、振動が止まる。身体に伝わるずっしりとした重みに、彼女は目を開く。そこで、ようやく彼女は少年が倒れた原因を知った。
 半開きになった唇は短く荒い息を繰り返し、額や頬には玉のような汗が浮かんでは流れていく。双眼はきつく閉じられており、眉根は苦しげにぎゅっと寄せられた。
 ―――明らかに尋常な様子ではない。
「ど、どうしたの! 苦しいの?!」
 肯定するかのように、震える手が床に爪を立てる。爪の形が歪み、指先から血がにじむ。
 相手の脇に腕を差し入れることで起こし、そっと抱きしめた。背中をあやすようにゆっくりとさする。
「ゆっくり息して。大丈夫、ここにいるよ」
 つい先程まで彼に向けていた怒りは、もうどこにもなかった。
「よけいなこと言って、ごめんね」
 心から謝り、震える背中をさすり続ける。
 やがて、彼は意識を失うように眠りについた。それでも、彼女は暫く背中をさする手を休めなかった。
(ジーンは…じゃないラムザは、ここから出て行ってしまうだろう)
 直感的にそう思う。
 彼の過去に何があったか、彼女は知らない。わかるのは、何か辛いことがあり、それを直視する勇気がなくて逃げ出してきたということだけだ。逃げることを彼女は否定しようとは思わない。なぜなら、現実は途方もなく残酷で、人は全てをありのままで受容できるほど強くない。
(どうして弟ではなくあたしを人買いに売ったの。飢饉に備えてというのは口実で、本当は自分たちが生き残るための口減らしではないの?)
 自分自身でさえそうなのだ。
 自分ができないことを他人に強要できるわけがない。
 また、この少年にとって、家や出自を知る者は苦痛をもたらすにすぎない。そして、偶発とはいえ、自分は知ってしまった。このまま彼をここに留めていたら、きっと―――。
 彼女はそこで考えるのをやめた。
 眠る彼をそっと床に横たえ、転がり落ちていた外套を両肩に掛ける。汗で額に張り付いた前髪をかき分ければ、幼さの残る寝顔が現れる。
 目に焼き付けるようにじっと、彼女はその寝顔をみつめた。


