誓いの剣(2)>>Novel>>Starry Heaven

誓いの剣(2)

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 翌日から、ベオルブ邸にいくつかの変化が生じた。
 まず、最初の変化は朝日と共に訪れた。戦陣の最前線にいたザルバッグとダイスダーグが、轡を並べて本邸に戻ってきたのだ。昨日から戻っていた当主のバルバネスと末っ子のアルマを加えて、およそ一年ぶりにベオルブ家の人間が勢揃いしたことになる。使用人達は、戦陣暮らしの騎士達の疲れを癒すために、修道院で暮らす令嬢を慰めるために、真心を込めて各々の仕事に精を出した。
 これによって、普段は物静かな本邸内は一気に賑やかになった。この日一日は、人の足音と声が絶える事はなかった。
 次の変化は、本邸に長くいる者にとっては想定内のものだったが、ディリータにとっては青天の霹靂に等しいものだった。
 ラムザへの面会が一切許されなくなったのだ。彼の部屋の扉の前には厳格そうな男性が一人佇立しており、油断なく目を走らせている。普段はフリーパスでラムザの部屋に入れるディリータだが、「潔斎中だ。あさってにしなさい」と言下に拒絶される。断られた理由が分からなくてマーサに尋ねてみると、彼女は困ったような顔をして答えてくれた。
「儀式の前日は沐浴などをして心身を清めて、一人で神に祈りを捧げるの。誰とも会えないのよ」
 無理に会いに行ったらラムザとマーサを困らせるだけだ。そのことは容易に理解できた。だったら、しかたない。押し寄せる寂しさを紛らわすため、ディリータは忙しそうにしているマーサに手伝いを申し出た。
 幸いと言うべきか、仕事は数えれば枚挙がないほどあるようだった。
 マーサから言いつけられた仕事――樽いっぱいの芋の皮むきが終わると、厨房にいる料理人の一人から「半分でいいから、これに水を汲んできてくれないか」と水瓶を手渡された。ディリータは自分の背丈の半分はある水瓶を全身の力を使って抱え持ち、厨房の裏口から井戸に向かった。井戸の側には初老のメイドが二人いて、桶に野菜を突っ込み、素手でごしごしと泥を落としている。彼女たちの口からは呼吸の度に白い息がでており、手はあかぎれで真っ赤だった。
(あの手、放っておくと血が出ちゃうよ…)
 水瓶を抱え持っったままで女性達に近づく。足音に気づいたのか、一人の女性が顔を上げた。
「ディリータ、ずいぶん大きな物を持っているのね。だいじょうぶ?」
 目尻の深い皺をより深く刻んで微笑む相手に、ディリータは顎を微かに動かした。
「は、はい。なんとか」
「そう。小さい身体なのに力持ちだこと」
「水を汲みに来たのでしょう。はい、どうぞ」
 二人はにこやかな笑顔で横にずれ、つるべに一番近い場所を空けてくれた。
 ディリータは水瓶を地面に置き、つるべを引き上げ、水を水瓶に入れていく。半分くらい汲んだところで作業を中断し、野菜を洗う作業をしている女性の顔を覗き込んだ。
「あ、あの…」
 僕が代わりましょうか?
