第十四章 砕け散るもの(1)
時間が凍り付く。
ある者は考えもしなかった行為に、ある者は予想外の結果に、思考が一瞬凍結した。
「な、なんのつもりだ?」
間が抜けた声で、ゴラグロスが呟く。この場にいる者達共通の疑問を。
回答は、即座にもたらされた。
発言者の腹部を貫く、一条の衝撃によって。
衝撃の正体は、一本の太矢。
驚愕と激痛で顔を歪めたゴラグロスが、尻餅をつくかのように倒れた。
一同にじわりじわりと理解が広がっていく。遅効性の毒のように緩慢に、確実に、彼らの意識を侵していく。
ザルバッグの命令。
ティータ、射られた。
左胸を。
アルガスに。
無防備だった誘拐犯も。
細切れ状態だった一つ一つの事実が急速に結合し、現実を悟った瞬間。
「――っ!」
ラムザは声にならない悲鳴をあげ、
「ティータぁあぁ!」
ディリータはあらん限りの声で叫び、がっくりと両膝をついた。
そして…、
「なぜだ」
ザルバッグがうめくように言う。矢を巻き上げ終えたアルガスは、表情一つ変えずに答えた。
「軍師殿の命令です」
「どういう意味だ」
アルガスは沈黙する。不快感が籠められた質問に、将軍の険しい顔に怯んだからではなく、全てを計算したうえで。
両者の間をみたした重みのある沈黙は、別の声によって破られた。
「ザルバッグ将軍閣下!」
オレンジ色の青年騎士がザルバッグのもとに駆け寄る。敬礼するのももどかしそうに彼は急を告げた。
「山道に新たな敵兵が出現しました。人数は五〇名ほど。ウィーグラフらしき姿を見たとの報告もあります」
それは、総攻撃開始の合図であった。
だが、ザルバッグは動かない。動けなかった。
陸橋で倒れている妹。絶望で顔を強張らせ、両膝をついている二人の弟。
彼の目は、その二つに釘付けにされていた。
「閣下っ!?」
狼狽も顕わな呼びかけにザルバッグは振り返り、臨時の副官を睨み付ける。
苛烈な眼光で身を竦ませるハンフリーを救ったのは、最年少の騎士だった。
「ここは我らが引き受けます。閣下は閣下の義務をお果たし下さい」
ザルバッグの目に、理性の光が戻る。彼はぎりっと歯噛みし、やがて、ぎしぎしと軋みそうな動きで砦に背を向けた。一歩を踏み出し、前を見据えたまま言う。
「詳細はのちほど聞く」
アルガスはその背中に一礼こそはしたが、応とも否とも口に出さなかった。振り返ることなく足早に去っていく将軍と騎士を見送ると、彼は斜め下にいる候補生六名に視線を注いだ。
白いローブを羽織った黒髪の少女がディリータに近づき、何かわめく。ディリータははっと顔を上げ、立ち上がった。乱暴にラムザを押しのけ、前へと一歩を踏み出す。
アルガスは陸橋と大地とを繋ぐ箇所を塞ぐように立ち、ディリータを見下ろした。
「どこへ行こうっていうんだ?」
「アルガス、貴様ッ!」
ディリータの顔が悲憤で歪む。
言うが早く、彼は白刃を煌めかせてアルガスに襲いかかった。
激情で大振りとなったその剣筋を、アルガスは余裕綽々と避ける。着地する瞬間、彼はふっと笑みを漏らした。
(正当防衛成立、だな)
ディリータはこちらに目もくれずに、陸橋で倒れている少女の元へと駆け寄ろうとしている。その背中は背後への備えが全くされておらず、無防備そのもの。アルガスは狙いを付け、引き金を引いた。
必殺の意図を込めた太矢は、一直線にディリータの背中に吸い込まれていく。
が、アルガスが予期した悲鳴は発せられなかった。
逆に、声をあげたのは彼の方だった。
「ちぃ」
一本の矢が、右頬に触れるか触れないかの距離を通過していったからだ。
アルガスは前方、砦の扉付近にある高台をみやる。
そこにいるのは、茶色の髪をもつ長身の候補生。軽蔑しきった目で、こちらをじっと見ている。その手には長弓が握られていた。
アルガスはぎりっと歯軋りした。
こいつは、矢柄を射抜く事で矢の進行方向を逸らさせ、続けて放った矢で威嚇攻撃をもしてのけたのだ。自動弓の矢が直線上に飛ぶとはいえ、高速で移動する物体を正確に射抜く技量の持ち主は、弓術が盛んなランベリーでさえもそうはいない。もちろん、アルガス自身もたどり着いていない領域だ。それを、目の前にいる同じ年の少年は、涼しげな顔でやってのけたのだ!
