第九章 伝承(2)
騎士アーベルトによって導かれたのは、日当たりがよく、そして掃除が隅から隅まで行き届いた応接間だった。
「何かありましたら遠慮なく、廊下に控えている者に声をかけてください。では、私はこれで失礼します」
慇懃丁寧な言葉を残して、アーベルトは去っていった。廊下側から丁重に扉が閉められる。
窓際や壁際に移動したり、中央に設置されているソファーに腰掛けたりと、それぞれ思い思いの場所に散らばって数分後…。
「しばらく待ってくれっていう話だったが、どのくらい待たされるのかな」
しびれを切らしたように、アデルがこの場にいる全員共有の疑問を口に出した。
「さあ…、早くて三十分、遅ければ二時間くらいかしら」
マリアが胸元に垂れた髪の一房を指先で絡めながら呟く。途端に、アデルが苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「ゲッ、そんなにかかるもんなのか?」
「あの騎士は『会談』という言葉を使ったから、現在、枢機卿に面会しているのはそれなりの地位と権力を備えた人物だと思うの。どんな内容を話しているかわからないけど、相手が一応の満足を得るまでは枢機卿は会談を続けるでしょうね」
「こっちは重大な話なんだから、ちょっとくらい会わせてくれたっていいじゃないかよ」
「おそらく、面会している人物はこう反論するでしょうよ。『こちらは時間と手間をかけてようやく枢機卿に会えたのだから、横から割り込むなんて無礼極まるぞ!』ってね」
道理を説くマリアに、アデルはぐっと押し黙る。が、それも数秒間のことでしかなかった。
「災害や事故なんかの緊急時はどうするんだよ。俺達の用件だって、人命がかかった重大かつ火急の用件だぜ」
アデルは窓際にたたずむムスタディオをみつめ、ソファーに端座するオヴェリアを眺めやる。枢機卿に嘆願すべき事柄を有するという点で共通する二人は、応接間に通されてからというもの口を開こうとせず、他者が話しかけても曖昧な相槌を返すだけで、ずっと自身の物思いにふけっている。
アデルの気遣わしげな視線の意味を察したマリアはそっと目を伏せた。
「対応してくれた騎士が護衛隊長殿の言質から事態を推察してくれたかどうか、にかかっているだろうな」
静かな口調でイゴールが言い、イリアが賛同するようにうなずく。その直後、室内にノックの音が響き渡った。誰もが、驚愕と期待とを入り交じった視線を重厚な造りの扉へ送り、次の瞬間には、親しい者同士で目配せを交わす。
「…はい」
数瞬の沈黙の後、アグリアスが応諾の言葉を紡ぐ。すると、扉が音もなく廊下側から開かれた。白の神官衣をまとった二十代半ばの男性が滑りように進み出て、アグリアス達に向かって一礼する。
「お待たせしました。猊下が皆様にお会いになります」
神官の言葉に、オヴェリアがゆったりと立ち上がった。彼女を守る役目を担う女騎士達を左右に従えて神官のもとに歩み寄る。手を伸ばせば相手に届く距離まで近づくと、オヴェリアは淡い微笑を浮かべた。
「案内をお願いします」
「…その、彼らもご一緒ですか?」
神官の視線が、オヴェリアからムスタディオを先頭とする十代後半の若者達に移ったとき、その目が訝しげに細められる。
オヴェリアは後ろを見遣り、再び神官に向き直るとうなずいた。
「ええ、もちろんですわ」
「…わかりました。皆様方、どうぞこちらへ」
相手の意思の固さを察した神官は、不審の色を顔面から消した。先導のために扉の向こうへ消える。神官の後ろ姿が視界から消えるなり、アデルが不満そうに呟いた。
「気に入らねぇ視線だ。値踏みされた気分だぜ」
「このような場所では珍しくもない反応だ。怒るには値するが驚くには及ばない」
イゴールの言葉は慰めというには冷淡すぎて、諦念というには毒がありすぎた。神官の後の続こうとした王女と女騎士達が、足を止めて振り返る。
