第五章 去来(2)
「ラッド」
背後から名を呼ばれて、振り返る。紙袋を抱えて駆け寄ってくる人物を視認した瞬間、ラッドは驚きで目をまたたいた。
「ラヴィアン、あんたなんで――」
「買った物を持って先に宿に戻るところよ」
ラッドの言葉を遮るようにラヴィアンが言い、抱え持つ紙袋をみせてくる。促されるままに視線を落とせば、ポーションの瓶や毒消しなどの薬品が隙間なく詰め込まれていた。
「あなたこそ、こんなところで何をしているの?」
ラヴィアンにそう問われてはじめて、ラッドは自分が薄暗い路地に佇んでいることに気付いた。食堂を出たまでは記憶があるのだが、いつ宿を出てどの道を歩いてこの路地にたどり着いたのか、まるで覚えていない。
怪訝に思う気持ちが顔に出たのか、ラヴィアンが不思議そうに小首を傾げる。
ラッドはめまぐるしく思案を巡らし、適当と思われる単語を口に出した。
「…散歩」
「ずいぶん変わったコースね」
ラヴィアンが小さく笑う。
その反応に、ラッドは再び驚いた。彼女が自分たち傭兵に向けるのは警戒心顕わな表情だけであったからだ。
「それなら一緒に宿にもどりましょうか」
躍動的な足取りで、ラヴィアンは陽が差す方へ歩きだす。
ラッドは暫し迷ったが、特に拒否する理由がないことに思い至り彼女の後に続いた。
狭い路地を抜け、大勢の人が行き交う大通りを横断し、緑が茂る遊歩道を二人で歩む。
不意に、ラヴィアンの足が止まった。
「おいしそうね」
彼女の視線の先には、街路樹の木陰に軒を構える屋台がある。店頭に置かれた看板から判断するに、果実の絞り汁を有料で提供する店のようだ。
「ちょっと飲んでいかない?」
その誘いに、ラッドはズボンのポケットに手を入れ、空の感触に顔をしかめた。
「…金がない」
「なら、私がおごるわ」
予想外の申し出にラッドが呆然としている間に、ラヴィアンは行動を開始していた。抱え持っていた紙袋をラッドに押しつけ、身軽になるなり屋台に歩み寄る。両腕に伝わる荷物の重みでラッドが我に返ったときには、彼女はすでに女性店員に話しかけていた。
「お勧めはなにかしら?」
「全部…と言いたいところだけど、今日はオレンジかな。いいのが手に入ったから」
「では、それを二つお願いします」
「毎度! 合計で二四ギルね」
俺の分はいらない。断るためにラッドは口を開きかけたが、間に合わなかった。手早くラヴィアンが会計を済ませ、こちらに振り返る。
「できるまでちょっと時間かかるそうだから、その辺にすわってて」
標準以上の美人に綺麗な微笑でそう言われてしまえば、反論のしようがない。ラッドは素直に従い、数メートル離れた場所にあるベンチに腰を下ろした。紙袋を中央に置き、次いで、退屈しのぎにラヴィアンをながめる。随分真剣な表情で店員と話をしているからその内容に興味がわいたが、拾えた単語から判断するに美容関係らしい。ラッドはすぐに興味を失い、頭上を見上げた。薄い青の空に、まだらのような白い雲がかなりの範囲で広がっている。その雲の隙間から、太陽がひそやかに顔を覗かせていた。
「はい」
太陽が雲に隠れたわけでもないのに、頭上に影が差す。顎を引けば、ラヴィアンが正面に立ってカップをこちらに差し出していた。
不意に、褐色の瞳が困惑で翳る。
「あんた、どうしたんだ? 昨日まで俺を毛嫌いしていたのに、なぜ今日になって急に親切にしてくれる?」
―――さあ、どうしてかしら。
ラヴィアンは己に向かって自問する。
ラッドの指摘は正しい。自分は、彼に好意を抱いたことはない。
自己紹介するなりナンパをする軽薄さ。真実味のない薄っぺらな言動。汚い策謀で主君の命を奪おうとした男の部下であり、ゼイレキレの滝では、上司をいさめることもせずただ傍観していた。
彼のこれまでの行動は、ラヴィアンにとって、信頼から対極に位置するものだった。
