涙
美しく、そして悲しい旋律の賛美歌。
この曲を聴くのは二回目だ。
一回目は、両親。
両親の存在そのものを否定するかのように全てを焼き尽くす真っ赤な炎を見つめながら、ティータがか細い声で歌っていた。たった一人でいつまでも歌っていた。
そして、二回目の今日。
隣の妹が、涙をこらえながら他の参列者に唱和するよう歌っている。
孤児となった俺たち兄妹を屋敷に雇うという形で養い、きめ細かく面倒を見てくれた優しい親父さんの冥福を祈るために。
歌うことに自信がない俺は、黙祷を捧げた。
やがて賛美歌が徐々に静まり、神父が捧げる祈りの言葉のみが流れていく。
「願わくば、聖アジョラの御加護によりバルバネス・ベオルブの魂を至福の地へと導き給え…ファーラム…」
「…ファーラム」
参列者に唱和して最後に言うべき言葉を言い、俺は目を開けた。悔やみを述べにいく参列者達の隙間から、最前列の様子が見えた。喪主であるダイスダーグ様は、ザルバッグ様に一言何かを囁いていた。背の高い二人が邪魔する形になって、ラムザとアルマの姿は見えない。
「ディリータ、そろそろ屋敷へもどるわよ」
ラムザとアルマの乳母であり、自分たち兄妹の母親代わりのマーサが小声で言う。俺は頷いた。
初めて知ったが、普通、埋葬の後は故人を偲ぶ簡易な宴――通夜をするらしい。しかも、葬儀の間に宴の準備を全て終わらせなければならないという。
大貴族であるベオルブ家の葬儀はそれなりに長いが、宴の規模もそれに比例するように大がかりなものだ。参列者の管理、料理の準備、会場のセッティング、案内、等々しなければならない仕事も山のようにある。そのため、ベオルブ家の使用人の中で埋葬に参列することを許されたのは、マーサと自分たち兄妹だけだった。他のみんなは、準備や宴に参列する客の対応に追われていることだろう。早く戻って彼らの手助けをしなければならなかった。
ほぼ泣きやんだティータを促して屋敷の方へと足を向ける。
するべき仕事が一杯あって、今は悲しみに暮れる暇さえない。
だが、その方がありがたかった。
通夜が始まった頃、霧のような雨が降り始めた。
「天が悲しみの涙を流しているようですわね」
「天騎士の死を悼んでいるのですよ」
参列者が口々に雅なことを言う。俺は灯のともった燭台をテーブルの中央に置き、大広間を退出した。料理人がごった返し戦場と化した台所で、マーサの次の指示を仰いだ。
「お疲れさま。あとはなんとかなるから部屋で休んでもいいわよ」
「はい」
「これは、あんたとティータちゃんの食事よ。悪いけど今日は部屋で食べてね。食器を返すのは明日でいいから」
「わかりました」
二人分の食事が載せられたカートを押しながら、人気のない廊下を歩む。薄暗い石造りの回廊を通り、使用人が利用する離れへの門扉を開く直前で、背後から声をかけられた。
「ディリータ!」
振りかえれば、喪服をまとったアルマがいた。彼女は駆け寄ってきて、せっぱ詰まった声で叫んだ。
「兄さん見なかった?!」
「ラムザか? 葬儀が終わってからは見てないけど」
そう返事すると、アルマはうつむき肩を振るわせて泣き始めた。どうしよう、兄さんまでいなくなったら、と涙声で言う。
俺は狼狽した。お転婆な彼女が泣くのを初めて見たからだ。慌ててズボンのポケットをまさぐり、ハンカチを差し出す。そして、どうしたのか尋ねた。
「兄さん、疲れたからって、部屋に先に戻ったの。…わたし、今日は兄さんと一緒にいたくて、部屋に行ったのに、いないの。屋敷のなか探したんだけど、どこにもいないの」
たどたどしいアルマの返事。そこまで聞き出せれば十分だった。
「わかった。俺も探すから泣くな」
両肩に手を置いて安心させるように微笑む。アルマは俺の顔を見つめ、それからこくりと頷き、俺のハンカチで顔を拭いた。
