砕け散るもの(2)>>第一部>>Zodiac Brave Story

第十四章 砕け散るもの(2)

>>次頁へ | >>長編の目次へ | >>前頁へ

 胸を引き裂かんとした剣は、上体を反らすことで回避する。
 喉元を襲う刃は、首を横にしてかわす。皮が引き裂かれ、鋭い痛みが走った。
 血が、武闘着の襟を濡らす。
(なんとかして、懐に潜り込まないと…)
 しかし、そのような隙を見せるほど相手は甘くない。
 土壁に追い込み、三方を塞いで逃げ道を封じる。そして、交互にいたぶるような攻撃を繰り返し、こちらを疲弊させ、避ける気力が尽きた頃をねらって一気に仕留める。狩猟そのものといってもいい戦術だ。
(さしずめ、俺は猟犬に追いつめられた野兎か。…冗談じゃねぇ!)
 アデルは乾いた唇を湿らせ、右足を半歩退き腰を浅く落とした。右手を前へ出して、正面にいる騎士の目をにらみ返す。
 視線が交錯する。
 騎士が動いた。
 片足を地面にこするように動かし、腰を落とす。
 踏切音と同時に、騎士が突進してくる。
 が、異変が起きた。
 切っ先がアデルの身体に届く寸前、騎士はなぜか前のめりになった。その口から微かに漏れる、呻き声。
 原因を考える前にアデルは動いていた。左足を軸にしてしゃがみ、右足を前に出して回転させる。しなった脚が、騎士の臑をとらえた。
 鈍い金属音が響き渡る。
 アデルは鋭く舌打ちした。騎士が履いていた金属製のブーツのせいで、威力が半減されたからだ。
 しかし、衝撃までは吸収しきれない。騎士の身体は、前のめりのまま片側に傾く。その脇をくぐり抜け、背後に回り込む。がら空きとなった騎士の背中には、一本の矢が突き刺さっている。そこを目がけて、アデルは裂帛の気合いと共に拳術を発動させた。
「波動撃!」
 気の固まりに矢は押され鎧を貫き、騎士の身体をも貫く。
 背中から勢いよく鮮血が溢れ、大地を赤く染める。
 やがて、騎士は糸が切れた操り人形のように両膝をつき、倒れこんだ。己自身が流した血だまりに顔を埋めたまま、起きあがらなかった。
 しかし、感傷に浸る暇はない。
 左右同時に迫る殺気を感じ取り、アデルは上へ高く跳躍する。空中で体勢を整えている際、
「そうすれば、身代わりとして殺されることもなかったのにな」
 嫌みったらしいアルガスの発言が耳に届いた。
 罪の意識を感じさせない身勝手な言いぐさに、怒りが猛然と湧き上がる。
 着地すると同時に、激情のままに、左側面の騎士に飛びかかっていった。


 どうすればいい。どうすればいい。
 左胸から溢れ出る赤い液体を、止めるには。
 徐々に冷たくなっていく華奢な身体に、温もりを与えるには。
 閉じたままの瞳を、再び開かせるためには。
「ティータ」
 呼びかけてみた。
「ティータ」
 手の甲で頬を軽く叩いてみた。
 妹からの反応はない。
 分かっている。こんなことをしても意味がない。ティータの怪我は致命傷だ。矢は最も重要な循環器、心臓を射抜いている。おまじないや魔法薬程度の応急手当は、焼け石に水でしかない。
 イリアが懐から取り出した赤い羽根を一振りする。さっき彼女が唱えた蘇生魔法と同じ効果を秘めたアイテム、フェニックスの尾だ。妹の全身は暖かみのある赤い光に包まれた。ディリータは眩さに目を閉じる。光が収まったのを瞼の裏で感じ、目を開けた。イリアの手にある羽根は暗褐色に変色しており、塵となって風に流れていく。しかし、腕の中の妹は、なにも変化がなかった。
「ティータ!」
 救いの手を求めてイリアを見る。彼女の顔は、哀れなほど強張っていた。潤んだ青紫の瞳を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
 理性が動作の意味を察する。
 しかし、感情が認容するのを拒んだ。
 ディリータは血が流れ出る左胸を両手で押さえた。布越しに感じる、微かな鼓動。それは妹が生きている証だった。だが、もう弱い。どうしようもなく弱い。みるみる萎んでいくのがわかる。
「ティータ!!」
 そう呼びかける自分の声も、情けないほど震えていた。身体も小刻みに震え、妹の顔が霞んでいく。
 そして。
「ティータ―――ッ!」
 指先に触れていた鼓動が、完全に停止した。


