刻限(3)>>第一部>>Zodiac Brave Story

第十三章 刻限(3)

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 王国歴四五五年金牛の月二日。
 ガリオンヌ地方はこの日、季節が数ヶ月逆行したような天候だった。空は厚い鈍色の雲に覆われ、時が経つにつれて濃さを増していく。気温は正午を過ぎても上がる気配がなく、芽吹いたばかりの若葉や野に咲く花達は寒さで震えている。
 陽気が変わりやすいこの時期において、気象上起こりえる天候である。
 理性で理解はしていても、異常な事象は人心に不安の陰りをもたらす。騎士として剣を手に取り戦場に身を置き、数多の修羅場と死線をくぐり抜けたザルバッグでさえ、その精神作用から無縁ではない。
 しかし、ザルバッグは別のことも熟知していた。
 不安は、焦燥 ・恐怖 ・迷いの呼び水となり、ある時ある場所において邪魔なものになる、ということだ。
 政略や外交目的を達成するために講じられる手段が戦争であり、戦略を実現するために殺戮が行われる場所が戦場だ。感情という主観的なものが入り込む余地など、ありはしない。いや、あってはならないのだ。そんな恣意的かつ曖昧なもので数万の命を預かることは、決して許されないからのだから。
 心ある人間として生きる以上、感情から逃れることはできない。
 聖騎士として叙任された以上、指揮官としての責務から逃れることもできない。
 いっそ、この身を機械人形に変えれば、こんな辛苦を味わうこともないだろうに…。
 ザルバッグは自嘲めいた笑みを唇に乗せ、前方の景色に視線をそそいだ。
 鈍色の空を背景にそびえる灰白色の砦。鶴翼の陣を敷き、武器を構えて佇立する兵士達。兵士たちの後背に設置された、複数の投石機と攻城塔。
 灰褐色の瞳に映る光景に変わりはない。本陣の外れに位置するこの野原に、幾つかの手続きでもって独りの場所を作り出した時から同じ風景を彼に提供している。変化をもたらすのは、自分が発する命令である。
 攻城戦の開始となるか。野戦に移行となるか。
 胸中にある二種類の命令を選び取る権限は、彼にない。
 選別の契機となるのは、一つの朗報もしくは敵の出方である。
 ザルバッグは双眼を閉じた。身を斬るような寒風に身をさらし、思考の大渦をなだめる。自制心でもって心の泉を凪状態にすると、彼はまぶたを上げ背後に声をかけた。
「何かあったか?」
 数秒後、呼応するかのように一人の騎士が木陰から姿を現した。臨時として副官職に就いた騎士、ハンフリー・ギルエバである。オレンジ色の髪をもつ青年騎士はその場に片膝をつき、前方を見据え続ける上官を見上げた。
「閣下。少女の行方が分かりました」
 平坦さを保とうと努力した痕跡がある声音に、ザルバッグは事態を察した。
「砦にいるのか?」
 確認をとる上官の声に、狼狽や怒りはない。ハンフリーは救われた思いで状況を説明した。
「はい。敵の一人が、少女の身柄と交換で我らの撤兵を要求してます。いかが取り計らいましょうか」
 その刹那、ザルバッグの脳裏によぎったのは、兄からの親書だった。

『以上から推察するに、ウィーグラフが籠城戦を選ぶ可能性は低い。が、単に逃走する可能性も、また低い。せめて一矢報いようと攻撃する機会を狙っているはずである。然るに、こちらは故意に乱れた陣を砦前に敷けば、ウィーグラフは隙ありと判断して必ずや姿を現す。すかさず兵を反転させ、あるいは伏兵でもって、捕縛もしくは殺害すれば良い。ただ、ティータの身柄が砦に潜伏する反ウィーグラフ派の手中にある場合、大兵力に気が動転し混乱した奴らは、ティータを盾にして何らかの要求をしてくる可能性が高い。おまえには今更書く必要がないことかもしれないが、敢えて記す。正義を実現する北天騎士団が、社会秩序の害毒である盗賊と交渉する余地など、ありはしない。いかなる状況下にあってもだ。ゆえに…』

