第十章 凶報(2)
たった三日間留守にしていただけなのに、ベオルブ邸の雰囲気は全く異なっていた。
夕焼けに染まった庭園の至る所に篝火が焚かれ、数名一組となった兵士達が何組も巡回している。彼らは完全武装しており、照り返しで伺える表情は、一様に厳しい。
空気はぴんと張りつめており、馬車の客席からも緊迫感が伝わってくる。
十年に近い年月をこの邸で過ごしたラムザとディリータだが、ここまで物々しい雰囲気を感じたことは記憶にない。
堅固な城壁と二重の外堀に囲まれ、邸内に入るには正面の門を通過する以外にはないという造りをもつベオルブ本邸。それゆえ、先代当主バルバネスは、邸内の警備よりも戦乱で乱れた所領の治安を回復・維持するための兵の配置を優先させてきた。それは彼亡き後も長子ダイスダーグに受け継がれ、ずっと正門に門兵を配備するだけだった。また、それで十分のはずだった。
その方針が破られるという非常事態。
イグーロス城門前で聞いた情報は事実であることを、そして、事態は深刻であることを如実に語っていた。
馬車はまっすぐに門扉に向かい、ゆっくりと停止する。馬車から下車すると、門扉の左右に控えていた見知らぬ兵士二人によって身元を確認される。ラムザが腰に帯びた剣の柄頭を提示すると、兵士はディリータにも身分証明となる物を提示するよう求めた。ディリータは戸惑いながらも、胸に下げていた士官アカデミーの学生証を見せる。名前を確認した兵士は微かに頷いた。
「お手数をおかけしました。どうぞ」
一人の兵士が門扉を押し開く。ことさらゆっくりと開いていく扉を見ながら、ラムザはたまらずもう一人の兵士に尋ねた。
「なぜこんなに警備が厳重なのですか?」
「もうしわけありませんが、私どもに答える権限はありません」
相手は平坦な口調で機械人形のように受け答える。誰が彼らにそう命令したか、誰が疑問に答える権限を有するか、わざわざ問い返す必要もない。ラムザは無言で完全に開かれた扉をくぐり、ディリータも彼の後に続いた。
大広間には、紺のお仕着せを着こなしている初老の男性が控えている。バルバネスの代からベオルブ本邸の全てを取り仕切っている執事頭、バーナードだった。
「お待ちしてました。ダイスダーグ様がお呼びです。二人ともこちらへ」
慇懃丁寧に一礼してから、彼は先導に立つ。背後で門扉が音を立てずに閉められた。
ラムザは違和感を覚えて、大広間を見渡す。
あらかじめバーナードが大広間で待っていた。つまり、自分たちの到着は本邸に前もって知らされていたことになる。おそらく騎士団の伝書鳩を使ったのだろう。それなのに、ここには彼女がいない。母と同義の存在であるマーサの姿が。いつもなら優しく暖かく出迎えてくれるのに…。
「ラムザ様?」
バーナードの呼びかけで我に返る。気づけば、二人は大広間中央にある階段へと移動していた。こちらを見つめる彼らの瞳には、気遣いの色が濃くある。
ラムザは他人に心配ばかりかける自分に嫌悪し、萎えた心を叱責した。
「いま行きます」
バーナードが案内した場所は三階にある南の部屋――ダイスダーグの書斎兼寝室だった。使用人のみならず彼の弟妹でさえ、許可なく立ち入ることは許されてない、本邸唯一の聖域。
バーナードがドアをノックすると、胡桃材の扉は、バタンと音を立てて内側から勢いよく開いた。室内からアルマが廊下へと飛び出してくる。彼女は執事頭の背後にいるラムザとディリータの姿を認めると、苦痛を堪えきれないように顔をゆがめた。
「アルマ、どうしたんだ?」
妹の尋常ならざる様子にラムザは首を傾げる。いつもと変わらない兄の仕草に、アルマの目尻から大粒の涙が溢れたか思うと、彼女は兄の胸目がけて飛び込んできた。突き飛ばす程の力を込めて突進してきた妹の身体を、両足に力を込めることで辛うじて抱き留める。
「ティータが、マーサが…」
アルマは涙声でそれだけ言うと、堰を切ったかのように声をあげて泣き出した。目尻から流れた涙は頬を伝わり、ラムザの青色のシャツをも濡らす。
妹の金髪を手で撫でながら、ラムザはぎこちなく妹が口に出した言葉を咀嚼する。意味を理解すると同時に、隣にいるディリータに顔を向けた。彼の顔は真っ青だった。
「そんな…まさか…」
震える声でディリータが呟く。ラムザがバーナードから事情を聞こうと口を開きかけたとき、奥から低い声がした。
「バーナード、二人を通せ。アルマは部屋に戻りなさい」
びくっとアルマの両肩が揺れる。涙でぐしょぐしょの顔をあげて、「でも」と扉の向こうに反論する。数秒後、より穏やかなものを混ぜた声が返ってきた。
「この二日間まともに寝ていないだろう。少しは休みなさい。ティータの事がわかれば必ず知らせるから」
「アルマ様。さあ」
バーナードがアルマに手をさしのべる。彼女は逡巡しつつもその手を取った。