しかし、その位置づけが、今になって急激に崩れつつある。
とぼとぼという擬音語が聞こえてきそうな足取りで通りを歩いていた彼の姿を、心底途方に暮れた彼の表情を見たことによって。
きっかけは明確だが、感情が変化した理由ははっきりしない。朧気で、理論的に説明できない。
自分でもわからないことを他人に納得させるよう説明できるとは、到底思えない。
だから、ラヴィアンは無言を返した。
「………」
なみなみと注がれたオレンジ色の液体を、次いで、黙然とたたずむラヴィアンをラッドはじっとみつめ、数瞬の間を経てカップを受け取った。
質問に対する答えはもらえなかったが、不快感はなかった。
今の自分はいつもの自分ではないという自覚。
これまで見たこともない柔らかい表情をしているラヴィアン。
二つの事象から導かれる答えを、ラッドの感性は正しく理解していたからだ。
ラヴィアンが荷物を挟んで隣に腰掛け、カップを傾ける。
つられるようにラッドもカップの縁に口を付ければ、さわやかな甘みが渇いた喉を優しく癒す。そして―――、
「あんたは不安にならないのか?」
胸中にわだかまる感情の一端を、吐露させた。
「北天騎士団を敵に回したってことは、その背後にいるラーグ公爵と王妃も敵にまわしたってことだ」
「………」
「そして、あんたら近衛騎士団の主人は王家であり、王家の中で最大の権力を有するのは王妃だ。主人の命令だからと、先日まで味方だった近衛騎士団があんたらに剣を向ける可能性もある」
「………」
「そうなったら、あんたちゃんと戦えるのか?」
「戦えるわよ」
一瞬の躊躇いもなく、ラヴィアンは断言した。
「もしあなたが指摘するような事態になった場合、王妃の命令に従うことを是としたのは、彼ら彼女らの意思。そして、姫様を守ると決めたのは、私の意思。互いの信念を掛けて剣を抜いたのだから、全力で相手をしないと無礼だわ。…でも、できればそんな事態は避けたいわね。顔見知り同士が戦うなんて姫様が知ったら、悲しむだろうから」
「あんたは随分お姫様に肩入れしているけど、なんでだ?そりゃ、置かれた境遇は同情の余地があるけど、あんな小娘に命を張れるなんて尋常じゃないぜ?」
「オヴェリア様のことが好きだから」
この質問にも、ラヴィアンは即座に答えた。
「半年前からお側に仕えているけど、あれほど聡明で優しい方を他に見たことないわ。助けてあげたいって心から思っている。だからよ」
凛とした響きで紡がれていく言葉の数々が、ラッドにはねたましい。
―――あの人のことを素直に「好き」と言えたら、どれだけ楽だろうか。
そんな想いが脳裏を過ぎる。
自分は、ラヴィアンのような純粋な好意を抱けない。自分に生を授け無償の愛を注いでくれた存在を、故郷と呼べる唯一の場所をこの世から消し去ったのは、あの男だからだ。
しかし、ラムザのように純然な怒りをもつこともできない。
思惑はさておき、放っておけばのたれ死に決定だった自分を拾い、衣食を与え、読み書きと簡単な計算に武術を教え、要領よく生きるために必要なしたたかな知恵を授けてくれたのも、あの男だ。
あの男がいなければ、今の自分は存在しない。それは歴然たる事実だ。
胸の内にうずくまるこの感情は、愛情と言うには翳りがありすぎる。憎悪と呼ぶには複雑すぎる。
しっくりくる言葉がどこにも見出せない。
だから、いまだに決断できずにいるのだ。
お姫様一行と行動を共にするか。それとも、ガフガリオンのところに帰るか。
期限は翌朝だというのに――。
「迷っているようだけど、無理して明日までに結論を出す必要はないと思うわ。『あとから追いかける』という選択肢もあるのだから」
唐突に示された第三の選択肢に、ラッドは目をまたたいた。
「あとから…」
顔を上げれば、限りなく黒に近い緑色の瞳とかち合う。その持ち主は、微笑を湛えて頷いた。