「権力を有する地位にいる場合、多くが、権力を託された理由はさっさと忘れるくせに、行使することで得られるうま味だけは忘れない。うま味だけを長い間啜っていれば、やがてはそれが当然のことのように認識されていき、異常が正常になる。貴族階級だろうが、教会関係者だろうが、そう勘違いしている人は少なくない」
イゴールの言い様は、王女親衛隊に属するメンバーには容認しがたいものが含まれていた。だが、オヴェリアは気色ばむ様子を一切見せず、静かにイゴールを見据える。
「嘆かわしいことですが、あなたのおっしゃることは正しいと思います。現在のイヴァリースの困窮を生み出した要因の一つが、まさにそれでありますから。私は無力ではありますがそれでも諦めずに、異常が正常に戻る努力をしていきたいと思います」
イゴールとオヴェリアの視線が絡み合い、数秒後、イゴールの方から外される。まっすぐ向けられた紺碧の瞳から感じられる意思の固さが、華奢な体躯から滲み出る冒しがたい威厳が、静かながらも確固たる口調が、イゴールが王女に対して抱いていたわだかまりを完全に解かしていったからだ。何の痛痒も感じずに、彼は片膝を床についた。
「俺はずっとあんたのことを王族だからと偏見の色眼鏡を通して見ていた。その結果、かなり無礼な態度をとっていたとおもう。それを謝罪したい」
突然の畏まった態度にオヴェリアは呆然としていたが、茶色の頭が深々と下げられるのを見てようやく我に返った。イゴールの面前に歩み寄り、懇願する。
「いいのです、面を上げてください」
イゴールは逡巡する様子を見せたが、オヴェリアが重ねて願うと立ち上がった。元来の高さに戻った緑の双眸を見上げつつ、オヴェリアは心からの言葉を口の端に載せた。
「こちらこそ、ありがとうございます。私のことを認めてくださって」
イゴールは全身がかーっと熱くなるのを自覚し、その場で勢いよく回れ右をする。結果、王女の視線から逃れることには成功したが、後背にいた仲間達に表情を晒すことになった。
「イゴールの照れた顔なんて久しぶりだわ」と、マリアがにんまり笑い、
「へぇ、初めて見た」と、ムスタディオが感慨深げに呟き、
「よかったね、イゴール」と、イリアは喜び、
「残念、きっと明日は雷雨だな」と、アデルが茶化して言う。ラムザだけは沈黙を保つが、その彼にしても唇を綻ばせている。
イゴールは気恥ずかしくて片手で口元を覆ったが、手からはみ出ている頬は赤く染まっており、感情を隠す方策としては完全に失敗している。なにより―――、
「―――ぷっ」
当の本人がそれに全く気付いていないのが、笑いを誘う。
「ぶははははっ!」
アデルを端にした笑いは複数の同調者を呼び、直後、さざめくような笑いが室内を満たす。
なごやかな空気は、案内役の神官がオヴェリア達を呼びに戻るまで続いた。
幾つもの角を曲がった先にある胡桃材の扉の前で、案内役の神官は足を止めた。手慣れた仕草で、扉を三回ノックする。
「客人をお連れしました」
「とおしなさい」
神官の手によって扉が開かれると、一行はオヴェリアを先頭にして室内に足を踏み入れた。
正八角形のテーブルと椅子が数脚という簡素な室内でひとり佇む人物が、オヴェリア達を見て和やかな笑みを浮かべる。
「ようこそ、ライオネルへ」
一九〇センチに近い身長に幅の広い体躯を有する、五十代の男性だ。ゆったりとした白の法衣に身を包んでいても、隠された肉体が鋼であることを想像するのは容易い。その顔立ちは柔和であり、オヴェリア達を映す黒い瞳は知性に富んだ深い色を有している。人為的に剃り上げた禿頭を包むのは、高位の司祭の証である紫色のフードであった。
「城主のアルフォンス・ドラクロワです。ルザリア聖近衛騎士団所属の騎士というのは、貴公ですかな?」
ドラクロワの目が、オヴェリアの傍らに控えるアグリアスに止まる。
アグリアスは胸に手をあて、一礼した。
「はっ、アグリアス・オークスと申します」
「オークス…もしや、聖騎士カルロス殿の?」
枢機卿の口から発せられた名前に、アグリアスは目を見張る。
「父をご存じなのですか!」
「先だっての戦争では轡を並べて共に戦った間柄ですから。なるほど、父君によく似ておられる」