「閣下?」
 背後からの呼びかけが、ザルバッグの意識を現実へと引き戻す。
「客員騎士アルガス・サダルファスを私の天幕に連れてきてくれ」
 ハンフリーは瞠目した。
 その固有名詞が担う役割を知らない者は、騎士団の中にいなかった。彼の者の役割が果たされたとき、面前の団長が途方もない心痛にさいなまれることを、皆が知っていた。
 縦横無尽に吹き荒れる寒風が二人の騎士に襲いかかり、彼らの髪をかき乱し、同じ紋章が施された異色のマントをはためかせる。そして、ザルバッグの独語めいた命令をハンフリーの耳に届けてくれた。
「砦の件は…オレが処置する」

***

 心の奥底に聖域といえる場所があるとすれば、アルガス・サダルファスの場合、それは十一年前に聞いた父の言葉である。
「騎士として叙任された以上、武具は常に最良の状態を保っていなければいけない。危急存亡の秋(とき)は突如やってくるものだから」
 当時六歳だった彼は「危急存亡の秋(とき)」という言葉の意味がよく分からなかった。ただ、暖炉の火で黄金色に照り返された父の横顔を眺め、周りを見渡し、朧気にこう思った。
 膝枕をしてくれる、暖かくて大きな父。
 日だまりのような微笑みを向ける母。
 揺りかごの中で玩具のような手を伸ばしてくる、五つ年下の妹。
 暖かくて優しい世界に必要不可欠な存在。
 この世界を破壊することが、この人達を傷つけるのが「危急存亡の秋(とき)」なのだ、と。

 この理解は間違ってはいない。だが、父の言葉は間違っている。

 一六歳のアルガスは過去の自分にそう告げると、手元にある木箱のふたを開けた。縦三〇センチ、横幅一〇センチ、高さの八センチの木箱に収納されているのは、自動弓専用の太矢である。その数、百本。アルガスは目についた一本を手に取った。鋭い水色の瞳で一瞥し、腰帯に固定した矢筒に移し替えた。続けてもう一本手に取る。片眉を僅かに動かして今度は脇に退けた。
 以下、彼は一本一本手にとっては、選別作業を繰り返す。
 仮にイゴールがこの場にいれば、驚愕しただろう。アルガスの選別作業は速さゆえ無造作に見えるが、矢柄が湾曲していたり鏃の接着が甘かったりする矢はきちんと脇にやられ積み重なっていく。迅速性と確実性を併せ持つ動き。それは、何千何万回と目利きを繰り返した者だけが得られる効率の良さだった。
 木箱の中身が残り四分の一程になった頃、矢筒の中は一杯となった。手に持っていた太矢を木箱に戻さず、これまた手の届く距離に置いていた自動弓に装着する。安全装置をかけると、アルガスはふぅと一息ついた。強ばっていた身体を伸びでほぐし、そして、得意げな笑みを浮かべた。
 立って歩ける高さと人一人が寝食しうる面積とが確保された、天幕。地面の冷たさを防ぐため床一面に敷かれた、羊毛製のフェルト。それは、遠征中、百人隊長(百人規模の隊を統括する者)に提供される物品。
 丁寧に畳まれた状態で天幕の片隅に置かれている、白亜のマント。それは、ランベリー近衛騎士団の正騎士にのみ与えられる装束。
 鞘に収めた状態でマントの上に安置されている、一振り長剣。それは、サダルファス家の嫡男に受け継がれてきた品。
 手元にある、青く塗装された自動弓と太矢が収納された木箱。それは、今回の任務のために、ベオルブ家の当主から直々に与えられた武器。
 目に写った物全てが、現在の彼の地位を示しているからである。
 もっとも、百人隊長としての待遇は臨時のことであることも、彼は認識している。
 しかし、それでも。
 一六歳という異例の若さで騎士に叙任され、ラーグ公直属の軍師の特命を拝命したのは、秀でた弓術の技量と状況を活用した結果である。
 今回の特命を達成し、ベオルブ家との人脈をより強固にする。
 そうすれば、きな臭さが漂うガリオンヌとの橋渡し役としての存在をランベリーに確立でき、過去の事件を持ち出して貶める奴らもこちらを無視できなくなる。
 交渉の方は何ら問題ない。ベオルブに貸しがあるのはこちらの方だ。いざというときの“切り札”もある。妥協の産物だろうが脅迫の結果だろうが、この際過程はどうでもいい。要は、ガリオンヌとランベリーとの食糧問題を解決したという実績を造りだせばいいのだ。自分は紛争を未然に防いだ英雄となり、そして、より強固な権力をこの手に収めることができる。
 そう、全ては、力を得るためだ。
 力さえあれば、亡霊のようにまとわりつく過去を抹殺できる。
 力さえあれば、父を裏切り、母を壊し、妹を連れ去った奴らに復讐できる。
 力さえあれば、奪われたあの世界をこの手に取り戻すことができる。
 力さえあれば、“危急存亡の秋(とき)”を未然に防ぐことができる。
 武具を磨いているだけでは、騎士としての清廉潔白な心構えだけでは、何ひとつできはしない。守れもしない…。
 不意に物音がアルガスの聴覚を刺激する。軍靴で草を踏む音だ。かなりの速さで近づいてくる。
 彼が首だけを後ろに動かした刹那、誰かが入り口をくぐってきた。
「客員騎士アルガス・サダルファスか」
 天幕に足を踏み入れるや、訪問者はそう尋ねてきた。自分より十は年上だと推察できる騎士だった。オレンジ色の頭髪が目につき、敬称が使われていない確認が気にくわない。
「そうだが、何の用だ?」
「将軍が貴殿を呼んでいる」
 輝かしい未来への第一歩となるであろうその命令を、アルガスは待ちに待っていた。
 すっと立ち上がり、長剣を腰帯の金具に固定して白亜のマントを肩に羽織る。天幕の中央に置かれた青の自動弓を右手でとった。
 支度ができたことを頷くことで案内役に示す。
 入り口のカーテンを翻して出ていく年長の騎士の後を、アルガスは勇躍してついていった。