「すまないが、この食事をティータに届けてやってくれないか。先に食べてていいと伝えてほしい」
俺はそばに置いてあったカートを指さす。アルマは再び首を縦に振り、そして少し湿ったハンカチを俺に返した。
「ありがとう、ディリータ」
「いいよ。ラムザをみつけたら、すぐアルマの所に行くように伝えるから、自分の部屋で待ってな」
「うん!」
ようやく彼女らしい明るい声での返事が返ってきた。俺は彼女にカートを預け、来た道を戻り始めた。
一応とおもって覗いたラムザの部屋は、アルマが言ったとおり無人だった。
俺は、違和感を覚えた。
部屋が綺麗すぎる。
机には何一つ物がない。普段ならば雑然としていて、読みかけの書物やペンや紙が置かれているはずなのに。南の窓辺に置いてあるはずの画材一式もなかった。親父さんの容態が危なくなる前は、勉強の合間をぬって何かの絵を描いていたはずなのに。ベットは使った形跡がなく、白いシーツには皺さえ入ってなかった。
まるで、もう二度と戻らないように整理整頓された部屋…。
俺は頭を振った。
「アカデミー入学準備のために片付けたんだ。そうに決まっている」
不安を紛らすように独り言を言い、再度室内を見渡す。そして、室内にあるべき一つの物がないことにようやく気づいた。ある場所が脳裏に閃く。俺は部屋を飛び出した。
確かな証拠もない直感にすぎないものだったが、俺の予想は当たっていた。
ベオルブの屋敷の外れの丘にぽつんとある樫の大木。探していた人物は、太い幹に背中を預け、親父さんの墓標がある方角を見つめていた。右手には、彼愛用の剣が鞘に収めた状態であった。
「ラムザ、やっぱりここか」
ラムザはゆっくりと視線を移し、ぽつりと俺の名を呟いた。
彼は、いつからそこにいたのだろう。黒い喪服は雨水を吸って漆黒色になり、細い体にぴったりとくっついていた。普段ならピンと撥ねている髪の一房さえも、水気をすって重く垂れている。ピンクがかった白い肌は、今は血が通っておらず真っ白に近かった。
冬の夕刻に降り注ぐ針のような雨は、身を刺すように冷たい。樫の細い葉たちが屋根がわりになっているとはいえ、このままの状態で放置しておくと、彼は風邪を引きかねない。
「ラムザ、風邪引くぞ。屋敷に戻ろう」
「だいじょうぶ。しばらくしたら剣の稽古に戻るから。体を動かしていればそのうち暖まるから」
そう答えるラムザの顔には笑みさえ浮かんでいた。だが、俺はこんなに悲しい表情は見たことがないと思った。無理矢理微笑みという仮面を被り、悲しみを抑え込んで泣くのをこらえている彼の内面がはっきりと見えた。
鞘走りの音に思考を中断させられる。ラムザは樫が作り出す天然の屋根から一歩踏み出し、素振りを始めようとしていた。俺はその腕を掴み中断させる。
「どこが、大丈夫なんだよ! 今のおまえの行動は自虐行為そのものだ。親父さんだっておまえがそんなになるまで剣の稽古をするよう強要してない!」
俺の最後の一言でラムザの体から力が抜けた。右手から剣が滑り落ち、軽い音を立てて地面に落下する。
「じゃあ、どうすればいいんだ! 僕は、約束したんだ…。父さんと…。立派な騎士になるって…」
最後の呟きは、泣き出す寸前の声だった。俺は手っ取り早く楽になる方法を告げた。
「ひとまず、ゆっくり泣いていいと思うぞ」
「ダメだよ。なくなって父さんに叱られたんだ」
「どういうことだよ?」
「最後の別れのとき、泣きそうになったら父さんに手を突き放されたから」
ラムザはそう言って、墓標のある西の方角をじっと見つめた。雨が目に入っても瞬きもしない。目を乾燥させることで涙を流さないようにしている彼の姿は痛々しい。ラムザのこんな顔を、親父さんが望むわけがない。親父さんが望むのは…。