 だが、その提案を口に出す直前、背後から低い声がした。
「ディリータ、ここにいたのか」
 熱くもなく冷たくもない、透明で硬い響き。耳に入れるだけで、誰でも威儀を正させるような力を秘めた声。礼節という言葉を音に表現しなおせば、このような声になるのかも知れない。
 ディリータは背筋をぴんっと伸ばして、振り返る。
 厨房へと通じる勝手口の付近に、高齢の男性がいた。
 老いを感じさせない、まっすぐ伸ばされた姿勢。広めの額の上で、一本の乱れもなく綺麗に撫でつけられた真っ白の髪。口元にある髭も櫛が通されているのではないかと思うほど、丁寧に整えられていた。まとっている衣装は、ぱりっとノリのきいた紺色のお仕着せ服。それとは対照的に、一点の汚れもない白い手袋。同じく白い襟元を留める小さな黒の蝶ネクタイ。
 存在だけでこれほど的確に己の仕事を表現できる人物は、百を超える使用人がいるベオルブ邸においても、ただ一人しかいない。ディリータはその名前を口に出した。
「バーナードさん」
「旦那様が呼んでいる。ついてきなさい」
 ベオルブ本邸の執事頭は、淡々とした口調で要件を告げる。
「は、はい!」
 ディリータは反射的に返事をし、野菜を洗っている女性二人と水瓶とを見比べ、勝手口へと向かう執事を呼び止めた。
「あ、あの。この水瓶を先に厨房に届けてもいいですか?」
「もちろんだ。それと、そこの二人も誰かと交代しなさい。その手では、いずれ野菜に血が付いてしまう」
 執事頭の気遣いの言葉に、女性二人は頭を軽く下げる。
 ディリータは顔を綻ばせ、水瓶を両手で抱え持った。水が入ってて重量が増しているはずなのに、なぜかそんなに重くは感じない。
 厨房内に戻ろうとする執事頭の後を、ディリータは水掛を抱えてついていった。


 バーナードが案内した先は、南館の三階の片隅にある部屋だった。
「ここで待っていなさい。旦那様はじきにいらっしゃる」
 執事頭はそう告げて扉を閉める。一人残されたディリータは室内を見渡した。
 室内は、広かった。そして、豪奢だった。
 天井は見上げる必要があるほど高く、家具達は機能性よりも見た目を重視して、ゆったりと配置されている。
 ダークブラウンで統一されたリビングテーブル、ソファ、カップボード。いずれも重厚感ある造りだ。テーブルの上に置かれたランプには、繊細な装飾が施されたシェードが被されている。火が灯された暖炉の上に設置された機械式の置き時計は、一目で高級品だと理解できる。ベオルブという大貴族の当主に相応しい内装と思えた。
「ラムザの部屋も広いけど、ここはそれ以上だなぁ。…あれ?」
 興味深げに視線を滑らせていたディリータだが、ある一点でその視線は止まった。
 そこは、暖炉の反対側に位置する場所であり、白い壁には一枚の絵画が飾られている。ディリータは誘われるように歩み寄り、キャンパスを見つめた。
 描かれているのは、丘の上にそびえ立つ大木と二人の幼子だ。一人は男の子。もう一人は女の子。よく似た顔立ちをしている。草地に仲良く並んで寝転がり、安らかな顔で微睡んでいる。大木の緑濃い葉の隙間から濾過された太陽光が、黄金色の帯の帳を降ろし、幼子の金髪を一層鮮やかにしていた。
 描かれている子どもの顔を認めたディリータは、瞼をぱちぱちと瞬いた。
「これ…ラムザとアルマ? それに、この絵…」
 絵全体から受ける、あるシーンを選出し描き手の感情を強調して描いたような印象。教会の写実的な宗教画とは異なり、明確な線を一本も使わずに筆遣いだけで光の動き、変化の質感を表現する画風。全体的に明るく、色彩に富んだ色遣い。
 ラムザが描く絵と共通するものが、多かった。
 いや、拙い彼の技法をそのまま昇華させたような…。
「ラムザの絵がうまくなれば、こんな感じになるのかなぁ」
「そうなるだろう」
 背後から低い声がディリータの考えに同意する。
 ぐるりと首を巡らすと、閉められていたはずの扉はいつの間にか開かれており、初老の男性が入ってきていた。白いものが混じりだした金髪は、絵に描かれている幼子達と同じ色。櫛で丁寧に後ろへと流され、襟の上で一纏めに縛られている。麻色と緑色を基調とした衣装をまとい、襟元を薄いオレンジ色のタイで留めている。全体として、鮮やかでありながら老成さをも感じさせた。
 初老の男性は小型のワゴンを押して部屋に入ってくる。自ら労働をするベオルブ家の当主に、ディリータはぎょっとする。当の本人は気にもせず、穏やかな笑みをディリータに向けて言った。
「その絵はフェリシア…ラムザとアルマの母親が描いたものだ」
「え!」
 ディリータは驚きの声をあげた。
 ラムザとアルマの生みの母について、ディリータは詳しいことは知らない。知っているのは、自分たち兄妹がベオルブ邸に引き取られる前に亡くなったという事実だけだった。