 絶叫がこだまする。
 聞く者の身を引き裂くような悲痛な叫びだった。
 ラムザは顔を陸橋へ向け、親友の後ろ姿を見た。陸橋に横たわるティータを抱きしめた彼の肩はぶるぶると震えており、栗色の頭部が前方に落ちた。
 視線に気づいたのだろうか。イリアが顔をあげる。
「ごめんなさい」
 蒼白な顔のまま、彼女はゆっくりと首を横に振った。それは、つまり――。
「そんな…」
 首を振って、ラムザは呟く。
「だって、頼むって…見殺しにしないって」
 ザルバッグのたった一言の手紙に、ダイスダーグの言葉に、安堵した。
 血がつながらなくてもティータは家族の一員であって大切な妹である、と。
 皆が無事に助けたいと願っている、と。
 そして、信じていた。
 兄たちは、そのために出来ることをしている、と。
 ―――それなのに、どうして!
「まだそんなこと言っているのか? いい加減、理解しろよ。権力者は大儀と名聞を守るためなら何だって切り捨てる。その中には貴族に属する者だって含まれる。まして、守るべき理由も価値もない平民の小娘を切り捨てるのに、奴らは躊躇したりしない!!」
 砦中に聞こえるよう、アルガスは大声で断言する。
 そう主張するだけの根拠が彼にはあった。
 なぜなら、彼は知っているからだ。権力者に切り捨てられた者の存在を。治安と人心掌握のために犠牲の祭壇に捧げられた貴族の末路を。
 しかし、この場に、そのことを知る者は他にいなかった。
「黙れ!」
 精神の混乱を隠さないまま、ラムザが叫ぶ。
 直後、
「アルガス――ッ!」
 雄叫びをあげて、剣を構えたディリータがアルガスに突進した。胸をひと突きにしようとする剣を、アルガスは横に軽く跳んでかわす。
「よくもティータを! 殺してやるぞ、殺してやるッ!」
 白刃をさしのべ、殺気丸出しの両眼で、ディリータが激する。
 対峙するアルガスは、冷ややかに笑った。
「悔しいか、ディリータ。自分の無力さが悔しいんだろう? だが、それがおまえの限界だ。平民出のおまえには事態を変えるだけの力はない。そうだ、そうやって、嘆き悔しがることしかできないんだ。はっはっは、いい気味だぜ!」
「言いたいことはそれだけか? それだけかッ、アルガス!」
「そういきりたつな、ディリータ。すぐに妹の後を追わせてやるッ!」
「俺はおまえのいいなりにはならん。誰にも利用されんッ!」
 言い終わるや否や、ディリータは再びアルガスに襲いかかった。凄まじい速度で剣を繰り出す。
 しかし、大振りが目立つ剣は、アルガスの死命を制するにはできなかった。アルガスは巧みにディリータの剣の間をすり抜け、彼から遠ざかる。高台の縁まで移動すると、アルガスはふふんと鼻で笑った。その表情と相まって、腰に帯びた剣どころか背中に挿した自動弓さえ構えようとしない態度がディリータをますます逆上させた。剣を頭上に構え、獣じみた咆哮をあげ、アルガスに向かって走り出す。
 アルガスは泰然としていた。その頭上に今にも白刃が降り注ごうというのに、剣を抜こうとしない。冷ややかな目で迫り来る白刃をじっと見ている。ラムザははっとした。
「ダメだ、ディリータ!」
 ラムザが警告した瞬間、ディリータは縁から地面へと転落していた。アルガスは半歩身を退いてディリータの一撃必殺の剣をやり過ごし、飛燕の早業で襟首に強烈な手刀をあて、勢いのまま彼を叩き落としたのだった。
 アルガスは朦朧とした表情で苦悶しているディリータを見下ろし、背中から自動弓をとり、栗色の頭部に狙いを付ける。彼は勝利を確信していた。自分が立つ場所は長弓の射程外であり、かつ、陸橋にいる少女にとっても魔法の射程外。拳術を行使する候補生は騎士が抑えている。つまり、自分を妨げる者は誰もいない。
「宣言通り、妹の元へ送ってやるよ!」
 アルガスは引き金に指をかける。
 候補生の間に絶望的な一瞬が駆け抜けた。
 そして―――
「ファイア!」
 力秘めし言葉が響き渡る。
 アルガスは殺人行為を中断し、振り返った。目前に深紅の火炎の球が迫っている。回避行動をとる空間も時間もない。彼は両肩に留めていたマントを片手で引きちり、ばさりと旋回させた。白亜の布は火炎球を絡みとり、瞬時に緋色の炎に包まれた。
 手に伝わる熱に小さく舌打ちし、アルガスは燃えるマントを投げ捨てる。視線をめぐらし、片手を前に突き出した状態で荒い呼吸をしている金髪の少年を見つめた。
「驚いたよ、ラムザ。おまえまで敵対行為をするとは思わなかった」
 呼吸を整えたラムザは無言で鞘を払った。左手を刀身に添えて、構える。
「意味分かっているのか? オレは軍師の特命で動いている。オレに剣を向けるということは、北天騎士団を裏切ることだぞ?」
「だから、こんなことが、許されるとでもいうのかッ!」
 ラムザは昂然と顔を上げ、なおも糾弾してくる。
「筋金入りの甘ちゃんだぜ。何故、おまえなんかがベオルブ家に!?」
 アルガスの水色の瞳に、苛立ちと嫉妬の炎が燃え上がった。
 ――― ベオルブ家並の権威がオレにあれば!
 アルガスには、ラムザは己の持つ力の意義を理解せぬ愚か者に見えた。
「僕だって、好きで生まれたわけじゃない!」
「それが甘いって言うんだよ! 自分に甘えるな。ベオルブ家は武門の棟梁だ。トップとして果たさねばならない役割や責任がある。おまえでなければできないことがたくさんあるんだ。それができないヤツの代わりに果たさねばならない」
「利用されるだけの人生なんてまっぴらだ!」
「利用されるだと?」
 アルガスは反芻するように呟き、目を剥いた。
「ふざけるなッ!! ベオルブ家がベオルブ家として存在するために、オレたちは利用されてきた。いや、もちろん、オレたちだってベオルブ家を盾として、その庇護の下生き続けることができた。お互いに、そうやって、持ちつ持たれつの関係を築いてきたんだ。おまえはその仕組みの中で守られ、ぬくぬくと生きてきたんだ。利用されるだけだと? おまえは、“親友”と称するディリータでさえ利用してきたんだ!」
 そのとき、ラムザの表情が凍り付いた。
「僕が、ディリータを、利用?」
 ラムザは、初めて聞いた言葉のように単語を一つ一つ区切って呟く。
 利用という単語が空気に溶けて消えたとき、低い呻き声が彼らの聴覚を刺激した。ほぼ同時に視線を巡らせば、ディリータがふらつきながらも身を起こそうとしていた。
「大丈夫か、ディリータ?」
 困惑顔にごく微量の安堵を織り交ぜて、ラムザが問いかける。
 ディリータが茫洋とした表情で顔を上げる。榛の瞳が対峙する二人の姿を明確に捉えた瞬間、薄皮を剥いだかのようにその表情が一変した。
「俺に構うな、ラムザ! アルガスの次は、お前の番だッ!」
 敵意が籠もった目で、憎悪と嫌悪に歪んだ顔で、ディリータは叫んだ。
 ラムザは一歩後ろによろめいた。その右手から剣が滑り落ち、乾いた音を立てて地に落下した。
 その様を見ていたアルガスは愉快だった。おかしくてたまらなかった。
「ふっ、ふはははははは!」
 笑いの衝動が収まった後、アルガスは青白い顔で立ちつくしているラムザをみやった。
「これで、わかっただろう? 所詮、平民なんてこんなもんだ。オレたち貴族が仕事を与えてやっているにもかかわらずその恩を忘れ、平然と裏切れるんだ。やはり、共に歩める道などありはしない」
「違う、違う、違う!」
 ラムザは頭を両手で抱え、喚く。だが、その声には隠しようのない震えがあった。
 アルガスはさらに畳みかけた。
「違うものか。ベオルブの名を冠するおまえは、他人を利用する側に属するんだよ。マンダリア平原でオレを助けたのだって、そのためだろう?」
「違う、目の前で困っている人間を放っておけるか!」
 ラムザはなおも否定し続ける。
 頑迷な態度に、アルガスの苛立ちは爆発した。
「だったら、次からは捨てておけ! 友好的な人間だとは限らんからな!」
「助けられた分際で、勝手なことぬかしているんじゃねぇ!」
 そう答えたのは、ラムザではなく別の声だった。誰だ、とアルガスが思った瞬間、右脇腹に足の形をした猛烈な衝撃がきた。肋骨が数本砕ける鈍い音とともに彼の身体は宙を舞い、地に激突した。体中に走る痛みに耐えながらも身体を起こすと、黒髪の男子候補生が身構えた状態でこちらを見下ろしていた。
「く、くそっ」
 アルガスは脂汗を流しながらも腰のポーチをまさぐり、魔法薬の瓶を探し当てる。
 そのときだった。
 背中に、灼熱に似た衝撃を感じた。
 首だけを後ろに巡らすと、ディリータの顔。口の端を笑みの形につり上げている。
「き、貴様…」
 ひやりと冷たい異物が肉を貫き、骨を砕いていく。猛烈な痛みが彼の全身を襲った。喉から何か熱いものがせり上がってくる。吐き出すと、それは赤い液体だった。
 不意に視点が低くなった。砂と雑草が目に写る。
 俯せに倒れたと認識したときには、視界は暗くなりつつあった。
 ―――死ぬのか。
 そう思った途端、様々な人の顔がアルガスの脳裏をよぎった。
 同時に、彼は憎悪した。
 思い続けてきた願いの実現を妨げたのは、彼が忌み嫌う平民と、それに荷担した貴族だということに対して。
「く、くそ…おまえたち…な、軟弱ども…に…」
 最後に残された力を、彼は怨嗟の言葉を紡ぐのに使った。
 そして、その息は途絶えた。


