夢みたあとで(2)
瞼の裏を指す光に促されるように、目を開く。
面前には、城壁も芝生も、澄み切った青い空もなかった。視界に入ったのは、漆喰塗りの白い天井であった。
「ここは…」
身体を起こそうとした途端、
「―――っ!」
思わず呻き声を上げた。全身に激痛が走った。
無理もない。頭には包帯が巻かれていた。頬は赤く腫れ上がっていて痣になっている。手や腕、胸にも包帯は巻かれ、左足は添え木で固定されている。骨折したのだ。
浅く荒い息を何度も繰り返し、痛みを軽減するべく努力する。数十秒ほどの時間をかけて何とか成功すると、ゆっくりと瞳だけを左右に巡らし、耳を研ぎ澄ました。
四方を囲む白い壁は天井と同じ漆喰塗りで、飾り気がないが清潔感がある。室内はそんなに広くなく、家具といえるものは二つしかない。己が仰臥している寝台とその脇に設置さているサイドテーブルだけだ。微かに感じた空気の流れに目を動かせば、右の壁には小さな窓があった。備え付けられた両開きの木戸は開けられており、そこから暖かい陽光が差し込んでいる。
「どこだ?」
居場所を確定するために記憶を探る。幾つかの景色がざっと脳裏をよぎるが、この室内と一致するものはなかった。
「天国…ってそんなわけないか」
当たり前だ。
痛みを感じるということは、命あることへの歴然たる証拠である。
そんなことを考えていると、扉が微かな音を立てて開かれた。
「ああ、気づかれたのですね」
首を心持ち上げれば、戸口に僧衣を着ている女性がいた。年の頃は三十代後半だろうか。こちらに足早に近寄ってくる。
「無理なさらないでください。あなたは丸二日間眠り続けていたのですよ」
嬉しそうにこちらの顔を覗き込んで、女性は言った。
「ここは…どこですか?」
唯一自由になる口を動かして、疑問を相手にぶつける。
「ここは、マイラ村の近くにある修道院です」
女性が口に出した村名は、聞き覚えのないものだった。怪訝に思う気持ちが顔に出ていたのか、
「マイラ村は、フォボハム平原の西端にある村です」
と、付け足してくれた。
「旅装束をした女性ふたりが、大怪我を負ったあなたをここに運んだのです」
―――旅の女が二人?
「二十代前半と思われる方々でした。おふたりとも酷い状態で、あちこちに怪我をされていました。手当すると申し出たのですが、彼女たちは『急ぎの用がある』と断り、すぐ出発されてしまいました。あなたのことをくれぐれも頼むと、おっしゃっていましたのよ」
そう言われても、心当たりがない。
いや、そもそも、どうしてこんな怪我をしているんだ?
彼は自問し、ここ最近の記憶を掘り起こそうとする。ところが―――、
「そんな馬鹿な」
思い出せない。
二日間意識を失っていたと女性は告げていた。そして、身じろぎするだけでも痛みを伴うほど傷は深く、癒えた形跡は一切ない。ならば、怪我をしたのはつい最近であり、多く見積もっても一週間くらい前だと思われる。
一週間前に起こった出来事ならば、曖昧になることはあっても覚えていないという事はないはずだ。それなのに、全く思い出せない。生きている限り連綿と続いていくはずの記憶は、沈黙している。
焦る気持ちを抑えて、他のことを思い出してみる。
自分の名前は…わかる。年齢も思い出せる。今年で一七歳だ。だが、それ以上のこと…家族構成や家の所在地に及ぶと、途端にぼやけ曖昧なものになる。
先程の夢でみた白い立派な建物が、家なのだろうか?
夢に登場したやたら元気のいい女の子が、家族なのだろうか?
―――いや、違うな。
心のどこかが否定する。
しかし、そう感じる根拠が思い出せない。思いつかない。出てこない。
―――なぜだ!
