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Under the moon

「ひゃっほー!」
 歓声が響き、水音が幾つも弾けていく。
 目をこらせば、あまり布で作った即席の水着をまとった仲間達が遊んでいる。イリアとマリア、そしてラファはきゃっきゃっと黄色い歓声を上げながら水を掛け合っている。少し離れた崖では、アデルとムスタディオが水面に飛び込む際の姿勢を競い合い、マラークが冷静に評価を下している。行動は性格の違いを反映して異なるが、楽しそうな表情は共通する。眺めているだけで自然と表情が緩むのを、ラムザは自覚した。

 第一級異端者に認定されてしまったラムザ。ゴルターナ公と相打つ形で死んだことになっているオルランドゥ伯。教会と因縁浅からぬ関係のベイオウーフとレーゼ。
 さまざまな事情から素顔を晒して歩けぬメンバーがいるため、極力人目を避けて、裏街道を進み野宿を繰り返す日々。賞金目当ての襲撃を懸念する必要はないが、人間が文化的で健康な生活を送るために必要な要素――快適な部屋にふかふかの寝床、新鮮な食料から作られた食事に風呂――は諦めざるを得ない。加えてこの数日続いている、茹だるような暑さ。携帯している水はラムザの予想を超えてみるみる減っていき、節約を余儀なくされた。
 汗ばんだ衣服を洗濯することはもちろん、身体を清めることもできない。
 そんな日が三日続いた後に偶然発見した湖を無視するなど、誰もできなかったのである。

「皆、満喫しているようだな」
 背後から柔らかいアルトの声が発せられ、一つの足音がゆっくり近づいてくる。慣れ親しんだ気配だからこそ、ラムザは振り向くことなく応じた。
「ええ」
 ふっと日差しが弱まり、頬に影が差す。促されるように視線を上げれば、青の官服に身を包んだ女騎士は「座っても良いか?」と真横の地面を指さす。断る理由など心のどこにも見出せないラムザは、頷いた。
「湖の左半分の見回りは終わった。人家はないし、特に危険なモンスターもいないようだ」
 腰を下ろすなり単刀直入に用件を言われ、ラムザは意識を湖面から現実に切り替えた。
「ありがとうございます」
「伯達からの報告は?」
「まだです。ですが、そろそろ戻られると思います」
「そうか。それで、危険がないとわかれば今日はここで野営にするのか?」
「そのつもりです。水の補充はできますし、思う存分遊べてストレスも発散できるようですから」
 視線を遠くに向ければ、マラークが頭から水面に飛び込んでいるのが目にとまった。湖面に散る飛沫の量が、アデルやムスタディオのときよりも格段に少ない。カエルを使役するだけあって泳ぎも達者なのだろうか。そんな考えがラムザの脳裏をよぎる。しかし、傍らにいる彼女は、別のことに思いをきたしたようだった。
「お前は泳がなくてよいのか?」
 その言葉に一瞬どきっとしたが、平然を装って手にしている釣り竿を示して見せた。
「僕はこっちを楽しみます」
「釣り、か」
「ええ。そういうアグリアスさんこそ、泳がれないのですか?」
「正直、彼らの元気についていける自信がない。もう少し時間をおくことにする」
 アグリアスは吐息混じりにそう言い、すっと立ち上がる。「魚、楽しみにしている」と言い残して、立ち去っていった。
 ラムザは肩越しに遠ざかる背中を見送り、木立にその姿が消えるなり視線を正面に戻す。一向に引きがない釣り竿に念を込めて握り直した。

