錯綜(2)>>第二部>>Zodiac Brave Story

第七章 錯綜(2)

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「あー、いい天気だな」
 ムスタディオが空を仰ぎ見て、ぽつりと言う。
 彼の言うとおり、天気は快晴で、薄い青の空に刷毛で梳いたような雲が一片浮いているだけだ。降り注ぐ陽の光は柔らかくて温かく、浴びているだけでまどろみに誘われるようだ。しかし、いつ来るかわからない襲撃者を最も警戒すべき人物の言葉にしては、あまりにものんきすぎる。
「ずいぶん余裕だな。もうすぐ、ついさっき襲われていた場所を通るってのに」
 揶揄するようにアデルが言えば、ムスタディオは肩をすくめて苦笑した。
「たった三時間しか経っていないのに、加害者ならいざ知らず被害者が元の現場に戻ってくるとは普通思わないだろうからな。いたとしても、こんな格好じゃ気付かれないだろうし」
 ムスタディオは二本の指で、濃紺色の袖無しシャツの裾を軽く摘んだ。
 今、彼が纏っているのはアデルの武闘着である。髪もマリアによって普段と違う形――襟足部分を残して一つに紐でゆるやかに括る――にされた。変装というアグリアスが提示した条件を満たすための格好だが、ムスタディオは違和感を禁じ得ない。むき出しの両腕は金牛の月半ばの外気には少々厳しく、普段の作業着よりゆとりのあるズボンは軽くて頼りない気がするのだ。
「こんな格好とはひどいな。俺は春夏秋冬いつでもそれだぞ」
「真冬でも? 雪が降ってもこの格好で外に出るのか?」
 ムスタディオの純朴な質問にアデルは一瞬たじろぎ、
「ま、まあ、さすがに寒いと思ったら厚手の上着を羽織るけど…」
 と、バツが悪そうに答えた。
「アデルの服は不満? 他のほうが良かったかしら」
 小首を傾げて問うマリアに、ムスタディオは激しくかぶりを振った。
「いや、これでいいです!」
「ほんとうに?」
「はい!」
「そうね、さすがに私の予備の服は小さかったものね」
 呟くように言って矛先を収めるマリアに、ムスタディオは心から安堵し、アデルとイゴールは同情の視線を注いだ。
 そう、最初、変装を手伝ってくれたマリアとイリアは、ムスタディオを女装させようとしていたのだ。
『女の子の格好なら、誰もムスタディオだなんて思わないでしょう?』
 とは、イリアの言である。
 しかし、彼女らの計画は、一七四センチというムスタディオの身長に合う女物の衣服を持ち合わせていなかったために、変更を余儀なくされた。
『ムスタディオって細いし、顔立ちも中性っぽいからいけると思ったのに』
 心底残念そうに呟いてアデルの衣服を借りに行くマリアを見て、ムスタディオは心の底から思ったものだ。人並みに身長があってよかった、と。
「一時的な処置だ。不満はあるだろうが我慢してくれ」
 真顔でイゴールに諭され、ムスタディオは無言で頷く。そして、少しの間をおいて付け加えた。
「すまないな、無茶を言って」
「無茶だと分かっているなら、事情くらい教えてほしいところだが」
「すまない、それは――」
「『今は話すことができない』のだろう?」
 言おうとしていた台詞を、イゴールに口調まで真似られて先取りされてしまう。
 足を止めて困惑の表情で立ちつくすムスタディオの肩に、アデルは手を置いた。
「実は…」
 そう前置きして、彼はタネを明かした。あのとき屋外にいた人間は、全員、扉に耳をそばだててムスタディオとアグリアスとの話を聞いていたのだ、と。
「薄い板だったし、穴も所々に空いていたし、盗み聞きには苦労しなかったぜ」
 あっけらかんとアデルは語り、
「そう言うことだ」
 イゴールが淡々と言う。
 悪びれる様子が全くない二人にムスタディオはあ然とし、ふと、引っかかるなにかを感じた。
「さっき、全員っていったよな?」
「ああ」
「ってことは、まさか…あのお姫さまも?」
「ムスタディオ、最初に聞き耳を立てたのはその王女だ」
 イゴールが無慈悲に告げる。
 『お姫様』というイメージにヒビが入る音を、ムスタディオは確かに聞いた。
「ザランダでのことを説明したら、『私もその方のお話を聞きたいわ』って言ってな…。お付きの騎士達が止めるのを振り払って扉に駆けより、一番大きな穴に耳をよせて…」
 アデルの具体的な説明にヒビはみるみる拡大し、
「気づいていなかったの? じゃないと、あのタイミングで王女が現れるわけないじゃない」
 呆れるようなマリアのため息に、偶像は真っ二つに割れた。
 落ち着いて小屋での出来事を振り返れば、確かに、オヴェリアは扉を開くなり『わかりました』と言っていた。あの場に彼女はいなかったのだから、それは、話を別の場所で聞いていたことに他ならない。
「なんというか…少し意外だな。もうちょっとおとなしい人だと思っていた」
「外見にだまされると痛い目にあう、典型例だぜ」
 やたらと実感籠もったアデルの言葉は、ムスタディオの豊かな好奇心を刺激した。
「お姫さま以外に、そんな人が身近にいるような口ぶりだな」
「すぐにわかる」