 目覚めは最悪だった。
 頭の奥はずきっと鈍く痛み、身体はだるい。そして、なにより―――
「あ、気がついた」
 頭上から降ってきたシアの声が、彼の気を重くさせた。
「だいじょうぶ?」
 心配そうにこちらの顔をのぞき込んでくる。まっすぐ向けられた榛の瞳を直視することに彼は耐えられず、上半身を起こす動作に紛らせてその視線から逃げた。
「呼吸、おちついたようだね」
 体調は彼女が指摘したとおりだった。喉を締め上げるような息苦しさは、もう、ない。しかし、彼はそれを言葉として口に出さなかった。顔を背けたまま、口をかたく閉ざす。
 重く粘り気のある沈黙が、二人の間を長々と沈殿する。居心地は甚だ悪かったが、彼は改善する努力をしなかった。自分にその資格はない。そう思ったからだ。
 やがて、彼女はため息を一つ残して立ち上がり、離れていく。徐々に遠ざかる気配を、彼は当然の結果として認識した。
『酒場でね…ザルバッグという人がラムザという名の男の子を捜している、ってビラを見たの』
 現状で二番目に会いたくない人が、自分を捜している。
 役職名ではなく、個人名でもって。そして、おそらくは私財を投じて。
 その意味を察した瞬間、恐怖で心が軋んだ。一秒でも早く次兄の…ベオルブの目の届かない場所に行きたくて、金銭で口止めしようとした。見返りを求めずに三日間も泊めてくれたシアの厚意を、土足で踏みにじる最低の行為だ。
『なんでここにいるのよ。どうして帰らないのよ!』
 その瞬間、心が恐怖で弾けた。
 武術の心得がない女の子の胸ぐらを掴み、力任せに締め上げ、シアにしてみれば全くいわれのない罵声を浴びせ、喚き立てて、挙げ句の果てに呼吸不全で気を失った。これでは、駄々をこねる子どもと何ら変わらない。
 そして、今。
 散々酷いことをしたにもかかわらず、シアと正面から向き合う勇気が持てない。彼女から慰められても非難されても、惨めで情けない自分を再認識させられるからだ。
 つまり―――、
(結局、僕は自分のことしか考えていない。本当に最低だな)
 彼は胸の内でそう呟き、立ち上がった。床に転がっていた背負い袋を拾いあげる。
(これ以上の非礼を重ねても、いまさらだ)
 破れかぶれな気分で足を玄関に向ける。しかし、
「はい」
 眼前に差し出された木製のカップが足を止めた。
「これ、飲んで」
 反射的に上げてしまった視線の先にたたずむのはシアであり、静かに微笑んでいる。カップの中身は無臭無色な液体で、どうやら水のようだ。
 彼はまばたきをした。彼女がそうする理由がわからなかったから。
「倒れたときにすごく汗かいていたから、のど乾いているでしょう?」
 青灰の視線をシアの顔に投げかければ、彼女は僅かに目を細めて微笑を深めた。
 優しく控えめな気遣い。こちらの事情に深入りしようとしない態度。あんな醜態を見せたにもかかわらず、変わらない振る舞い。以上の事象から導かれることは、シアは自分が悪いと思っている!?
 頭を振り、それだけでは足りず何かを言おうとして口を開くが、言葉が上手く出ない。幾つかの言葉が胸の内に浮かぶが、次々と霧散していく。
 数十秒も考え、迷い、結局口に出せたのは、
「ごめんなさい」
 ―――この一言だけだった。
「ううん、謝ることないよ」
「いえ…」
 差し出されたカップを受け取り、中身を喉の奥に流し込む。空になったカップをシアに返すと、彼女は少し悲しそうに笑った。
「行くんだね」
「はい。この三日間、色々とありがとうございました」
「お礼はいいよ。その代わりと言っちゃ何だけど、ひとつだけ約束して。きちんと仕事をしてお金を稼ぎ、ご飯を食べて寝るって」
 ずいぶん奇妙な約束事だ。
 率直にそう思った彼だが、
「その三つさえやっていれば、なんとでも生きていけるから…」
 その言葉に、衝撃を受けた。
 生きているなら、自分の力で自分を養って生き抜いていけ。辛い過去を嘆き、現実に絶望して死を選ぶことなど許さない。
 シアはそう言っているのだ。
 そして、おそらく、彼女自身も実践してきたのだろう。同い年か一つ下くらいの少女が、どのような理由かは知らないが家族の下を離れ、一人下町で立派に生活している。この事実が何よりの証拠だ。
「仕事して食べて寝て…生きる…」
「簡単でしょ?」
 幼児に言い聞かせるような彼女の口調に、自然と頬が緩み顔がほころぶ。数瞬の間を経て、彼は自身の表情筋を動かした感情を理解し、驚いた。
 ―――まだ、笑えるんだ。
 一度足下に視線を落とし、顔を上げる。正面からシアの目をみつめ、頷いた。
「…わかりました。努力します」
「よし!」
 満足そうなシアの声に促される形で、彼は歩を玄関に進めた。少し遅れて、もう一つの足音が後に続く。自らの手でドアノブを押して閉じられた扉を開き、外へと一歩を踏み出す。二歩、三歩と進むと、背後からの足音が途絶えた。
 振り返りたい衝動と一目散に走り去りたい衝動。相反する感情が心の内でせめぎ合う。
 彼は規則正しく足を動かし続けることを意識して、シアの家を辞した。

Epilogue

 一度も振り返ることなく、三日間の同居人は夕まぐれの街に姿を消した。押し寄せてくる寂しさを振り払うように彼女は扉を閉めて鍵を掛け、足早に寝室に向かって横になった。
 翌日、いつもより一時間早く彼女が職場に行けば、主人は待ちかねたように成果を尋ねてきた。
 彼女は答えた。
「家に帰ったら、あの少年は出て行ってしまっていた。だから、聞き出せなかった」
 嘘であるが、心は痛まなかった。このように答えるのが、誰も傷つかずに一番良いと思ったからだ。
 店主は「そうか」と頷いただけで詳細を聞き出そうとはせず、調理の下準備に戻っていった。
 そして、件の依頼書は店内に張り出されなかった。
 整いすぎた容貌が印象深かったのか、同僚達はあの少年のことを彼女にしつこく聞いてきたが、同じ嘘を繰り返していると興味が失せたのか、話題になる回数が減っていき、一ヶ月後には誰も口に出さなくなった。
 彼女もまた、日常を送っているうちに、少年のことを思い出す回数を徐々に減らしていった。
 しかし、決して忘れることはないだろう。
 孤独感に苛まれていた者同士がよりそった、一時の夢のような生活を―――。

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