「ええ、自分が本当に納得できるまで考えた方がいいときだってあるでしょう? 特に、あなたのように複雑な立場にいるときは」
諭すように言われた言葉は、染み渡るようにラッドの心に浸透し、苛立ちと焦りを薄めていく。そして、
『オレの背中を追うのはもう止めろ。自分の足で立って歩け』
こちらの意思はお構いなしの、傲然とした言葉を蘇らせる。
直後、ラッドの胸の内に灼熱の感情が宿る。無責任な振る舞いに対する怒りだ。
「ありがとよ」
振り子のように両足を振ってベンチから立ち上がり、目を覚まさせてくれた女性に心からの礼を言う。何かを言うために口を開きかけた相手に持っていたカップを押しつけ、身軽になるなりラッドは走り出した。宿がある方角へ、振り返らずに。
一心不乱に駆けるその背中が急速に小さくなり、やがて視界の端から消える。ラヴィアンは小さく嘆息した。
「次に会うときは戦場かもしれないわね」
独語近い呟きを漏らし、自分のカップに口を付ける。
舌の上に転がる果実汁は、風味が落ちるほどの時間は経過していないはずなのに、なぜか酸味が強く感じられた。
「俺はイグーロスに行く」
ドアを押し開くなり発せられたラッドの宣言を、ラムザは粛然と受け止めた。
彼とガフガリオンのつきあいの深さは知っていたから、半ば予想していた事態であった。それでも、残念に思う気持ちも確かにある。
だから、荷物をまとめて勝手口から出ていこうとする彼に、ラムザは右手を差し出した。
「今までありがとう、ラッド」
褐色の瞳が、意外そうに細められる。
ラムザはそれに構わず、続けて言った。
「何も知らなかった僕に色々教えてくれて。感謝している」
「たしかに、お前は呆れるくらい世間知らずだったな」
傭兵団に入った当初を思い出したのか、ラッドが苦笑いをする。差し出した手にラッドの右手が重ねられたのは、その数瞬後だった。
「ラッド、これだけは知っておいてほしい。僕は、できれば君と戦いたくない」
手袋越しに感じるぬくもりが、一年という時間を共に過ごした記憶が、ラムザに素直に内心を吐露させる。
それは、ラッドも同じだった。
「俺も、お前とは戦いたくないって思っているよ」
「そう、よかった」
安堵に似たため息が、ラムザの口から漏れる。
ラッドは握手を自ら外し、かつての同僚に背を向けた。
「じゃあな」
短い別れの言葉を残して、ラッドは宿から出ていった。
「いいのか?」
ラッドの後ろ姿が薄暗い路地に溶け込もうとしていた頃、背後の物陰に潜んでいた人物が声を発する。
ラムザは正面を向いたまま、答えた。
「いいんだ。ラッドが自分で決めたことに、僕がとやかく言う資格はない」
「だが、こちらの情報が彼から北天騎士団側に流れる可能性も否定できない。最悪の場合、彼が追っ手の陣頭に立つかもしれない」
「危険は覚悟の上だよ。それに…」
ラムザはゆっくりと振り返り、壁にもたれ掛かるように佇むイゴールをその視界に収める。
「もしそうなったら、僕が彼を殺す。自分の不始末は、自分でケリをつける。もう誰にも重荷を背負わせたりはしない」
決然たるその声音は、他者に有無を言わせない強さを秘めている。
イゴールは左手に握っていた長弓を背中の留め金に収めた。
「俺は、正直不安だった。一年もあれば、人はいくらでも変わる。お前もディリータもすっかり人が変わってしまっていて、探しても無駄じゃないかと思ったこともあった」
急に話題が変わる。
訝しみながらも、ラムザはイゴールの指摘を否定した。
「僕は変わったと思っている」
「いや、変わってない」
はっきりと断言され、金色の眉が不快げにつり上がる。
イゴールは、口の端を微かに上げた。
「だから、心おきなくお前についていける」
微笑と共に言われた言葉に、ラムザはなにも答えなかった。