癖毛
「なあ、お前のその髪って癖なのか?」
「なに?」
「いや、その一房だけ撥ねている髪」
アデルは不思議そうな顔をして、ラムザの金髪の一房を指さす。水気を吸っているため普段ほどではないが、やはり他の大部分の髪とは明らかに違う流れを形成していた。
「ああ、これか。たぶんそうなんだろうね」
該当する一房をもてあそびながら、ラムザは苦笑する。湯煙に満ちた浴室内に微かな笑い声が響いた。
「ふ〜ん。ベオルブ家の家徴か?」
「いや、そう言う訳じゃないよ。兄さん達にはないし」
「確かに、軍師にはなかったな…」
浴槽につかったアデルは二、三度首を縦に振った。
二人の会話に耳を澄ましていたイゴールは、身体を清める作業を再開する。だが、数秒も経たないうちに再び中断した。せざるを得なかった。
「でもよ…。軍師の前髪も癖だろう?」
「…は?」
イゴールは一瞬耳を疑う。
後ろを見遣れば、湯船につかっているラムザとディリータも、真意を伺うようにアデルを見つめていた。
「普通さ、あれだけ前髪の量が多いと重さで額に垂れかかるだろう? でもさ、軍師の前髪は見事に額から一定距離を保って浮いてたじゃないか。髪の流れは自然な感じだったから、整髪料は使っていないはずだ。だから、あの前髪も癖だろうと思ったんだけど、違うのか?」
イゴールは唸った。
アデルの指摘は間違ってはいない。
ただ、イゴールには灰褐色の瞳の方がはるかに印象深かった。
両目に焼き付いたと言ってもいい。
抜き身の刃を連想させる、鋭利で冷たい目。
他人の想い・考えを一切認めず、無惨に引き裂き、屈服・服従させるもの。
………忌み嫌い、憎んでいる“あの人”と同じ目だった。
ぱしゃんという水音にイゴールは我に返る。
ディリータが頭にのせていたタオルを湯船の中に落としていた。彼は俯き湯面の一点を見つめている。
「ど、どうなんだろう。僕わからないよ」
狼狽の色を隠さず、ラムザが言う。
「実の兄のことなのにか?」
「寄宿舎に入る前でさえ、一ヶ月に一、二回本邸で顔を合わせるくらいだった。兄さんはいつも忙しく、城に泊まり込む事も多かったから」
「そうか」
奇妙な静けさが浴室内を支配する。
寒気を感じたイゴールは手早く作業を終え、浴槽に身体を浸した。湯面が上昇し、溢れたお湯が排水溝へと流れていく。
「軍師って何歳だ?」
どうやら、アデルの軍師に対する興味はまだ尽きていないらしい。何がそんなに彼の好奇心をかき立てるのか、イゴールには不思議だった。
「確か、今年で三八歳だよ。うん、そうだ」
指を折りながらラムザが答える。
「軍師って結構な年齢なんだな。その割には若く見えるのは、髪のせいか?」
「アデル、なぜそこまで軍師の髪にこだわる?」
たまらずイゴールは尋ねてみた。返ってきた答えは予想外だった。
「いや〜、将来ハゲにならないのかな、と…」
「は!?」
「伯父の一人が、数年前から凄い勢いで髪の毛が薄くなり始めたんだよ。前は軍師のようにふっさふさの髪だったのに。見ているこっちが可哀想なくらいだった。軍師も、髪の毛薄くなったり抜けたりしたら、どんな髪型になるかなと思うと」
イゴールの頭にある想像図が浮かぶ。
加齢による円筒形脱毛症にかかった、軍師の頭。
前髪だけが風になびく様が…。
彼は頭を激しく振ることで空想を追い払った。
「す、すまん。先、に、でる…」
震える声で、ディリータは立ち上がった。両肩を小刻みに振るわせて、何かを堪えるように口元を手で押さえ、彼は足早に脱衣室へと向かう。ばたんと扉が開閉されて数秒後、ディリータの盛大な笑い声が脱衣室を満たし、浴室にまで及んだ。
「あいつ、なに笑っているんだよ。むかつくなぁ」
アデルは憤慨して湯殿を飛び出し、脱衣室へと向かっていった。
湯殿に残った二人は顔を見合わせる。
「兄さんのこと、あんな風に評する人物初めて見た。アデルって大物かな?」
イゴールはその言葉に心から賛同した。
そして、浴室内に自分たちしかいなかったことを、心から何かに感謝した。