ドラクロワは懐かしそうにアグリアスの顔を眺めていたが、やがて、その表情を引き締めた。
「して、私にいかなる用件でしょうか? アーベルトから伝え聞いた限りではかなり重大なことのように思えましたが…」
ドラクロワのその言葉に、アグリアスは斜め後ろに一歩下がり、テーブルを挟んで枢機卿の正面にあたる位置を主君に譲る。オヴェリアはドラクロワに向かって優雅なお辞儀をし、そして、その桜色の唇を開いた。
「お初にお目にかかります、猊下。私は、先代国王デナムンダ四世の子で、いまは亡きオムドリア三世陛下の養女、オヴェリア・アトカーシャと申します。猊下のお力添えをいただきたくて、参りました」
ドラクロワが大きく目を見開き、ぶしつけなほどに面前の相手を凝視する。
オヴェリアは右の薬指に填めていた金の指輪を外し、卓の中央に置いた。
涼しげな紺碧色の瞳に促され、ドラクロワは指輪を手にとる。台座に刻まれた紋章が聖印を掲げた双頭の獅子であることを認めると、彼は恭しく頭を垂れた。
「王女殿下」
十秒ほど時間をおいてからドラクロワは顔を上げ、王女に視線を固定した。
「ご無事なお姿を拝見できて、本当にうれしく思います。オーボンヌ修道院で何者かの手によって拐かされたと聞いて、この一ヶ月というもの心が安まるときはありませんでした」
長い年月が刻まれたドラクロワの深い目尻には、涙が滲んでいる。
オヴェリアは申し訳なさそうに俯いた。
「ご心配をおかけしました」
「いえいえ、我が心痛などあなた様のご苦労に較べたらとるに足りないものです。本当によかった…」
ドラクロワは袖で両の目尻をそっと拭い、金の指輪を持ち主に返した。
「それで、私の力を借りたいとはどういうことでしょうか? オーボンヌでの事件と何か関係があるのでしょうか?」
「それにつきましては、僭越ながら私の方から説明させていただきます」
アグリアスはオーボンヌ修道院で王女が拐かされたのはラーグ公のゴルターナ公を失脚させる陰謀であったことを、そして、ザランダ付近でムスタディオがバート商会の手の者に襲われていたことを、説明した。
「なるほど、事情はよくわかりました、アグリアス殿。そういうことであれば、このドラクロワ、手を貸さぬわけにはいきますまい。早速、聖地ミュロンドへ使者を差し向けましょう。教皇猊下に直奏するのです。ラーグ公の不正を暴き、オヴェリア様の命が狙われることのないよう手を打ちましょうぞ」
「猊下、フューネラル教皇猊下はお聞き届けくださいますでしょうか?」
「心配召さるな、アグリアス殿。この私がついております。貴公がそのように心配されてはオヴェリア様のお心も休まらぬというもの。古く汚らしい城ではありますが、聖地より返事がくるまでの間、ゆるりとくつろいでくだされ」
「猊下、お心遣いに感謝いたします」
「すべては聖アジョラのお導きです。ご安心召されよ」
お辞儀をするオヴェリアに枢機卿は洗練された仕草で十字を切り、次いで、ムスタディオに視線を向けた。
「ときに、若き機工士よ。そなたの願いも承知しました。バート商会を壊滅させるために、わがライオネルの精鋭たちを機工都市ゴーグへ送りましょう」
「ありがとうございます、猊下」
頭上から一条の光が射したかのように、ムスタディオの表情がぱっと明るくなる。ところが―――、
「が、その前に、なぜ、そなたら親子が狙われるのか説明してくれぬか」
ドラクロワがそう尋ねた途端、彼の表情は曇った。
「そ、それは…」
そう呟いたきり、ムスタディオは俯いて応えようとしない。
だが、ドラクロワは気分を害した様子も見せずに、懐から何かを取り出した。
「よいよい。これであろう?」
鶏の卵ほどの大きさを有する赤色のクリスタルが、ドラクロワの手によってテーブルに置かれる。
「そのクリスタルは…?」
一同を代表するかのようにアグリアスが疑問を発すれば、ドラクロワは微かに笑みを浮かべた。
「“ゾディアックブレイブの伝説”をご存じかな?」