 背中から剣に串刺しにされた、無惨な死に様。
 彼は、知らない人間ではない。同年代の人間であり、二十日ばかり行動を共にした仲でもあり、また、共通の敵と一緒に戦った仲でもある。会話を交わしたことも幾度もある。
 なのに、心のどこを探しても憐憫・哀惜といった感情は存在しない。
 それどころか……
 ―――当然の報いだな。
 アデルは胸中で冷ややかに死者に告げると、辺りを見渡した。
 砦を満たしていた殺気は消えている。敵と分別された者たちは、全員、地に伏していた。息がある者もいるようだが、戦闘を続行する意思と能力を持つ者はもういない。それさえわかれば十分だった。
 段差を降り、ゆっくりとした歩みでディリータに近寄る。彼は両膝をつき柄を握りしめた状態で硬直しているように見えた。
「ディリータ。もう、死んでいるぞ」
 彼は瞼を何回か瞬き、のろのろと柄から手を放した。血が糸状に絡みついた手のひらをじっと見つめ、緩慢な動きで立ち上がろうとする。手刀によるダメージが残っているのか、足はふらついている。
「おい、大丈夫か?」
 アデルはディリータの身体に手を回し、手助けをしようとした。が、身体に手が触れる直前、ディリータ自身の手によって払いのけられた。
 アデルは顔をしかめる。
 手の甲に感じた痛みにではなく、ディリータの表情に。
 べっとりと返り血がついた凄惨な顔なのに、迷子になった子どものように見えたからだ。
 自力で立ち上がりとぼとぼと陸橋へ歩むディリータの背中を、アデルは暗然たる思いで見送った。