***

 人、人、人。
 右を見ても、左を見ても、前を見ても、だ。
 しかも、全員が鉄製の槍を構え、鋼鉄の甲冑を纏い、青のマントを羽織っている。見事にその外見は均一化されていた。満足な食事と睡眠をとった状態であるならば、興味と感慨をもって眺められたのかもしれない。しかし、一週間近い拘禁でティータは疲れ切っていた。摩耗しきった認識力と感受性は、ゲーム盤の駒のよう、という平凡な比喩のみをもたらした。
「さっさと退けッ!…おい、お前も何か言え」
 背後で怒鳴り散らしている男が囁き、手首への締め付けが強まる。
 何を言えばいいのだろう。
 ぎりぎりと縄が喰い込むのを感じつつ、ティータはぼんやりと考えた。
 泣き叫んで助けを求めてほしいのだろうか。
 でも、本物の令嬢なら、わたしが知っているあの子なら、誘拐犯に屈したりはしない。
 アルマなら、どうするだろう。
 無言で苦痛に耐えるだろうか。
 もしかしたら、負けないとの訴えを籠めて、相手を睨み付けるかもしれない。
 どちらにせよ、要望に応えない方が“らしく”見えるだろう。
 ティータは声を漏らさないよう唇を噛みしめ、表情を他人に見られないよう俯いた。手首への締め付けはますます強くなり、皮膚が裂け、そこから生暖かい液体が滲み出す。みしり、と骨が軋む音がしたとおもった瞬間、力が緩められた。ティータは息を一つ大きく吐き、そして、理解した。力が緩められた理由を。
 正面の人垣が整然と崩れ、人ひとりが通れる空間が発現していた。その空間を悠然と一人の男性が歩いてくる。
 風になびく短い金褐色の髪。威風堂々たる足取り。豪奢な黒と金の騎士装束。目にも鮮やかな朱色の篭手。
 見覚えのある頭髪に、歩き方に、軍服に、ティータの胸に期待の芽が芽吹く。
 瞳をじっと凝らしてその顔を認めた瞬間、芽は安堵と安心を養分として急速な生長を遂げ、希望という大きな花を咲かせた。
 しかし、十秒にも満たない時間で、困惑と不安という二重の黒い影が覆い被さった。ザルバッグと視線が交わる寸前、ついと外されたからだ。気まずそうに。申し訳なさそうに。
 ―――どうして?
 生憎と彼女に熟考する時間は与えられなかった。急に後ろに引き寄せられ、首に太い腕を回される。鎖骨あたりに、冷たくて鋭い何か当たっている感触。相手を刺激しないよう目だけを動かして下を見ると、ナイフの柄と金属の光が視界をかすめた。
「さっさと、ここを立ち去るんだッ!この娘がどうなってもいいのかッ!」
 誘拐犯は殊更ゆっくりと右手を動かす。皮膚が裂かれ血が流れ出す感触に、ティータはびくりと身体を硬直させた。心臓は、音が周りに聞こえるのではないかと思うほどうるさく、激しく時を刻んでいる。
「おかしなマネはするなよ。この砦の中には火薬がごまんと積まれているんだ。おまえたち全員を吹き飛ばすだけの量はたっぷりあるんだぞッ!」
 しんとした静寂が辺りを支配する。