「あの、どうかされましたか?」
はっと我に返れば、女性は心配そうな表情でこちらをじっと見ている。
隠す必要もないと考えた彼は、素直に自身の異常を伝えた。女性は暫し考え込むような表情をしたが、
「頭部を強打したために、一時的に記憶が混乱しているのでしょう。きっと、そのうち思い出せますよ。まずは怪我を治しましょう。食事をお持ちします」
安心させるように微笑み、乱れた上掛けをかけ直してくれた。こちらに背を向け、ゆっくりとした足取りで扉前に移動する。ドアノブに手をかけたとき、彼女は振り返った。
「申し遅れましたが、わたしはアンナと申します。あなたは?」
「ディリータです」
アンナと名乗った女性は呟くように口を動かし、言った。
「響きのいい名前ですね」
その瞬間、彼は目を見張った。
『響きがいい、きれいな名前だね。初夏のさわやかな風みたい』
脳裏に蘇る、幼い声。
『きみのこと、なまえで呼んでもいい?』
光指す庭に立つ、金髪の男の子。
自分の姿が映った青灰色の瞳には、不安の色がにじんでいる。
『もちろんだよ』
今よりも高い自分の声が、うなずく。
『よかった』
瞳が綺麗にたわみ、日の光に溶け込むような微笑みに変わった。
扉が閉まる音で、情景は淡雪のように消え失せた。
ベッドに背を埋め、瞳を閉じて、かりそめの闇の中彼は考える。
―――あの子どもは夢の最後に出ていた。あれは、だれだ?
自問するも、名前が思い出せない。
ただ、なぜか、胸が鈍く痛んだ。
***
長さ六〇センチほどの青い紐。
綿とも麻とも違う、鈍い光沢のある素材で編まれている。両端には金色の小さな珠がつけられており、その輝きは持ち主の髪の色を連想させた。
いつも使っている木の髪留めと異なる美しさに感嘆の息を吐き、途方に暮れる。
―――これ、どうしよう。
そう、手の中にある紐は自分のものではない。先日、あの男の子が残していったものである。
―――他人の物なのだから、持ち主に返さないといけない。
それはわかっている。当たり前のことだ。このまま自分の物として使う事なんて、とてもできない。
その点に関して、迷いはない。
自分が迷っているのは、持ち主に返却する方法だ。
困ったことに、「だんなさま」の子どもとして大切にされている彼の側にはいつも誰かがいる。黒っぽい肌をした女性であったり、たった一人の兄であったり、綺麗な服を着た気むずかしそうなお爺さんであったりと、人はころころと変わるのだが。
また、自分の側にはいつも元気のいい女の子が、アルマがいる。
結果、この一週間、二人っきりになれることなんて一切なかった。
ならば、男の子の側にいる誰かに返すよう頼めばいい。
それも考えたのだが、その方法では紐を拾った事情を説明しないといけない。
あのメイドさん達のことを話せば、兄は絶対悲しむ。いらぬ心配はかけたくない。
黒っぽい肌をした女性に言えば、同じ仕事場の人達の悪口を聞かせることになる。それは、決して喜ばれる行為ではないはずだ。
お爺さんはなんか恐そうなので、自分から話しかける勇気がない。
それに―――
『ここなら、人の目を気にせずに泣けるよ』
確信めいた口ぶり。何度も足を運んだかのような勝手知った様子。
おそらく、あの場所は、あの子の秘密の場所。
辛いとき、悲しいとき、一人になりたいときに訪れ、泣いたり喚いていたり叫んだりしたのだろう。
―――勝手にばらしちゃ、悪いよね。
自分に言い聞かせ、息を一つ吐く。ずっと椅子に座って考えていたせいか、身体が強張っている。思いっきり背伸びをして身体をほぐしていると、ドアをノックする音がした。
「ちょっといい?」
「はい」
椅子を飛び降りてドアを開けば、つい先程まで思い浮かべていた黒い肌の女性がいた。少し遅れて、名前を思い出す。
「マーサさん」
「これからパンを焼くのだけど、一緒に作らない?」
その提案に対し、少し迷った。
パンを焼くということは、自室を出て厨房へ向かうとなる。そして、厨房には、必ず何らかの作業を行っている人がいる。見知らぬ大人達が大勢集まる場所に行くのは、まだ、若干の抵抗があった。