胸中で猛然と嫉妬が湧き上がったが、次の瞬間には霞のように消え失せた。あることに気づいたからだ。
二本目の矢で仕留めることができたにもかかわらず敢えて威嚇攻撃にとどめたのは、こちらの反応を試すことで背後を、軍師の意図を図るため。
アルガスは口の端を笑みの形につり上げ、背後に控えていた部下六名に命令した。
「あいつも反逆者だ、捕らえよ! 抵抗するなら殺しても構わん」
じりじりと近寄ってくる四名の騎士。その後方で控えている二人の魔道士。
彼らが着用している衣服の左胸には、共通して白獅子の紋章が鮮やかに描かれている。
紛れもなく、北天騎士団の意匠。
マリアは息を呑み、アデルは叫んだ。
「いったい、なにが、どうなっているんだよ!」
騎士達は無言。
しかし、彼らの態度が明確な答えとなった。
剣を持つ者達は、一斉に鞘を抜き放った。切っ先をイゴールに向ける。
ローブを羽織った者達は身構え、ロッドを掲げ持つ。
それと同時に、強烈な何かが向けられる。
アデルはごくりと生唾をのみ、マリアはびくりと身を強張らせた。
それは、死という恐怖を招来するもの。危険信号をけたたましく脳に伝達し、生存本能を刺激するもの。戦において『敵』と分別された人から向けられるある感情が凝縮したもの。
すなわち、殺気。
「……くっ」
アデルは喘ぎ、拳を握りしめる。ぶるぶると震わせ、憤然と振り上げた。
「ち、ちくしょうっ!!」
黒い疾風と化して、彼は最寄りの騎士に飛びかかっていく。
マリアは腰の剣に手をかけ、ついと横に視線を滑らせた。
「兄さん、どうして? どうして、ティータを?」
彼女の聴覚を刺激した人物は、茫然と立ちつくしている。
マリアは眉をつり上げ、その視界を塞ぐように立ち、
「しっかりしなさい、ラムザ・ベオルブ!」
ピシャリと平手打ちを飛ばした。
ラムザはのろのろと顔を向け、赤く腫れた頬をさする。だが、それらは無意識の行動のようだった。青灰の瞳はマリアを見ていない。
マリアは彼の両肩に手を置き、力任せに前後に揺すった。
「あなた、ティータちゃんが射られたのに、ディリータとイゴールが殺されそうになっているのに、何もしないつもりなの? そうやって、ぼけっと突っ立っているつもりなの? そんなの許さないから。絶対に、絶対に、許さないから!」
徐々に目頭熱くなり、高ぶった感情は液体となって目尻に流れ出る。マリアは顔を伏せ、袖で目元をこする。そのとき、小さな声が耳に届いた。
「ごめん」
はっと顔を上げれば、青灰の瞳がじっと自分をみつめていた。
マリアは安堵して横にずれる。
ラムザの視界が開けた。
陸橋では、倒れたティータをディリータが助け起こしていた。隣にはイリアがいて、手当をしている。アデルが猛然と騎士と戦っている。イゴールの放った矢が後方にいる魔道士の右腕を射抜いている。アルガスが騎士達に檄を飛ばし、矢を巻き上げている。
今まで知覚はしていたが認識していなかった光景が、ラムザの脳内を駆けめぐる。
数秒後、彼は決断した。
「アルガスから真意を聞く。なぜ、こんな事をするのか」
「わかったわ」
マリアは鞘を払った。
「正面の騎士を突破すればアルガスまで一直線だ。マリア、いけるか?」
頭上から降ってきたイゴールの言葉に、マリアは微笑する。
「もちろんよ」
「準備はいいか?」
「ええ」
ラムザは無言で首を縦に振った。
イゴールは作戦を開始する。背中に挿した矢を手に取り、弓をゆっくりと引き絞った。弦がうなりを上げ、彼の手から矢が放たれる。矢は放物線を描き、正面にいる騎士の兜目がけて落下する。騎士は、イゴールの予想通り、左腕に装備してた小型の盾で防御した。
盾によって相手の視界が狭まった瞬間、マリアが行動を開始した。突きの形に剣を構え、騎士に向かって突進する。気合いの裂帛を籠めた攻撃は、相手が身体をねじったことで回避される。騎士の脇を素通りするかに見えたが、マリアは右足を軸に方向転換し、再び白刃を突き付けた。相手は剣でもって受け流す。
そして、剣戟の音に紛れるように、ラムザは戦う二人の脇を駆け抜けた。
作戦が上手くいったことを見届けたイゴールは、ふと、妙なことに気づいた。まっすぐアルガスの所に向かうラムザに対しての追撃が、ない。敵の数はこちらの倍。一人をラムザに振り分けても数の優位は保たれる。ところが彼らはラムザを追うとはせず、アデルやマリアに迫っている。
(なぜだ?)
