第七章 錯綜(5)
与えられる兵との合流地点をダイスダーグの秘書官から聞き出すと、ガフガリオンはイグーロスの城下に足を向けた。馴染みの武具屋で、ゼイレキレの滝で感じた剣への違和感を確かめるためである。
「あら、珍しいお客だこと。ひさしぶりね、ガフガリオン」
店に足を踏み入れるなり、女の格好をした壮年の男・リデルが、女言葉で出迎える。
長いつきあいから店主の事情――身体は男だが心は女――を熟知しているガフガリオンは驚かず、簡潔に用件を告げ、腰に挿していた剣を店主に預けた。
「鍔の近くに小さなヒビが幾つも入っているわ。このまま使い続けていたら、ここからこんなふうにポキンと折れていたでしょうね」
刀身に手刀を軽くあてるリデルの仕草が、ゼイレキレの滝で戦ったラムザの狙いを浮かび上がらせる。逆上しながらも暗黒剣を無力化する唯一の戦術を見つけ出し、実践し、そして、撤退を決断させた要因を形成していたという事実に、ガフガリオンはえもいわれぬ高揚感を抱く。
「これなら、修理するより買い換えた方がお得になると思うわよ。刀身を研ぎ直して解決するような問題じゃないから」
「ンなら、お前に預けていた剣を返してくれ」
ガフガリオンがそう答えた瞬間、リデルの表情が凍り付いた。
「あの剣は十年以上も前にあんたが自ら封じたはずだ。なぜ、いまさら欲する?」
したたかさと艶やかさを兼ね備えた商売用の笑顔が消え、その声音も生来の低いものへと変化する。
面前の店主から注がれる鋭い眼光をガフガリオンはみつめ返し、やがて、口の端を笑みの形に動かした。
「そこら辺のなまくら剣じゃ、あいつにまた壊されるのがオチだからな」
愉快な玩具を手に入れたようなガフガリオンの笑顔は、彼を知る者に不安の影を投げかける。
口内から粘膜が急激に枯渇するのを、リデルは自覚した。
「いったい、どこのどいつと闘うんだ?」
リデルが細くなった喉から苦心して声を絞り出せば、ガフガリオンはいっそう笑みを深めた。
「天騎士の息子」
天騎士の称号を授かった騎士はただ一人、故人となったバルバネス・ベオルブのみ。イヴァリース国内では子どもでさえ知っている事実である。
「そんな…」
また、天騎士には三人の息子がいることも広く知られている。長男のダイスダーグは、ベオルブ家の現当主であり、ベストラルダ・ラーグ公爵に仕える軍師でもある。次男のザルバッグは、『イヴァリースの守護神』と亡き国王に称えられたほど優れた武人であり、北天騎士団団長の座を占めている。そして、妾腹の生まれである三男が――
「あいつが、ラムザが、その三男だって言うのか!?」
そう呻いたのは、リデルではなく、奥の部屋で耳をそばだてていたラッドである。ガフガリオンなら、ゼイレキレの滝での出来事を依頼主に報告したついでに武具のメンテナンスも頼むだろう。ラッドはそう推察し、リデルに事情を話した上で匿ってもらっていたのだ。
「―――!」
ラッドの呻きは本人の自覚以上に声が大きく、薄い壁一枚ではとうてい吸収しきれなかった。
壁越しに聞こえた呻き声でガフガリオンは潜んでいた者の正体を察し、面前の店主を睨み付ける。
リデルは席を立つことで、客の視線をかわした。廃棄処分となったガフガリオンの剣を取り、奥のドアに歩み寄る。僅かに開いていた扉を最大まで引き開けば、青ざめた顔で立ちつくすラッドの姿が現れる。馴染みの青年の耳に、リデルは囁いた。
「私は席を外すわ。心ゆくまで話をしなさい」
「すまねぇ」
ラッドが一歩を踏み出し、店内に足を踏み入れる。それを見届けてから、リデルは扉をそっと閉めた。
扉のささやかな開閉音の残響が消え去り、重苦しい沈黙がカウンターを挟んで対峙する二人の傭兵を包み込む。
「いまさらオレに何の用だ」
苛立ったような、突き放すようなガフガリオンの詰問。
それが、ラッドに逡巡という重い扉を押し開くきっかけとなった。
「あんたはいったい何を考えているんっすか!?」
「請け負った仕事を完遂する。それだけだ」
「俺が聞きたいのはそんな建前じゃないっす!」
ラッドは拳をタウンターにたたきつけた。
「なぜ、この仕事に俺とラムザを選んだっすか! あいつが『お姫様ご一行を殺せ』と命令されて『はい、わかりました』なんて素直に従うわけがないことくらいあんたは百も承知だったろうに、そうなれば任務に支障が出るってこともわかっていただろうに、ガイラーとか暇そうにしているヤツは他にもいたのに、どうしてわざわざあいつと俺を選んだっすか!?」
「本当にわからンのか?」
ガフガリオンにそう切り返され、ラッドの心臓は一際大きく撥ねた。
本当は分かっている。ゼイレキレの滝で抱いた確信は、間違いないのだと。そんなはずはないと思って何度考え直しても、反証は何一つ思い浮かばず確信は深まるばかりだったから。だが、それを口に出したくはなかった。言葉にすれば、大切な何かが失われ、今まで築いてきた何かが崩れ去る。恐ろしい予感が、脳裏から離れない。
しかし、ガフガリオンの厳しいほどに真剣な表情が、逃げを打つことを決して許さない。適当に誤魔化そうとするものなら、一生傍らにいることを許されない気がした。それは、耐え難きことだった。だから――、
「ラムザと…俺の選択次第では俺とも…戦うためっすか」
ラッドは渋々答え、ガフガリオンの表情を窺った。
彼の表情は崩れない。白い髭に覆われた口は、開く気配はなくまっすぐに結ばれている。見据えられた黒い瞳は、炯々と輝き続けている。
何トンチンカンなことを言っているンだ!