 アデルがディリータの下へ向かったのを見たマリアは、ラムザの傍に駆け寄った。彼は足下をじっと見ている。
「ラムザ」
 呼びかけても、彼からの反応はない。変わらず、視線を地面に固定している。
 マリアは胸の内でため息をつき、彼が視線を注いでいるもの、彼愛用の長剣を拾った。刀身についた砂を軽く払いのけ、持ち主に見えるように差し出す。
 だが、ラムザは手に取ろうとはしない。彼の両腕は力なく垂れたままだ。
「…ラムザ?」
 不審に思ってマリアは再度呼びかける。そのとき、一つの足音が耳に届いた。視線を巡らすと、ディリータがゆっくりとした足取りでこちらに近寄ってくる。マリアは彼の通る道を防ぐ形に立っていることに思い至り、横にずれた。
 ディリータが脇を通過する。
 その際、ラムザの唇が彼の名を紡いだ。
「ディリータ」
 か細く、あまりにも弱々しい声。
 マリアは胸が潰れる思いがした。
 ラムザが発した声にではない。ディリータがラムザを方を見向きもしなかったことに。
 手の伸ばせば触れられる距離ですれ違ったディリータに、ラムザの声が聞こえていないはずがない。それなのに、彼は一瞥さえしなかった。まるでラムザが存在しないかのように無視し、すっと通り過ぎていった。