 誘拐犯の太い腕はティータの喉を圧迫し、悲鳴どころか喘ぎさえも漏らさせない。右手にあるナイフは変わらず鎖骨の数センチ上にあたる箇所を刺激している。
 拘束と緊張と恐怖によって、彼女の気道は極端に狭まった。
 息苦しさのあまりに意識が飛びかけた瞬間、身体がふっと軽くなった。瞼をそっと開けと、首に回された太い腕はない。鎖骨から刃の感触も消えていた。両腕を拘束している縄はそのままだったが。
 ティータは恐る恐る下を見る。
 自分たちを中心に周囲を取り囲んでいた兵士達が、ほとんどいなくなっていた。残っているのは、陸橋へ通じる坂道にいる人達のみ。その中には見知った顔が二つあった。ザルバッグと、イグーロス城で一度会った少年である。兄達と一緒にいた、目つきの鋭い人。名前は…なんだったか。
 このとき、ゴラグロスは、北天騎士団がこちらの要求を呑んだと思っていた。
 しかし、事実は異なる。
『数千の兵を吹き飛ばすだけの火薬』という言葉が、砦にいる敵はこの哀れな誘拐犯だけであって攻城戦の必要が無くなったことを、事態はダイスダーグが予測したとおりに進んでいることを、ザルバッグに教えたからだ。
 ザルバッグは傍らにいる客員騎士・アルガスに目配せする。騎士に叙任されたばかりの少年は、右手にある自動弓の安全装置を解除した。
「おまえたちもだ。早く退け!」
 移動しようとしないこちらを不審に思ったのだろう。誘拐犯がせっぱ詰まった声で命令してくる。
 その要求に対する北天騎士団の応対は定められている。
 いや、ちがう。己の意思で選び、決めたのだ。
 ザルバッグは心中で何十何百回と繰り返し練習した言葉を口に出した。
「我々北天騎士団は、貴様たちの脅しなどに屈したりはしないッ!」
「兄さんっ、アルガス!」
「ティータ!」
 二種類の呼びかけが乱入してくる。
 耳になじんだ声に、ティータとザルバッグが同時に視線をめぐらす。砦の壁際にいる六名の候補生の顔を視認したとき、前者は歓喜でその瞳を輝かせ、後者は眉間に苦悩の縦皺を刻んだ。
「兄さんッ!」
「動くんじゃねぇ!」
 唯一の血縁者の方へと身体を傾けようとするティータを、ゴラグロスは腕力と荒縄の拘束具でもって押さえ込む。華奢な少女の身体を最も畏怖すべき存在への盾にし、再度同じ要求を突き付けた。
「早く退け、さぁ!」
「構わん、やれ!」
 誘拐犯が言い終わらぬうちに、ザルバッグが絶叫する。
「ハッ!」
 アルガスが青の自動弓を構え、引き金を引いた。
 ヒュと風を切る音がした。
 候補生達は陸橋を見上げた。一本の太い矢が、ティータの左胸に、ふかぶかと突き刺さっている。彼女はあえいだ。小さな身体がぐらりと傾く。その目は彷徨い、ラムザを、ディリータを見た。
「ティー……タ?」
 彼女は微笑み、彼女は倒れた。
 そして、そのまま動かなかった。

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