そう怒鳴り散らして否定してほしいという一縷の望みは、完全に断たれたことをラッドは覚った。
「なんでそんなことを! 俺にはあんたと戦う理由なんて――」
「十八年前、オレに向かって『殺してやる』と言ったのは誰だ?」
「――ッ!」
ざあっと血の気が引く音を、ラッドは聞いた。
「両親の仇を討つためにオレから剣を学ンだ。隙さえあればいつでも寝首が掻けるように、オレの背中についていた。そうだな?」
否定はできない。動機は、ガフガリオンが指摘するとおりなのだから。
だけど、肯定もできない。現在まで行動を共にしてきたのは、敵討ちという理由だけではないのだから。乱暴ではあるが温かさもある些細な出来事の積み重ねが、深く根付いていた黒い感情を変化させていったのだから。
「たった十八年で忘れちまうとは、親不孝者だな」
「じゃあ、なんであのとき俺だけを助けた! 『反乱分子の殲滅』という命令に逆らう根性があるなら、なんで両親を助けてくれなかったんだッ!」
(そう、その目だ)
ラッドと視線を交錯したまま、ガフガリオンは自分自身に向かって呟いた。
肉親を殺された憎悪。理不尽な現実に対する怒り。喪われた存在に対する悲しみ。死への恐怖。生への渇望。様々な感情を混在させて、激しく燃える褐色の瞳。その双眸の輝きが、十八年前、ガフガリオンに剣を止めさせたのだ。
だが、それをラッドに教えるつもりはない。それゆえ――
「気まぐれだ」
真実ではないが嘘でもない言葉を、ガフガリオンは選ぶ。
直後、ラッドの全身が大きくよろめいた。
「そんな理由で…俺には理解できない」
「別に理解する必要はない。オレはオレの好きなようにしている。今も昔も。おまえも小難しいことを考えないで、したいことをすればいい」
過去の思惑を捨てない者。共に過ごすうちに別の感情を抱いた者。
両者の間に存在する溝は拡大する一方で、後者が埋めようとしても前者がすかさず掘り下げる。前者に歩み寄る気持ちは、これっぽっちもないのだ。
「あんたはいつもそうだ。自分勝手で傲慢で、他人の気持ちにはお構いなし。あんたは俺に憎まれていると思っているようだけど、確かに親を殺したあんたを俺は憎んでいたけど、それ以上に許せないことが今のあんたにはあるんだッ!」
ラッドが腰に挿している剣に手をかける。
身構えるガフガリオンの面前で、彼は鞘とベルトとを固定する留め金を外し、鞘ごと剣を投げ捨てた。煉瓦の壁と乱暴に接吻され、けたたましい抗議の音をたてて床に転がり落ちる。
「俺はあんたとは戦わない。いや、俺だけじゃない、これから先は誰一人としてあんたと戦わせない。あんたの満足のために、誰一人として犠牲にさせやしない。あんたはダークナイトと呼ばれる全てを俺に奪われ、失意と悲嘆とに暮れながらやがては老衰で死ぬ。傲慢なあんたには、それがお似合いだ!」
言うや否や、ラッドは立ちはだかるように両腕を大きく広げる。
「―――ふっ」
ガフガリオンの口から失笑が漏れた。
「なかなかに面白いことを言う。だがな――」
唇が柔らかい弧を描き、笑みの形に固定される。黒瞳に、剣呑な光が宿る。
危険を察知したラッドは身を引こうとしたが、ガフガリオンの動きの方が早かった。左腕を伸ばし、ラッドの胸ぐらを掴みあげる。図らずもカウンターに上半身を乗り上げられて突き出す形となった顎に、ガフガリオンは拳を突き立てた。
「げぇ!」
ラッドの顔が激痛で歪み、ぐらりと上半身が揺らぐ。
その隙を逃さず、ガフガリオンはラッドの首筋に渾身の手刀を放った。
「そういうのは、オレを屈服させるだけの力をつけてから言うンだな」
ラッドの瞳から急速に意思の光が消え、がっくりと頭が垂れる。胸元から手を離せば、ラッドの身体はその場に崩れ落ちた。ガフガリオンがカウンター内に足を踏み入れても、横倒れの状態のまま起きあがる気配はない。
「あばよ」
青ざめた横顔に短く告げ、ガフガリオンは歩き出す。
以後、その黒瞳がラッドを映すことはなかった。