「わたしにつき合うのもたまにはいいと思うわよ。アルマ様のようにハチャメチャなことをしないから」
マーサは片目をつむってみせる。茶目っ気のある表情と口調につられるように、
「はい」
と頷いてしまった。
「じゃ、行きましょう」
にっこり笑顔を浮かべて、マーサは歩き出す。その背中について廊下に出て、自室の扉を閉めた。
パンの作り方は、よく知っている。
製粉された小麦粉に水と塩とパン種となる酵母菌を加えて、混ぜる。生地がまとまってきたらボールから取り出し、粉うちしたテーブルに何十回も叩きつける。生地に滑らかさと粘りが出てきたら、十分こねられた証拠。生地を丸めてボールに入れ、薄布を上から被せて、五〇分ほど待つ。二倍に膨らんだら、生地に力拳で大穴を開け、ボールから取り出して再び生地を一つに丸めて、三〇分ほど放置。更に生地が倍に膨らんだのを確認したら、生地を食べやすい大きさに小分けして、パン用の焼き窯で二〇分ほど焼けばできあがり。
手順を一通り口に出すと、
「よく知っているわね」
マーサは嬉しそうに笑い、火にかけられた大きな鍋の前に立っているおじさんが、
「お母さんから教わったのかい?」
お玉で中身をかき混ぜながら、尋ねてきた。
「はい」
「そうかい。娘にきちんとパンの作り方を躾けるとは、すばらしいお母さんだね」
頬には深いえくぼが刻まれている。母のことを誉められ、とても嬉しかった。
「じゃ、腕前をみせてもらいましょうか」
その言葉を皮切りに、パン作りが始まった。
およそ一ヶ月ぶりのパン作りは楽しく、懐かしく、そして、少し悲しかった。作業が進むにつれて、村の共同パン焼き場で一生懸命生地をこねる母の姿が、きびきびと動き回るおばさん達から向けられた笑顔が、思い出されたから。
「生地を練ってから焼くまで時間をおくのは、生地を発酵させるためだよ。発酵とは…」
おじさんが人なつっこい笑顔で話しかけてくる。聞き覚えのない“発酵”という単語に興味を惹かれ、話に耳を傾けていると、
「マーサ、ちょっと」
厨房の入り口にいるメイドさんが、自分の傍らにいる人物を呼ぶ。彼女は小麦粉だらけの手を手ぬぐいで清潔にし、「生地を引き続き練っていてね」と言い残して離れていった。
「………」
「………」
二人の女性の会話は遠くて聞こえない。でも、時間が経つにすれてマーサの表情が険しいものになっていくのはよく見えた。
―――どうしたのだろう?
内心で疑問に思ったとき、メイドさんが自分の顔をちらっと見る。背筋がぞっとした。とても冷ややかな目をしていたから。
駆けるような足取りで、マーサが戻ってきた。右手に細長い何かを握っている。こちらに見せるように、手をゆっくりと開く。手のひらにあったのは、部屋に置いてきたはずの青い紐だった。
「これは、あんたの物?」
「いいえ」
詰問するような口調が気になったが、正直に答える。
マーサは一つ頷いた。
「そう、これはラムザ様の髪留め用の紐よ。毎日わたしが髪を結っているのだから、間違いないわ。でも、これがどうしてあんたの部屋にあるの? ラムザ様は一週間前『どこかに落とした』と言っていたのに」
「盗んだに決まってるわよ!」
罵声に弾かれたように顔を上げれば、メイドさんがつかつかと靴音を立てて近づいてきた。
「盗んでなんかいません!」
「へぇ、じゃあ、いつどこでどのようにして拾ったって言うのよ?」
「そ、それは―」
返答に詰まった。
枝にくくりつけられていた紐を手に取った情景が、男の子が告げていった言葉の数々が、気遣うような瞳が、脳裏をよぎっていく。
でも、どこからどのように説明すればいいのだろう。井戸で盗み聞きしたことを言うわけにはいかない。あの秘密の場所を言うこともできない。
「言えないということは、やましいことがあるってことね。部屋に隠しておいて、屋敷に行商人が来たときにこっそり売る気だったんでしょうよ」