だが、思考に耽る時間はなかった。
「くっそっ!」
背後を除く三方を騎士に囲まれたアデルが、苦しげに叫ぶ。
イゴールは疑問をひとまず心の奥底にしまい、仲間の苦境を救うため弓を引き絞った。
「ティータ!」
俯せに倒れているティータを、ディリータが抱き起こす。顕わになった上半身を見たとき、イリアは口を両手で塞いだ。そうしなければ、悲鳴をあげていただろうから。
彼女の傷は、ひどいものだった。自動弓専用の太矢が、左胸のふくらみが始まる箇所に、深々と突き刺さっている。噴き出る血は白絹のブラウスを染め、青紫のスカートの襞を流れ、足下に滴っていた。
「ティータ、しっかりしろ! イリア、早くッ!」
悲痛な叫びに、イリアは我に返る。ディリータの隣に両膝をつきて座り、太矢に手をかけた。
「ティータちゃん、痛いだろうけど我慢してね」
意識がない彼女にそう告げてから、イリアは長さ三十センチ程の太矢を引き抜いた。血の細流が勢いよくほとばしり、瞬時にブラウスの前面を赤く染める。イリアは腰のポケットからハンカチを取り出すと、丸めて傷口に押しあてた。白い布は、みるみる鮮血に染まる。
一滴でも体内に押しとどめるために両手を布の上に重ねておき、イリアは精神を集中させる。今まで使ったことがない、魔法書で読んだだけの呪文を唱える。
生物が持つ再生能力を促進させる作用をもつ回復魔法は、再生能力の源――生命力が尽きかけている者には効果ない。死の淵にいる者を呼び戻す力、消えかけている命の火を灯し続ける力を秘めた呪文を彼女は唱え、解き放った。
「生命をもたらしたる精霊よ、今一度我等がもとに! レイズ!」
天から一条の光が舞い降り、ティータに降り注ぐ。光は一枚の羽根、再生の象徴・フェニックスの羽毛に変化し、傷口に吸い込まれていった。
イリアは呪文がきちんと発動したことに安堵し、傷口から手とハンカチを退かす。そして、愕然とした。
出血が、止まっていない。
左胸からは相変わらず血が噴き出ている。
「そ、そんな、どうして!?」
「ティータ!」
イリアの疑問は、ディリータの絶叫と重なった。
何やら陸橋が騒がしい。
大声で喚くディリータを永遠に黙らせるべく、アルガスは栗色の頭髪に狙いを付ける。だが、その行為は中断させられた。ラムザが射線を塞ぐように走り込んできたからだ。
「なぜだ、なぜ、こんなことをする! アルガス、なぜだッ!!」
ラムザは立ち止まるなり、声を荒げて問い質す。
アルガスは兄弟揃って「なぜだ」と問うことに呆れた。
「ラムザ、おまえの兄キの命令だぜ。なぜはないだろ?」
「嘘だ。ダイスダーグ兄さんは、ティータの身柄を確保するまで総攻撃しないといった!」
「軍師殿は本当に頭がいいな。確かに、総攻撃は始まっていなかった」
冷笑して、アルガスが言う。
ラムザはまなじりを決した。
「詭弁を言うな!」
アルガスは、見せつけるように深い深いため息を吐いた。
「いい加減にしろよ、ラムザ。そもそも、栄誉ある北天騎士団が、たかが平民の小娘を助けるために盗賊の要求をのむと本気で思ってたのか?」
「ティータは…、ティータはディリータの妹なんだぞ!」
「まだわからないのか? ヤツとオレ達は『違う』ってことに。生まれも違うなら、これからの人生もまったく違う。宿命って言ってもいい。ヤツとヤツの妹はここにいてはいけなかった」
ラムザは違うと呟き、だだをこねる子どものように何度も頭をふる。
アルガスは殊更優しい口調で付け加えた。
「そうだな…花でも売って暮らしていれば良かったんだよ。そうすれば、身代わりとして殺されることもなかったのにな」
その瞬間、心の奥底でぴしりと亀裂が入る音を、ラムザは、ディリータは、聞いた。