「フェリシアは画家だった。私と一緒に暮らすようになっても、暇さえあれば気に入った景色を描いていたよ。その隣で、ラムザは絵筆をおもちゃにして遊んでいたな」
 彼は、懐かしそうに、愛おしそうに、慈しむように、絵をじっと見つめている。
「バルバネス様」
 ディリータがそう声を掛けると、相手は首を振った。
「ディリータ、ここには私と君しかいない」
 その言葉の意味は明白だ。ある単語で呼びかけて欲しいと暗示している。
 ディリータにとって、それは、かなり勇気がいることだった。
 今年で四三年目になるオルダリーア国との戦争はこの数年間こちらが劣勢であり、他の騎士団は連敗続きだ。そんななか、天騎士バルバネスが指揮する北天騎士団と雷神シドが指揮する南天騎士団だけが、幾多の戦いで勝利を収めている。
 秀でた武勇に加えて、懐大きく、清廉潔白な人柄。領地における公正明大な施政。
 イヴァリースで暮らす少年にとって、二人の団長は尊敬と崇拝の対象であり、英雄であると言っても過言ではない。
 その彼に向かって、その単語を使うのは、心のどこかに憚るものがあった。
 しかし、口に出さないと相手は何時間でも口を閉ざす。無視し続ける。その事は、過去の経験から痛いほど理解していた。
 少々の心構えをした後、ディリータは抑えた声で言い直した。
「おとうさん」
 少々顔を赤らめて呟く少年に、バルバネスは満足そうに頷いた。
「うんうん。できれば、いつでもどこでもそう呼んでほしいな」
「それは無理です。だって、僕は…」
「私の息子だ。血は繋がりなど、関係ない」
 ディリータの言葉を封じ込めるように、バルバネスは断言する。彼は、戸惑いと不安と喜びを均等に混同した表情をしている少年の顔をじっと見つめ、ワゴンの上に置いていた布をとった。そこには、陶器で作られた茶器一式とクッキーが、お茶会に必要な物が載せられていた。
「聞きたいことがある。少々時間を割いてもらってもいいかな?」
 若干の沈黙を経て、ディリータは「はい」と答えた。


 ディリータはどうも落ち着かなかった。
 勧められるままにバルバネスの正面のソファに腰掛ける。紺色の布に覆われたクッションは硬くもなく柔らかすぎることもなく、ディリータの小さな身体を受け止めてくれる。座り慣れた木製の椅子と異なる感触が焦りに似た感情呼び起こす。
 目の前に置かれた紅茶は、バルバネスが手ずから淹れてくれたものである。当主の「自分でできる事は自分でする。必要以上に他人に命令しない」という姿勢を知ってはいるが、実際にされると、使用人の立場上問題があると思ってしまう。もし、この場に厳格なメイド頭がいたら、「旦那様にお茶を淹れさせるなんて!」と、叱責されるに違いなかった。
「私はこれが大好きでね」
 バルバネスが嬉しそうに手を伸ばすクッキーは、さくさくとしたバター生地に砕いたクルミがアクセントとなっている、見た目も作りも素朴な物だ。砂糖さえ手に入れば、庶民の家でも作ることができるだろう。ベオルブ家の当主である彼が、いつ、どこで、こんな質素な物を食べる機会があったのだろうか。そんな疑問がちらりとディリータの脳裏をかすめた。
「ディリータ、食べないのか?」
「あ、あの…。聞きたいことって何ですか?」
 そのとき、バルバネスの顔から笑みがすっと消えた。
「明日行われる佩剣の儀について、何か聞いたか?」
「一〇歳の誕生日に行われる儀式だと、マーサから聞きました」
「その理解は微妙にずれている。佩剣の儀は、本来、騎士を志す一〇歳の男子に剣を与える儀。誕生日に限定されるわけではない。ただ、慣習上、祝いと将来の武勲を期して誕生日に執り行う貴族が多いだけだ。そこで、一つ、質問だ」
 鋭い灰色の瞳が、まっすぐディリータに向けられる。
「ディリータ。君はラムザと一緒に剣術の稽古をしていると聞いたが、事実か?」
 ディリータはびくっと硬直した。
 数ヶ月前、中庭でラムザが剣術の自主練習をしているのを見た彼は「面白そうだな」と思った。暫くたったある日、ひょんなことから話がその事に及んだ。素直な感想を告げると、ラムザは驚いたような顔をしていたが、「一緒にやる?」と予備の木刀を貸してくれた。それから、ラムザが稽古で教わったことをディリータが教わるようになったのだが、二週間後には剣術の先生にその事がばれた。
「未熟者が他人にものを教えるとは、百年早い!」
 四十代半ばの先生はラムザを容赦なく叱りつけ、続けて、口の端をひいて笑った。
「そんなまどろっこしいことはせず、君も稽古に加わればよい」
 それ以後、二人一緒に稽古をしてきたのだが…、
(勝手なことをして、バルバネス様は怒っているんだ!)