***

 夜の帳がおり、人がその身を夢に浸す時刻。
 一度は寝床に潜り込んだアグリアスだったが、明るすぎる月光のせいだろうか、奇妙に精神が高揚してなかなか眠ることができなかった。身体を軽く動かしてみれば安眠できるだろうか。そんな想いから枕元においていた剣を取り、寝息をすやすやと立てている仲間達の障りにならないよう音を殺して天幕を抜け出した。不寝番でもないのに起き出してきたアグリアスに、焚き火の傍らで見張り役を務めているベイオウーフとレーゼが問いたげなまなざしを向けてくる。正直に心の内を話すと、二人は「あまり遠くには行かないように」と至極当たり前の忠告と共に夜半の散歩を許してくれた。忠告を素直に受け止めて、足を湖の方へと向ける。程なくしてたどり着いた湖は、昼間とは違う静けさをたたえていた。空に浮かぶ青白い満月は皓々とした光を放ち、周囲を群青色に染め上げている。湖面は月光で銀色に輝き、時折吹くよそ風にゆらゆらと揺れていた。
 アグリアスはグローブを脱ぎ、両手で水を掬い上げて顔を洗った。清潔な水が寝汗を流していくのが、とても気持ちいい。
 その感触が、アグリアスにある誘惑を囁いた。
 それは、騎士としてではなく、この身が女であるがゆえの衝動。日の光が燦々と照っていた昼間では羞恥心が勝っていてできなかった行動。
 アグリアスは辺りを見渡してみた。今いるこの岸辺は、アグリアスが歩いてきた一箇所と面前の湖とを除けば岩と木立に囲まれており、周囲から隔絶されている。また、野営の焚き火を感じられない程度に遠ざかってはいるが、大声を上げれば仲間達に届くだろうと思われる距離。周囲に人家や危険なモンスターがいないことは、昼間に調査済み。そして、太陽の光には当然及びもしないが冴え冴えとした月の光のために、視界は明るい。足下に映えている茂みも、湖と岸の境も、向こう岸に広がる山地の稜線と空との境界も、きちんと識別できる。最後に、五感をとぎすましてみたが、騎士の感覚は危険な存在を捉えない。
 やっても問題はないようだな。
 思案を凝らした末に、アグリアスはその結論に至る。そして、決まりさえすれば、行動に移すのは早かった。腰帯から剣を外して草地に置き、髪を束ねていた革紐を解いてズボンのポケットにしまう。手櫛で軽く毛先を梳かしてから、衣服に手を掛けた。シュミーズだけを残して脱ぎ捨てると、剣の上においた。躊躇うことなく、湖の中に足を踏み入れる。
「っ!」
 足の裏を刺す冷たさに、眉をしかめる。しかし、数秒も我慢すれば、水が肌を弾いていく心地よい感触に変化した。ずんずんと湖の中央に向かって歩き、腰に漬かる深さに達して時点で足を止めた。勢いよく腰を屈めて頭のてっぺんまで水に浸れば、拭っただけでは落としきれなかった汚れが一気に流れ去っていくようで、極上の気分になれた。
 汚れを掻き出すように髪を洗い、満足がいったところで水面に浮上する。顔にまとわりついた前髪をかき分け、水分を吸って随分と重くなった後ろ髪を全て首の横に流し、根本から毛先へと手の位置を変えながら軽く絞った。ぽたぽたとしたたり落ちていた水滴が徐々に少なくなり、やがてなくなる。続けて身体を清めようとシュミーズの肩ひもに手を掛けたアグリアスだったが、聴覚に忍びこんできた一つの水音に、その動きを止めた。
「誰かいるのか?」
 問いかけてみるも、答えは返ってこない。目をこらしても、半径五メートル以内に人影は確認できない。耳を澄ましてみるも、アグリアスの動きによって水面が揺らぐ音しか聞こえない。
 魚でも撥ねたのだろうか。
 そんな推測がアグリアスの脳裏をよぎる。そして、魚という単語が数時間前の出来事を思い出させて、口元をほころばせた。

 今日の夕飯のメインメニューは、湖で捕れた魚に香草を詰めて焼いたものだった。調理を担当したのは、料理が得意なアデルとメリアドール。香草を調達したのは、野草に詳しいイリア。そして、メインとなる魚を用意したのは、湖畔で釣りをしていたラムザではなくオルランドゥ伯だった。二時間ほど釣り糸を垂れていたはずなのに、ラムザは一匹も釣り上げることができなかったのだ。彼に釣りの才能がないというわけでは、決してない。ただ、彼は、魚にエサだけを持ち逃げされたことに気づかなかったのだ。
 その事実が発覚したのは、釣り竿を持ち主である伯に返そうとした時点。伯は闊達に笑い、伝え聞いたムスタディオやマラークはここぞとばかりに彼をからかった。明るい話が好きなアデルは絶好の話題だと思ったのか、士官アカデミーにおける似たような出来事を皆に披露し、行動を共にするようにしてまだ日が浅いメリアドールの微笑みを誘い、仲間達を爆笑の渦に巻き込んでいた。自分の失敗を面白おかしく話されて機嫌を損ねたのか、ラムザは終始ふくれ面だったが。