メイドさんが決めつけるように言う。
「ちがいます!」
激しくかぶりを振っても、メイドさんは自分を見向きもしなかった。声を落として、マーサと会話をしている。嫌悪感で歪んだその横顔に、恐怖した。
「―――ひっ」
目の前の光景は、あまりにもよく似ていた。
両親が息を引き取ったあとにやってきた村人たち。溢れ出る涙をふいて玄関の扉を開けば、待っていたのは悔やみの言葉ではなく、仮面のように冷たい顔と太い木の棒と刃物の燦めきと多くの松明の明かりだった。
「あ…」
身体が震え、瞳が潤んでくる。それらの反応が、現状に対する解決策にならないことをわかっていても、止められない。
「…いや…わたし…なにもしてないのに…」
「落ち着きなさい!」
直後、すぐ耳許でぱぁんと小気味のいい音がした。悪夢のような情景が掻き消える。
じんじんと痛む頬をさすりつつ視線を上げれば、穏やかなマーサの顔があった。
「安心しなさい」
彼女は小声で囁き、次いでメイドさんをじっと見つめ、
「あんたの言うとおりだったとしても、使用人の任免権を有するのはベオルブ家の方々だけ。伺いを立てに行きましょう」
厨房全体に染みわたるような声で言った。
「伺いってご在宅なのはラムザ様じゃない! たかが八歳の子どもよ!!」
「あんたのその言葉は、ラムザ様のみならず、ラムザ様に屋敷の全てを任せた旦那様をも侮蔑するものよ。気をつけなさい」
メイドさんがぐっと唇を噛んで、押し黙る。
「さ、行くわよ」
マーサに腕を引かれ、石造りの廊下に視点を落として、足を動かす。
自分のすぐ後ろには、不機嫌そうな視線と足音が続いた。
「ラムザ様、マーサです。少し宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
立派な造りをした扉が、ゆっくりと開かれる。
絨毯の敷かれた室内に足を踏み入れ、少し驚いた。そこには、部屋の主である男の子だけでなく兄とアルマの姿もあったからだ。
「ティータ、その目どうしたんだ?」
椅子に腰掛けていた兄は、振り返るなり尋ねてくる。慌てて目元を袖で擦るが、隠そうとする態度で明敏な兄は察知してしまったのだろう。足早に駆け寄り、膝をついて目線を合わせ、「どうしだんだ?」と再び尋ねてくる。心配そうな表情に答える術がない自分は、ただ黙っていた。
少し離れたところでは、マーサが男の子に蒼い紐を見せ、メイドさんが紐を発見した状況を捲し立てるように喋っている。話が進むにつれて、兄の表情がどんどん強張っていく。それが、とても悲しかった。
メイドさんが話し終えると、
「ヴェガさん。あなたは勘違いしてます。その紐は、ティータにあげたんです」
男の子は事実と全く異なることを言う。ぎょっとした。
「えぇ!それは母さんの!」
「アルマ!」
驚愕する少女を、口元まででかかった自分の疑問を、彼は鋭い一喝で封じ込める。そして、兄と同年…自分より一歳年上の子どもがするには鋭すぎる目を、メイドさんに向けた。
「紐が部屋にあったというだけでティータの主張も聞かず、一方的に泥棒扱いするなんてとても失礼なことだ。今すぐ、ティータに謝ってください」
「で、ですが、マーサは『一週間前にどこかに落とした』と言っておりましたが」
「翌日、わざわざ届けてくれたんですよ。そのとき僕から『お礼にあげる』と言ったんです」
一呼吸おき、男の子は更に続ける。
「バーナードから聞いたのですが、ディリータ達の両親が黒死病で亡くなったという事実だけで、二人を忌避する動きが使用人の間であるとか。もし黒死病に感染していたのなら、ほとんどの人が一週間以内に発症する。一ヶ月たってもティータ達は体調を崩すことがないのだから、健康上何ら問題はない。つまり、あなたがティータに目くじらを立てる理由はどこにもない」
言わんとしていることを理解した瞬間、とっさにアルマを見つめていた。いつも一緒にいた女の子は、目元を僅かに緩め、はっきりと頷く。
そのとき、自分は先程とは全くちがう感情で、震えた。