 イリアは無力感で一杯だった。
『絶対、助けるから!!』
 ディリータにそう言ったのに、自分にそう誓ったのに、結局何もできなかった。出来たことと言えば、三つしかない。両腕を拘束していた荒縄を短剣で断ち切った事。血と埃で汚れた顔を清潔な布で拭ったこと。そして、縺れていた髪を手櫛で整えてあげたことだけだ。
 ぎしぎしと陸橋が軋む音に顔を上げると、ディリータが歩み寄ってきていた。
 兄妹の別れを邪魔するわけにはいかない。
 イリアは立ち上がり、下に降りるべく歩き出す。
 ディリータとすれ違う瞬間、イリアはある一言を呟いた。
「ごめんなさい」
 自己弁護にすぎないと分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。


 涙を必死に堪えているイリア。
 その震える肩を優しく抱きしめ、潤んだ瞳を陸橋に向け続けるマリア。
 沈鬱な表情で、空を見上げるアデル。
 三人の表情を見たイゴールは、目線を上に向ける。
 陸橋ではディリータが妹の亡骸を抱きしめている。彼の両肩は震えており、彼の口からは、かすかな、本当にかすかな嗚咽の声が漏れている。
 陸橋から直線距離で十メートル程離れた高台には、こちらに背を向ける形でラムザが立っている。彼は、戦闘が終わってから身動き一つしていなかった。
 イゴールは、猛然と腹立たしさを感じた。
 危惧していた事態が、現実の物となった事に。
 軍師の策が見えていながら、何ら手を打てなかった己自身に。
 騎士団という公的組織が固執する『栄誉』というモノの恐ろしさの実体を見抜けなかったことに。
 悲劇の惨状を目に焼き付けるように見つめ、イゴールは唇を噛みしめる。そして、踵を返した。
「どこ行くんだ?」
 アデルが尋ねる。イゴールは端的に答えた。
「北天騎士団の様子を探ってくる」
「俺も行く」
 アデルは言うや否や、イゴールを追い越して坂道を下っていく。
 背後にいるイリアとマリアも移動する気配を感じたイゴールは、先程口にした自身の言葉の真意を理解した。
 俺が、あの二人を見続けることに耐えられないだけ、か。
 イゴールは足音を立てぬよう気をつけてアデルの後を追う。
 イリアとマリアも、その後に続いた。
 だが、彼ら彼女らは、その場に残るべきだったかもしれない。
 悲劇の幕は、まだ降りていなかった。