(あのときのラムザの表情は子どもっぽかったな)
 思い出してくすくすと笑い、ふと、あることに気付く。最近の自分は、事あるごとに彼をみつめている。些細な表情の変化が妙に新鮮だったり、さりげない言葉に一喜一憂していたり、姿が見えなければ無性に不安になったり。彼とのつきあいもかれこれ数年に及ぼうとしているのだから、今更驚く必要もないだろうに。なぜ今頃になって、ただ一人の存在がこんなにも気になるのだ?
 自身の心理状態を紐解くべく思案の波に乗りかけたアグリアスの耳に、再び水音が一つ忍びこんでくる。アグリアスは身構えた。先程よりも音が近かったからだ。目を凝らして音がした方角をじっと見つめれば、何やら大きな影が水面をすぅと滑り、こちらへ接近しようとしている。
(ピスコディーンモン系のモンスターか!)
 イカから進化した、水辺を好むモンスター。昼間に行った見回りでも、水遊びの最中でも、一向に出現しないからいないだろうと判断していたのに。
 思わず腰に手をやり、剣の感触がないことに舌打ちする。服とともにおいてきた岸とは十メートルほど離れている。大地ならひとっ走りすればすむ距離だが、水中となると水が足にまとわりついて思うように動けないだろう。そして、もとが水棲動物だけあって、ピスコディーンモン系のモンスターは泳ぐのが早い。剣を取りに戻っても、途中で追いつかれる可能性が高い。
 ならば、先制攻撃で撃退する。
 音もなく近づいてくる影を注視し、目測で距離を測る。残り十メートル、九メートル。アグリアスは拳に気を籠めた。三メートルの距離になったら即座に発動させるつもりだった。が、五メートルの距離になろうかというところで、近づいてきたものは水面に浮上してきた。気付かれたか。アグリアスは腰を若干落とす。
「ま、待って下さい。僕ですッ!」
 水しぶきとともに浮かび上がってきたのは、両手を降参の形に上げた人間。月光を受けて、その人物がもつ髪が金色に輝く。見覚えのある髪の色に、聞き覚えのある声に、アグリアスは構えを解いて嘆息した。
「ラムザか、驚かせるな。モンスターかと思ってしまった」
「驚いたのはこっちの方です。岸に戻ろうと潜水していたら殺気を感じて慌てて浮上してみれば目の前にはアグリアスさんが――」
 不自然に言葉が止まった。面前の青年は目と口をまん丸に開いて、アグリアスの胸元あたりをじっとみつめている。釣られるように視線を落とせば、水を含んだシュミーズが肌にぴったりと張り付いている。アグリアスは自分でもびっくりする悲鳴をあげて、回れ右をした。
「見るな!」
「すみません!」
 どぼんと大きな水音で、背後の彼もこちらに背を向けたことがわかった。アグリアスは胸元を両腕でかくし、しゃがんで顎のあたりまで水につかった。あの青灰の瞳に映っていたものを考えるだけで、目眩がする。
「そ、その、ごめんなさい。夜も更けたからもう誰も泳いでいないだろうと高をくくっていたのですが、アグリアスさんまで水浴びをしていたとは知らなかったんです。その、まったくの偶然でみてしまったわけで、決して覗こうとした訳じゃありません! 信じてください」
 真っ先に謝罪をし、聞きもしないのに釈明をしていく。
 ちらっと肩越しに振り向けば、彼は両腕をじたばたと動かし、居心地が悪そうに身体を左右に揺すっていた。泳いでいたという言葉を証明するように、下半身に短いズボンを履いただけの軽装姿。戦士にあるまじき姿であるという点では、アグリアスとそう大差ない。加えて、狼狽顕わな態度に動揺しきった声音。嘘をいっているようには思えなかった。だからだろう、徐々に怒りが和らぎ、冷静な思考が戻ってきた。すると、途端に、あるものがアグリアスの注意を引いた。
 それは、ラムザの左肩から背中にある赤い傷痕。
「ラムザ」
「はいっ!」
「その左肩の傷は?」
 質問した途端、彼はびくっと身体を強張らせた。