二人は知っていたんだ。
自分たち兄妹が受けてきた悲しさを。辛さを。苦しさを。痛みを。
そして、同情や哀れみではなく、道理と条理と純然な好意で自分たちを受け入れてくれた。
「はやく謝ってください」
苛立つように男の子が言う。
メイドさんは長い間黙っていたが、
「………もうしわけありませんでした」
呻くように言い、ぱっと背を向けて部屋を出ていった。
乱暴に扉が閉められ、振動が静まり、しぃんとした静寂が室内を満たす。
最初に口を開いたのは、
「ごめん。僕のせいで、いらぬ気遣いをかけたね」
申し訳なさそうな顔をしている男の子だった。マーサから青い紐を受け取り、こちらに差し出す。
「はい、あげる」
「え?」
「『あげた』と言った以上、そうしないと不自然だから」
自分の腕をとり、手のひらに紐をのせた。
「やはり嘘だったのですか。おかしいと思ったのです。フェリシア様の形見を――」
「マーサ!」
男の子が大声で遮り、
「あ、余計なことを申しました」
マーサは慌てて口元を手で隠した。
手元の紐に視線を落として、考える。
フェリシアとは、女性の名前だ。そして、さっきアルマは『母さんの』と言っていた。
つまり、それは―――
「いりません。お母さんの形見なんてもらえない!」
紐を正当な持ち主に押しつける。
だが、彼は受けとろうとしない。自分の手にある紐を見つめて、首を振る。
「嘘をつくなら、どのような事になっても自分で責任をとりなさい。母さんがよくそう言っていたらしい。それに、紐はもうひとつあるから気にしないで」
微笑んで、首の後ろを、金色の髪を束ねている黒色の紐を指さす。
しかし、自分は気づいてしまった。
笑みの形を作る青灰の瞳に、淡く影が差していることに。
手放すことを後悔しているのだろうか。それとも母親の面影を遠くに見ているのか。
わからない。確かなことは何一つ言えないけど―――
「お母さんの思い出を取り上げるみたいだから、もらえません」
殊更よく見えるよう、紐を再度相手に差し出す。
男の子は、こちらの顔を凝視している。まっすぐ向けられた青灰の瞳を逸らさずことなく、見つめ返した。
「初めてだね。僕の目を見てくれたの」
ぽつりと言う。一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「そ、そうでしたか?」
「うん。皆で一緒に話をしていても僕と視線をあわせないようにしてから、嫌われているのかと思ってた」
「嫌ってなんかいません!その…わたし…」
「大丈夫、気にしてないよ。ディリータから『すごく人見知りする』って聞いたから。ね?」
兄が微かに笑って頷く。
それは、両親の死後初めて見た笑顔だった。
「誤解も解けたところで、実は、折り入って頼みがあるんだ」
不意に話題が変わる。
視線を兄から男の子に移せば、彼はとても真剣な表情をしていた。
「僕のことを、名前で呼んでほしい」
「はい?」
「ティータは、まだ、一度も僕の名前を言っていない」
正直焦った。
言われてみれば、その通りだった。
彼は、兄とは違う。血の繋がりはないから「にいさん」と呼ぶには抵抗がある。
また、アルマとも違う。年上で、しかも男の子だ。易々と呼び捨てにできない。
おやしきの人のように、様付けで呼べばいいのだろうか?
「敬語もいらないよ。僕は、ティータと仲良しになりたいから」
彼の言葉がそれを許さない。
一瞬、脳裏で適当な言葉を探し、勇気をふるって言った。
「ラムザさん」
「さん、なんていらないけど…」
不満そうに唇を尖らせる。
「急には無理です。少し…待って下さい」
「敬語もいらないって言っているのに…」
「名前を呼んでくれるのに二週間かかった。敬語なしになるには、何日かかるかな!」
アルマが茶化すように言う。
噴き出すような笑いは次々と伝染していき、数秒後、室内は盛大な笑い声に包まれる。
そのとき、確かに、自分も声をあげて笑っていた。
それは、およそ一ヶ月ぶりの感情だった。