「二人とも中へどうぞ」
「入れ」
異音同義の指示。
ラムザは妹の頬に流れた涙を指で拭い、軽く頬にキスをする。アルマが微かに顔を綻ばせたのを横目に見ながら、彼は部屋に足を踏み入れた。
壁という壁は全て木造の棚になっており、全てにびっしりと書物が収められた長兄の部屋。唯一ある南向きの大きな窓には、薄い緑のカーテンが飾られている。
部屋の左中央に置かれている応接用のテーブルと長椅子。机の上にあるランプ。精巧な草花の装飾が施されたシェード。床一面に敷かれた深緑色のカーペット。幼い頃、探検と称してディリータと二人でこっそり忍び込んだ時と何ら変わっていない。
「二人ともこちらだ」
右の続き部屋から声はする。ラムザとディリータは導かれるように歩を進めた。部屋の主は、中央に置かれたベットの上に麻色の寝間着という至極ラフな格好で横たわっていた。戸口で立ちつくす二人を見て、彼はそばに来るよう手招きする。ラムザは枕元に近づき、傷に障らないよう小声で疑問を発した。
「兄さん、いったい何が…」
「どこまで話を聞いた?」
発せられた耳通りのよい低い声。重傷という弱さを全く感じさせない灰褐色の瞳。
ダイスダーグの普段通りの振る舞いが、いいようのない不安を二人に感じさせる。どのような事態を告げられても動転するな、という彼の声なき声が聞こえるようだ。
ラムザは内心の感情を出さないよう細心の注意を払って、答えた。
「骸旅団に襲撃され、兄さんの他数名の死傷者がでたと城門前で聞きました」
「そうか」
ダイスダーグは天井に視線を向け、両目を閉じた。彼の黙考が整うまで、時間にして十秒ほどかかる。だが、焦燥と不安に苛まれていた二人には途方もなく長く、そして、もどかしいものに感じられた。
「最初から順を追って話そう。あれは、燻りだし実行日の朝だった」
その言葉を皮切りに、ダイスダーグは語り出した。
昨日の朝、警備の隙を狙って骸旅団の一小隊が本邸を襲撃したこと。
彼らの狙いは、ダイスダーグの暗殺であったこと。
邸内ということで帯剣していなかった彼は、たいした抵抗もできず腹部に深手を負わされたこと。
あわやというところで、自室で仮眠をとっていたザルバッグが現場に駆けつけ、辛うじて命拾いをしたこと。
形勢不利を悟った賊たちが逃げ出す際、勝手口付近に隠れていたアルマとティータをみつけ、人質として二人を連れ去ろうとしたこと。
そばにいたマーサが身を挺して妹たちを庇っている間にザルバッグが救援に向かったが、不運にもティータだけがそのまま奴らに拐かされたこと。
できあがった報告書を読み上げるかのように、ダイスダーグは淡々と暗殺事件のあらすじを語った。
「犠牲となった者は五名。正面に配備していた門兵四人と侍女のマーサ。ティータの行方は、ザルバッグが捜索している」
ダイスダーグはそう締めくくる。口から漏れる呼吸は若干荒い。
二人の少年は、ようやく気づいた。
ダイスダーグは、強靱な気力でもって苦痛を押さえ込んでいたのだということを。
そして、認識せざるを得なかった。
マーサの死とティータの誘拐は冷厳な事実である、と。
「心配するな…。たいした傷ではない…。言うのが遅れたが、敵のアジトを落としたそうだな…。よくやった…。あとはザルバッグに任せて、おまえ達はゆっくりと休むがいい」
顔を曇らせた二人に対し、ダイスダーグが苦笑いを浮かべつつも気遣いの言葉をかける。
その温かみのある言葉が、ラムザに取り乱すことを防ぎ当座の落ち着きを与える。
ディリータに対しても同様の効果を発揮した。それがなければ、相手が怪我人だということを考慮せず、また、己の立場をも忘れて激情の命じるままに行動していただろう。彼は左手を握りしめ、爪が手のひらに食い込む痛みでもって感情の沈静化を図る。
「兄さん、ティータは…、ティータはどうなるんですか?」
冷静さを保とうと努力しても隠しきれない不安をにじませて、ラムザは質問を発する。ダイスダーグは天井に視線を固定して沈黙を保った。室内を支配する静寂と胸中にわき起こる不安で圧迫されかけたとき、答えが返ってきた。
「やつらの本拠地を発見次第、ザルバッグが総攻撃をかける」
「そ、そんな!」
ラムザは顔を青ざめ、思わず兄に対する非難と抗議を口に出した。
ディリータは口にこそは出さなかったが、行動に表れた。カーペットを踏み潰すような勢いで一歩前に踏み出す。
「骸旅団はもうガタガタだ。逃げている者も数十人しかいない。頭目のウィーグラフは未だに捕らえていないが、それも時間の問題だろう」
戦況を説明する彼は、“ラーグ公の懐刀”と称される怜悧な軍師そのもの。
感情を伺わせない無表情さが、冷静な声が、ラムザに最悪の手段を想起させる。
兄がそんな非情な手段をとると考えたくもない。だが、戦略上有効だと評価しうる手だて。