 一瞬寒気が背筋を這い上がり、くしゃみが出る。
 ラムザはむずむずする鼻を腕でこすった。
「風邪ですか?」
「いえ、長い間手を水に浸していたから少し冷えたのでしょう」
 囁くように発せられた疑問を否定し、首を傾けて後ろを見返る。
 視線の先には、予想通りオヴェリアが立っていた。いつも彼女に付き従っている女騎士が、なぜか一人もいない。気配を感じないから、その辺の木立に隠れているわけでもないようだ。奇異に感じつつも、ラムザはオヴェリアに会釈した。
「洗濯中ですから、略式で許してください」
「もちろん構いません」
 オヴェリアが頷いたのを見て、ラムザは正面に向き直った。
 目の前にある泡一杯の桶に両手を入れ直し、青いズボンを引っ張り上げてゴシゴシと布地を擦る。
 さわっと柔らかい衣擦れの音に視線を転ずれば、オヴェリアが傍らに腰を落としていた。紺碧色の瞳は、桶の真ん中をみつめている。
「ずいぶん時間がかかっていますね」
「この服、かなり汚れていましたから」
 ラムザが洗っているのは、ムスタディオがさっきまで着ていた服である。マリアに「偵察する間に洗っておいてくれないかしら」と頼まれたのだ。手渡された当初、衣服は元の色がわからぬほど泥と土埃で汚れ、汗と血が混じり合った強烈な匂いを放っており、思わずラムザは眉をしかめたものだ。
 しかし、それはまだ序の口で、「すまないがこれも頼むよ」とムスタディオから一緒に渡された数枚の下着にいたっては、全て目も当てられない状態だった。洗っても無駄と判断して廃棄処分――ファイアで燃やした――とした。本人には「下着も含めて替えの服を買ってくれ」と言い含めてあるから、支障はないだろう。
(バート商会の手の者に追われて、洗濯する時間さえなかったんだろうな)
 何度も水を換えた結果、ようやく布地に本来の色が戻ってきたが、染みついてしまった汚れはかなり頑固でラムザの手を焼いていた。
「う〜ん、この裾の汚れがなかなか落ちない。石けんで――」
「はい」
 絹の袖に包まれた腕が動き、労働とは無縁の華奢な白い指が桶の右隣に置いていた石けんを掴み、中途半端に突き出した己の手のひらに載せられる。
 ラムザはまず自分の目を疑い、手のひらに伝わる石けんの重みで我に返ると傍らの人物を凝視した。
「他に何か手伝えることはありませんか?」
 冗談ではなく本気で王女がそう尋ねているのは、真剣な表情が物語っている。
 こぼれ落ちそうになるため息をなんとか堪えて、ラムザはゆるゆるとかぶりを振った。
「そのお気持ちだけで充分です。オヴェリア様は旅に慣れていないのですから、小屋でお休み下さい」
「………わかりました」
 どこかいびつな微笑を残して、オヴェリアは小屋がある方へ戻っていく。
 その表情が、遠ざかるか細い背中が、ラムザに別の人物を連想させた。
(アルマ)
 顔立ちや性格は全く違うのに、どこか似ているのだ。王女と妹は。
(あの邸で、お前は元気にやっているのか? それとも、僕のことを――)
 その先は恐ろしくて、考えたくなかった。

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