「ジークデンの時の、火傷の痕です」
 若干の間を経てなされた返答は、深い悔恨と傷心とに苛まれている。アグリアスは己の思慮のなさを呪った。彼が王女誘拐の場に立ち会うことになった経緯は、いちおう知っていた。しかし、その事情を語ったときの彼の表情はとても苦しげで、深い事情までは聞き出せなかったのだ。
「すまない、辛いことを聞いた」
「いえ、いいんです。確かに、ティータの死を思い出すのは辛い。でも、忘れ去ることだけはできないから。そんな自分は、絶対許せないから」
 だから、ずっと背負っていくのだ。過去の所行から目を背けず、ありのまま受け止めて。たとえ、それが己の傷を再び抉る行為に等しくても。
 そう自分に言い聞かせているようにアグリアスには聞こえた。
「強いな」
「いえ、ほんとに強かったから昼間にムスタディオ達と一緒に遊べたはずです。この傷を誰にもみられたくなかったから、ジークデンのことを説明するのが恐かったから、こんな時間に泳いでいたんですよ。僕は、弱い人間です」
 背を向けたままなので顔は見えなかったが、おそらく自嘲の表情をしているのだろう。
 だが、アグリアスにしてみれば、それは誇れる弱さだと思った。
 利用される前に利用する。
 だまされる前にだます。
 奪われる前に奪う。
 殺される前に殺す。
 そんな非情なことがまかり通るのは、己の弱さを認めたくないからだ。
 誰だって、利用されるのは嫌だ。だまされるのも、奪われるのも嫌だ。殺されたくないと思うのは、生きる者として当然だ。でも、周りの人間が攻撃してくるから、自分が傷つきたくないから、やり返さずにはいられない。こんなことが幾度も繰り返された結果、今の荒んだ世情が形成されたのではないか。
 自分が傷つくのは嫌だと思う感情。それは、裏を返せば、他の者も傷つきたくないのだ。
 自分が弱ければ、他の者も弱い。だから、傷つけてはいけないのだし、奪ったり騙したりしてはいけないのだ。
 本当は誰もが知っている、ささいな真実。
 だけど、とても見失いやすい真実。
 忘れずに心に刻むことができるのは、きっと、彼のような、己の弱さを見据え続けることができる者だろう。
「ラムザ」
「はい?」
「触ってもいいか?」
「―――…え?」
「お前はその傷痕が己の弱さだという。だが、私には、どうしてもそうは思えないのだ。誰もが持ちえそうで、誰もが持ちえないもの。誰もが知っているはずなのに忘れがちなもの。今の時代に必要不可欠なもの。そんな風に思える。だから、率直に触ってみたいと思ったのだ」
 背を向けたまま、彼は押し黙っている。気を悪くしただろうか。いや、傷痕に触ってみたいなんて、はしたないと思われたかもしれない。だが、取り消す気にはなれなかった。今の自分の気持ちを、ただ、この心優しい青年に伝えたかった。
 長い沈黙の末、ぽつりと彼は言った。
「…どうぞ」
 許諾の言葉にほっと安堵し、立ち上がって彼のもとに歩み寄る。右腕を伸ばし、「失礼する」と前置きしてから触れた。
 不自然に盛り上がり、薄皮が張っているだけのひきつった感触が指先に伝わる。そっと下に辿れば、赤い傷痕は背中の半ばにまで達していた。医学の知識がなくても、かなり重度の火傷だったのだと推察できる。
 この傷痕があるからこそ、彼は彼たり得るのだ。でも、これ以上、彼が傷つけられて表情を歪める様を見たくない。
 他人の痛みがわかる弱さを忘れないでほしい。でも、どんな状況でも笑顔を忘れない強さも持ってほしい。
 矛盾する気持ちが胸の内に満ちて、溢れていく。
 この感情を表すには、どんな言葉も足りなくて。だけど、伝えたい気持ちは確かにあって。
 そっと触れるだけのキスを、赤い傷痕に一つ落とした。

- end -

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