「ティータを、…ティータを見殺しにするんですか?」
ラムザが震える声で疑念を口に出す。
怜悧な軍師の真意を探るには、あまりにも弱い縋るような声音。
だが、弟として実兄の考えを尋ねるには、十分なものだった。
「心配するな。手は打ってある」
ダイスダーグは視線を天井から弟たちへと戻し、彼らを直視する。
「ティータの身柄を取り戻すまでは総攻撃などはせん。絶対にな…」
強い意志が込められた灰褐色の瞳で、威儀ある低い声で、ダイスダーグは断言する。
続けて発せられた心情を吐露するような彼のつぶやきが、ラムザの胸の内にあった疑惑を拭い去り、心の底から安堵させた。
「実の妹のように想っているティータを見殺しになどするものか…」
***
「ちょ、ちょっと」
マリアが小声でアデルをたしなめ、イゴールが大きく開いた彼の口を塞ごうとする。だが、二人ともわずかに間に合わなかった。
「ティータちゃんが骸旅団に誘拐されたぁ!?」
アデルの口から発せられた大声は執務室内に響き渡る。この音量だと固く閉じた扉の向こう、廊下にも筒抜けだろう。これでは目の前にいる人物に、「内密に」と言われた意味がないではないか。イゴールは内心で彼を非難する。
「事実はそうだが、『ベオルブ家の令嬢』が誘拐されたという事にしてある。彼女の安全のために。以後、気をつけなさい」
机の右脇に控えている赤毛の騎士――副官のエバンスが厳しい口調で注意する。アデルは悄然とうなだれ、謝罪した。
「申し訳ありません」
「平民の娘だと発覚した時点で、人質としての価値はなくなる。無傷で解放される可能性もあるが、用無しとして陰惨な扱いを受ける可能性も否定できない。いや、むしろその方が高い。要人誘拐、略奪、横行、殺人などを繰り返す今の奴らは、凶賊そのものだからな」
副官の言葉は否定できない。だが、素直に頷く事もできない。
北天騎士団団長の執務室に呼び出された四名の候補生は、胸中の複雑な感情をなるべく表に出さないよう苦心していた。
「現時点において、彼女の行方は不明。一個小隊を捜索にあたらせているが、有力な情報はない。ただ――」
赤毛の騎士は傍らに坐する北天騎士団団長を一瞥する。ザルバッグは無言でうなずいた。
「奴らの本拠地と思われる場所が発覚した。ジークデン砦だ」
「質問いいですか?」
マリアが挙手する。
「なんだ?」
「そんな重要情報を、私たちに教えてもいいのですか?」
「その件についてはオレが説明する」
ザルバッグが初めて声を発した。
「作戦の直後で疲れているだろうが、第三班のメンバーにも彼女の捜索に加わってもらいたい」
それはこちらとしても望むところだが、なぜ騎士団の主力を差し向けない?
イゴールの疑問は顔に出ていたのか、それとも推察されたのか。
回答は彼が尋ねる前に、もたらされた。
「本拠地が発見されたゆえ、作戦は最終段階――総攻撃に移行する。主力は砦攻略に温存しなければならなくなった。そこで、捜索活動をしている一個小隊に加えて少数精鋭の部隊を複数派遣し、総攻撃が開始される前に彼女の身柄を確保する。出立は明朝。君たちは別行動をしている二人と合流の後、任務に向かってもらいたい」
ザルバッグは封書を机の上に置く。北天騎士団の紋章を施した封蝋が押されている。正式な辞令書だ。形式上、これを手にとれば、任務を承諾したとして遂行義務を負うことになる。
イゴールは、左右の仲間達からの視線が自分に集中するのを感じた。
班長であるラムザから後事を託されたという事実から、代理として受け取るべきなのは自分である。それは彼自身もよくわかっていた。だが、どうしても、確認したいことが一つあった。行動を開始する前に――。
「一時間だけ、話し合う時間をもらえせんか?」
左右から痛い視線が注がれているが、イゴールは無視する。向かいにいる二人の上官は困惑気味に顔を見合わせた。
「構わないが、オレはこのあと軍議で数時間は戻れない。エバンス、辞令書はお前が預かっておいてくれ」
「わかった。結論が出たら私の部屋に来なさい。場所は誰かに聞けばわかるだろう」
「了解しました。では、失礼します」
イゴールはアカデミー式の敬礼をして踵を返す。そして、足早に執務室を退出していった。他の三名も彼にならって敬礼すると、あとを追った。廊下に出て周囲を見渡す必要もなく、イゴールは見つけられた。入り口方面へと通じる廊下の曲がり角で、立ち止まっていたからだ。
「イゴール、お前どういうつもりだ! まさか断るというんじゃないだろうな!」
アデルは彼に詰め寄り、胸ぐらを掴みあげる。対するイゴールは冷静にその手を払いのけ、半眼を寄越すマリアの後ろにいる人物、執務室に呼ばれてから一言も声を発しない黒髪の少女を見やる。
「イリア、個別に話がある。来てくれ」