 ラムザは、ただ、突っ立っていた。
 身体は動かない。
 どのような行動をすればいいのか、わからないから。
 声を出そうにも、唇は動けない。
 何を言えばいいのか、分からなかいから。
 伏せたままの顔を、上げる事はできない。
 どのような表情をティータとディリータに向ければいいのか、分からないから。
 分からないことだらけで頭は混乱し、思考は完全に凍結していた。
 唯一実感できるのは、心臓にぽっかりと穴が空いたような喪失感だけ。
 不意に、白く小さいものがラムザの視界に入った。ふわりと地面に落ちたそれは、瞬時に溶けて水滴に変わった。
「ゆ…き?」
 信じられなくて、ラムザは空を仰ぎ見た。
 鈍色の空から、いくつも白いものがゆらゆらと舞い落ちる。頬に感じた冷たさに、現実の物だと認識する。晩春である金牛の月には珍しすぎる気象現象だった。
「ど、どうして…。これじゃ、まるで…」
 ―――ティータの死があらかじめ定められたもののようではないか!
 目の前に落下してきた雪を、ラムザは思わず手のひらで受け止めた。白い雪は、彼の手の中でゆるりと溶けて水滴に変わる。腹の底から何かが激流となってこみ上げてくる。堪えるため、彼は両手で腹部をきつく押さえた。
 そうやって己の内面と戦っていたからだろう。
 悲劇の最終幕となる鳴動に気づくのに、彼は明らかに遅れた。
 大地を揺るがす不自然きわまる振動を感じたときには、彼の身体は爆風によって宙を舞っていた。地面に落下したと同時に、焼け付くような痛みが左肩を中心に全身に襲いかかる。
「爆発…、火薬か?!」
 ラムザは歯を食いしばって身を起こし、目に飛び込んできたものに戦慄した。ディリータとティータの真後ろにある石造りの建物全体が揺れており、その空気孔からは緋色の炎が燃えさかっている。
「ディリータ、そこは危険だ! 早くこっちへ!!」
 ところが、ディリータは動かない。頭を垂れて、妹を抱きしめたままだ。
 ラムザは駆け出した。全速力で陸橋へ、彼の下へ走った。身体を苛む焼け付く痛みなど忘れていた。ディリータまでも失いたくない。ただその一心で、足を動かし続けた。
 だが、あと数歩でディリータに手が届くという距離で、視界いっぱいに閃光が炸裂した。轟音にはじかれるようにラムザは吹き飛ばされた。
 浮遊感の後、ラムザは背中から地面に激突した。
 背骨が折れるかと思った衝撃を受け、一瞬息を詰まらせる。続けて襲いかかってきた激痛と戦いつつ、上体を起こす。
 そして、目に写ったものに絶望した。
 二人がいた陸橋は跡形もなく吹き飛んでいる…。
 全身からがっくりと力が抜けた。頬に砂が飛び散る。
 意識が朦朧とし、視界が暗転していく。
 迫り来る熱気を遠い世界のように感じたことを最後に、彼の意識は闇に沈んだ。

>>次頁へ | >>長編の目次へ | >>前頁へ

↑ PAGE TOP