 どうしよう。怒られるのは恐い。でも、嘘はつけない。嘘を言ったと知られたら、もっと怒られる。呆れられ、嫌われる。それは、絶対、嫌だった。
 ディリータは覚悟を決めた。
「はい。本当です」
 飛んで来るであろう叱責に備えていたディリータだが、返ってきたのは小さな笑い声だった。
「怒っているわけではない。指南役のブランドルは『二人とも筋がよく、教え甲斐がある』と誉めていたぞ。ただ、君がその行為の意味を理解しているのかどうなのか、それが知りたくてな」
「意味ですか?」
「剣を持つということの意味だ」
 バルバネスがきっぱりと言い切る。
 ディリータは首を傾げた。その言葉が単なる動作を意味するものではないことを感じ取りはしたが、具体的な理解にはならなかったからだ。
「どういうことですか?」
「そうだな。例え話をしようか。ラムザが君を殺そうと剣を向けてきた。ディリータ、君はどうする?」
 想像するのが途方もなく困難な比喩だった。
 ラムザが僕を殺そうとする?
 石畳の隙間に生えた野の花が踏まれないように、わざわざ庭の奥へ植え替えようとする彼が? 怪我をした小鳥を見つけては、完治するまで自分できちんと面倒を見る彼が? 屋敷をこっそり抜け出して、外れの丘で昼寝を楽しむ彼が?
(天地がひっくり返ってもありえない)
「あり得ないと思っているだろう」
 ディリータの心を代弁するかのように、バルバネスが指摘する。
「だが、戦場では、昨日の友は必ずしも今日の友ではない。敵の勧誘に乗った者、親しい誰かを人質を取られて裏切りを強要された者、死の恐怖で錯乱し敵味方の見境がなくなった者。原因となった事由はどうであれ、よく知った相手同士が殺し合う事も、友だった者をこの手にかけるという事も、よくあることなのだ」
 バルバネスの声は穏やかだった。表情も変わらず、物静かなままだ。
 だが、ディリータは思った。
 こんな悲しそうな顔は今まで見たことがない、と。
「………」
「全身を朱に染め、悲嘆と憤懣と恐怖に心が支配されそうになっても、騎士として戦場に臨んだ以上、剣を棄てる事は許されない。敵と定められた者を滅するまで、あるいは誰かの手にかかって死ぬまで、戦い続けなければならないのだ。己の背後にいる力なき者のために。剣を捧げた相手のために。剣にかけた誓いのために。剣を持つということは、そういう意味だ」
 バルバネスは厳しい目で、じっと少年を見つめる。
「ディリータ、君が剣を欲するのは、何故だ? その感情は、誰かを…友を犠牲にするのもいとわないものか?」
 ディリータは小さく身じろぎしただけで、答えようとはしない。
 澱のように重く粘りけのある沈黙が二人の間に漂う。
 バルバネスはふと思い出したかのように面前にあるティーカップを手に取り、一気に飲み干した。紅茶はひんやりと冷たく、苦みだけがいつまでも彼の口に残った。

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