「親父さんは、泣き顔で見送られたくなかっただけじゃないのか?」
ラムザは真っ赤に焼けた焼き印のような視線を俺に向けた。大きく見開いた青灰の瞳を見ながら、俺は続けた。
「おまえ、最後まで泣かなかったんだろう? だったら親父さんも満足して逝ったはずだ。もう、我慢しなくてもいいと思うぞ」
俺はラムザの背中に両手を回し肩を軽く叩いた。ラムザは彫像のように微動だにしない。
「それに、おまえがそんな顔でいることを、天国の親父さんが喜ぶと思うのか? それくらいなら、今、全部、この場ではき出してしまえ。親父さんには黙っておくからさ…」
雨に濡れ、すっかり冷くなったラムザの背中をゆっくりと撫でる。凍り付いた彼の心を溶かすように。
しばらくされるがままになっていたラムザだったが、やがてためらいがちに俺の肩に額のせた。雨とは違う、ほのかに暖かい液体が俺の服を濡らす。小さかった嗚咽の声は、やがて慟哭に変わった。
「…ありがとう。ディリータ」
泣くだけ泣いたら、少しはすっきりしたのだろうか。ラムザは、はにかむような笑顔を浮かべて俺から距離をとった。
「ごめん、なんか子どもみたいに泣いてしまって…」
「気にするな」
「服、濡らしてごめん…」
「気にするな、濡らせついでだ」
「ごめん、わざわざこんな所まで探しに来させちゃって」
「もういいよ、謝らなくても。アルマが心配していた。屋敷にもどろう」
俺は地面に落ちて泥にまみれた剣を拾い上げ、ラムザに差し出す。彼は小声で感謝の言葉を呟き、雨で泥を洗い流した後、鞘に収めた。
なんだか、急に寒さを感じ始めた。身震いがする。屋敷までの最短距離を脳裏に描きながら大木から一歩を踏み出す。
「ディリータ」
何か言いたげな呼びかけに俺は足を止め、振り返った。ラムザは額についた前髪をかき分け、姿勢を正した。
「父さんが最期に言ってた。『ディリータはいい子だ』って。僕もそう思う。そして、かけがえのない素晴らしい親友とも…。いつも、僕を支えてくれてありがとう。感謝してます」
ラムザは真摯な瞳でそう言うと、俺にむかって頭を深く下げた。
俺は、一瞬過去を垣間見る。
嬉しそうに笑って、俺の頭を撫でてくれた親父さん。
あれは、いつだったろう。
どういう経緯でいい子だと誉めてくれたのだろう。
ずいぶん昔の出来事で、よく思い出せない。
だが、これだけははっきりと覚えている。
誉めてくれた後、親父さんは膝をついて目線を俺に合わせ、真剣な表情である頼み事をした。
『ディリータ。きみさえよければ、ラムザの友達になってやってくれるか?』
『はい!』
俺が目をそらさずに力強く返事をすると、親父さんは俺の両肩に手を置いた。
『ありがとう。心から感謝する…』
そう言って頭を垂れた親父さん。
そして、今、あの日の親父さんと同じように頭を下げるラムザ。
顔は全然と言っていいほど似ていない二人。だが、内面がなんて似ているのだろう。どうして、俺ごときに感謝の言葉を言ってくれるのだろう。
……胸が熱い。
「ディリータ」
ラムザが白いハンカチを差し出す。俺は素直に受け取り、そして、思わずハンカチの状態について悪態をついてしまった。
「なんだ、このハンカチ、びしょ濡れじゃないか。こんなので顔が拭けるか!」
「ないよりはマシだろ」
むっとした表情でラムザは返事をする。俺は負けじとつっこみ返す。
「こんな所にずうっといるからだよ! さっさと屋敷に帰るぞ。マジ寒い!」
「分かってるよ。僕も風邪引きそうだ」
「おまえ、大丈夫だって言ってたじゃないか!」
「あれはあのとき、今は違う!」
そう叫んで、ラムザは屋敷の方へ一気に駆け出した。俺は持っているハンカチを手で絞って水気を取った後、軽く顔をぬぐい、彼の後を追った。
胸中で、ラムザと親父さんに対する感謝の言葉を呟いて。
了