第一章 春雷(2)
「我ら罪深きイヴァリースの子らが、神々の御力により救われんことを」
礼拝堂の祭壇の前に跪き、少女がひとり祈りを捧げている。
唱えられた聖典の一節が空気に溶けきった頃、少女の背後に控えている二人のうちの一人が一歩前に進み出た。蜂蜜色の髪と蒼い瞳を備えた、二十代前半と思われる美しい女性だ。労るような表情を浮かべて、小さな背中にそっと声をかける。
「さ、出発いたしますよ、オヴェリア様」
「もう少し待って、アグリアス」
壇上の少女は――前王デナムンダ四世の実子にして亡き国王オムドリア三世の養女であるオヴェリア王女は、いったん顔を上げたが、正面に掲げられたグレバドス教の聖印を見るなり祈りの姿勢に戻ってしまう。アグリアスはこころもち声を大きくした。
「すでに護衛隊が到着しているのです」
しかし、王女は祈りを捧げ続けている。アグリアスは微かに吐息した。
(ご不安なのだ。無理もない)
住み慣れた修道院を離れ、恩師を始めとする心通わせた人々と別れ、イグーロスという見知らぬ土地へと旅立つ。それだけでも十分寂しさを感じることなのに、イグーロスの城主・ラーグ公爵がオヴェリア王女を招聘する真意は、オリナス王子の即位を認めさせ、ラーグ公爵家が権力を握ることを容認させることにある。内乱で国と民を損なうよりは、と政争の道具にされることを承知した上での出立。その現実が、修道院を離れる悲しさをより深めているようだった。
祈りを捧げることでその不安が少しでも解消されるのならば、心構えの準備になるのならば、いくらでも待とう。アグリアスの嘘偽りのない本心であるが、一方で、親衛隊長として王女の移送の全責任を負う立場上、これ以上の遅れは看過し得ぬこともまた、事実だった。
オーボンヌ修道院は、広大な干潟に一つだけぽつんと浮かぶ岩山の上に建てられている。そして、この一帯の湾は干満の差が激しく、干潮時には陸と一つに繋がるが、満潮時には絶海の孤島になってしまう。ここを訪れるにしても離れるにしても、干満のタイミングを計ることが必要不可欠であり、万一読み違えてしまえば押し寄せる波にあっという間に呑み込まれてしまう。幸いにして、千年以上の歴史を有するオーボンヌ修道院には学舎が併設されており、優秀な学者が数多くいる。準備に際し彼らの知恵を借りた結果、干満の時間をかなり正確に知ることができた。その計測に従って出立の時刻を最も潮が引く干潮時に、午前十一時に決めたのだが、想像以上に長い王女の祈りのために予定時刻をかなり過ぎている。もし潮が満ち始めてしまったら、再び潮が引く時間――学者は約六時間かかると言っていた――まで、待たなければならない。
(いま、何時であろうか…)
アグリアスの視線は、自然と王女の背中から側廊の上部にある薔薇窓へとうつった。南側に位置するそれは、影に彩られその色を濃くしている。
そのとき、アグリアスの傍らにいた老神父が一歩進み出て、肩を並べた。
「姫様、アグリアス殿を困らせてはいけませぬ。さ、お急ぎを…」
穏やかな口調でもって老神父が諭す。だが、王女の返事を待つよりも早く事態が急変した。背後の扉越しに騒ぎが聞こえたと思った瞬間、何の先触れもなしに両開きの扉が乱暴に開かれた。
「まだかよ! もう小一時間になるンだぞ!」
二人の傭兵を従えた初老の剣士がそう声を張り上げ、赦しも請わずにずかずかと聖堂内へ入ってくる。無礼極まる振る舞いと不遜な表情に、アグリアスは眉をしかめた。
「無礼であろう、ガフガリオン殿。王女の御前ぞ」
アグリアスの言葉をいち早く正確に理解したのは、意外にも一番年若い傭兵だった。まだ少年と言ってもいい年齢の彼は、流れるような仕草で片膝をつき、金色の頭を垂れる。隣にいる二十代半ばの傭兵も、ぎこちない動きで少年に倣う。最後に、ガフガリオンが右腕を胸に当て、軽くお辞儀をした。
「これでいいかい、アグリアスさんよ…。こちらとしては一刻を争うンだ」
「誇り高き北天騎士団にも貴公のように失敬な輩がいるのだな」
場を収めるためだけの動作であると言外に言われ、アグリアスの口から嫌味が飛び出る。しかし、ガフガリオンは堪えることなく、それどころか見る者の神経を逆撫でする不敵な笑みを浮かべた。
「辺境の護衛隊長殿には十分すぎるほど紳士的なつもりだがね…。それに、オレたちは北天騎士団に雇われた傭兵だ。あんたに礼をつくす義理はないンだ」
アグリアスはかっとなった。彼女にとって自分が辺境の護衛隊長と揶揄されるのは、王女の立場がないがしろにされるのと同義だった。
「なんだと、無礼な口を!」
剣の柄に手をかけた瞬間、凛とした声が響き渡った。
「わかりました。参りましょう」
オヴェリア王女がゆったりとした足取りで段を下り、アグリアスの元に歩み寄る。涼やかな紺碧色の瞳には決意が秘められているが、その表情はどこか硬い。明敏に察した老神父が、王女に右手を差し出した。
「どうかご無事で」
「シモン先生も…」
オヴェリア王女の表情が和らぎ、その白い両手が節くれ立った老人の手を優しく包み込む。
別れを惜しみ、これからの人生の幸を願う時間が、師弟の間を流れる。しかし、たった数秒で、緊迫したものへと変わった。
「アグリアス様、て、敵がッ!」
左足を引きずり右の袖を朱に染めた女性騎士が戸口で叫び、力尽きたように膝から崩れ落ちた。アグリアスがさっと顔色を変え、表へ走り出す。シモン神父が怪我人を抱き起こし、止血処理を施しつつ尋ねた。
「ゴルターナ公の手の者か!?」
冷や汗が伝う顎が微かに動くのを確認したガフガリオンは、愉快そうに口の端をつり上げた。
「ま、こうでなければ金は稼げンからな」
複数の視線がガフガリオンの全身に突き刺さる。そのうちで最も鋭く、かつ非難の色を込めた青灰色の視線の持ち主に、ガフガリオンは目を向けた。
「なんだ、ラムザ、おまえも文句あるのか?」
「…僕はもう騎士団の一員じゃない。あなたと同じ傭兵の一人だ」
若干の間を経て返ってきたその答えに、ガフガリオンは満足そうに目を細める。
「そうだったな。よし、行くぞッ!」
荒々しい号令とともに、傭兵達も聖堂から戦場へと駆けていった。オヴェリアは天井を仰ぐ。
「神よ…」
その細く長い指が、自然と祈りの形に組まれていた。