アグリアスの端麗な面に、困惑の色がよぎる。
「子供の頃、教会でよく聞かされたあのおとぎ話ですか?」
「これはこれは。アグリアス殿は教会が嘘を言っているとでも?」
ドラクロワの表情が、聞き分けの悪い子どもを前にした教師のそれに変化する。アグリアスは慌ててかぶりを振った。
「そ、そのようなことは決して」
「太古の昔、まだ大地が今の形を成していなかった時代、ルカヴィ(悪魔の意)が支配するこの大地を救わんと12人の勇者がルカヴィたちに戦いを挑みました。激しい死闘の末、勇者たちはルカヴィたちを魔界へ追い返すことに成功し、大地に平和が訪れました。12人の勇者たちは黄道十二宮の紋章の入ったクリスタルを所持していたため、人々は彼らを黄道十二宮の勇者、ゾディアックブレイブと呼ぶようになったといいます。その後も、時代を超えて、私たち人間が争いに巻き込まれる都度勇者たちが現われ世界を救ったとか」
「さすがはオヴェリア様、よくご存じですな」
優秀な学生を誉めるようなドラクロワの声音に、オヴェリアは微かに頬を赤らめた。
「オーボンヌ修道院でシモン先生に教わりました。そういえば、聖アジョラは彼らを従えて、混乱したイヴァリースをお救いになったと聞いております」
ドラクロワは「そのとおりでございます」と肯定し、赤い石に視線を落とした。
「勇者たちが所持していたクリスタルを我らは『聖石』と呼んでいます。そして、今、我らが目にしている石こそ、伝説の秘石、『ゾディアックストーン』…」
ドラクロワの言葉に呼応するかのように、聖石がきらりと光を放つ。鮮烈なその輝きに多数の者が魅了されたが、ただひとり、ムスタディオだけが忌まわしげに顔を背けた。
「まさか、聖石が本当にあったなんて」
「聖石にはルカヴィたちを凌ぐほどの“御力”が備わっているとか。たしかに不思議な力を感じますが、私にはただの大きなクリスタルにしか見えませんが。」
オヴェリアとドラクロワの会話の最中に、喉を引きつらせたような音が加わる。ラムザが目だけを動かして隣を見遣れば、ムスタディオの身体が小刻みに震えていた。
「どうしたんだ、ムスタディオ。具合でも悪いのかい?」
小声で尋ねるも、ムスタディオは青い唇を震わせるだけで応えようとしない。ムスタディオの体調の急激な悪化に気付いた全員が彼を心配げにみつめる中、ドラクロワが静かな声音で尋ねてきた。
「ゴーグの地下でこれと同じ石を見たのではないかな?」
ムスタディオは床の一点を見つめながら浅く短い呼吸を何度も繰り返す。唇の震えがようやく止まったと自覚してから、彼は顔を上げて枢機卿をみつめた。
「地下には壊れて動かない機械がたくさん埋まっています。でも、あの石を近づけると死んでいるはずの機械がうなり始めるんだ」
「バート商会が狙っているのはその聖石ですね?」
ムスタディオは小さくうなずいた。
「あの石にどんな力があるのか、オレにはわかりません。しかし、ルードヴィッヒはあの力を解明して兵器にしようとしています。親父は、聖石を渡してはならないと言っていました。だから、親父はやつらに…」
「心配いたすな、若き機工士よ。教会が責任を持って管理しましょう。我らの兵が悪漢どもと戦っている隙に一刻も早く聖石を持ち帰るのです」
「は、はい、猊下」
ドラクロワの力強い言葉に、ムスタディオの顔に生色が戻る。
ラムザは一瞬思案を巡らし、傍らの機工士に向き直った。
「僕もいっしょにゴーグへ行こう」
「ありがとう、ラムザ」
軽く頭を下げるムスタディオの肩を、アデルがばしっと叩いた。痛みに顔をしかめる機工士に、アデルはニッと笑いかける。
「二人だけで行かせるかよ。俺達も行くぜ、なあ?」
「当然ね」
「だね」
「ああ」
アデルの言葉に、マリアが、イリアが、イゴールが、頷いてみせる。
同行を申し出てくれた五人をムスタディオは順々に見渡し、潤む目をごまかすために床の一点を見つめた。
「ありがとう、みんな。よろしく頼む」
「おう!」
輪になって集う若者達を、一抹の名残を抱いて眺めている者達がいた――。