第十三章 刻限(1)
簡単な戦後処理を終え風車小屋を出発したときには、太陽は西の端に傾きかけていた。橙色に染まりつつある平原を、彼ら彼女らは無言で歩き続けた。
半時間がたった頃、足下の感触が柔らかいものから固いものへと変化した。微かな夕明かりを頼りに目をこらせば、足は白っぽい土を踏んでいる。人の手で整備され、旅人によって地ならしされた固さ。リオファネスとイグーロスとを結ぶ街道に出たのだ。
目指すジークデン砦はここから南西にあり、徒歩で半日かかる距離。一歩でも先に進みたいという気持ちが強かったが、辺りはすでに夕闇に包まれている。足下でさえよく見えない状態だ。夜間に活発化するモンスターや方角を見失う危険性を考慮して、候補生達は野宿することを決めた。
街道から外れた位置にあった夜風を避けうる巨岩が生えた場所を、野営地と定める。候補生達は簡単な食事をとり、その後、くじ引きでモンスターよけのたき火の番を決めた。最初の番となったラムザとイゴールを残して、他の四名は手頃な場所で横になったのだが…。
「眠れないのか?」
イリアが枯れ草の寝床から身を起こすや否や、抑えた声でイゴールが尋ねてきた。図星を指され一瞬どきりとしたが、彼女は素直に認めた。
「うん、そっちいってもいい?」
イゴールが横にずれ、空いたスペースを指さす。イリアはそこに腰掛けると、たき火に手をかざした。時折吹き荒れる北風は岩が遮ってくれるが、夜間の冷え込みまでは防いでくれない。両手こすり合わせ、指先に感覚を戻す努力をしていると、膝の上に厚手の布が掛けられた。微かな温かさが残っている濃緑色の上着。イゴールのものだ。
「使え」
「え、でも…」
「俺は作業がおわるまで着ない」
イゴールは脇に置いてあった長弓を手に取った。昼間の戦闘で断された弦は真新しいものに変わっており、失われた張りが戻っている。彼はごく自然な動作で弓を引き分ける。数秒後、納得がいかないと言わんばかりに首を傾げた。
「弦の張り替えをしていたの?」
「ああ、まだ細かい調整が終わっていない。袖のある上着は邪魔だ」
彼はそれだけ言うと、作業を再開した。握りを左手で持ち、慎重な手つきで弦を外す。数秒間考え込むような表情をし、弦をゆっくりと張り直していく。
ぶっきらぼうな言葉。
こちらを見向きもせず、黙々と作業を行う素っ気ない態度。
だけど、これらの裏にあるのは、頑固なまでの優しさと気遣いだ。
イリアはおとなしく厚意に甘えることにした。弦の固定が終わった頃を見計らって謝意を表す。
「ありがと」
童女のようなあどけなさがあるイリアの微笑みに、イゴールはなぜか焦りを覚えた。彼の顔はたき火の照り返し以外の影響を受けて、より鮮明な朱色に染まる。彼はとっさに視線を長弓に戻し、乾いた布で拭う作業をし始めた。
ぱちぱちと薪がはぜる音のみが、二人の間を流れていく。
空気に触れて変化していく炎の揺らめきを見ていたイリアは、ふと思い出したかのように言った。
「ねぇ、ラムザも見張りだよね? どうしてあそこで寝ているの?」
白い手が示す方には、横になっている人影が三つある。共通しているのは、外套を毛布代わりに身体に巻き付け、規則正しい寝息を立てていること。異なるのは、外套の端から覗いている髪の色だ。金、茶、黒。見事に三色揃っていた。
イゴールは熟睡しているもう一人の見張り番に目を向けた。
「疲れているようだから、俺ひとりで見張りをすることを申し出た」
「ウソね」
イリアはきっぱりと断定する。
「二人一組でたき火の番をしようと提案したのは、ラムザだよ」
「説得力ないか?」
「かなり。一度やると言ったことを守らないなんて滅多にないから。で、どうやって寝かしつけたの?」
「眠気防止用といってのませた紅茶に、一服盛った」
「また?」
イリアが驚き半々呆れ半々といった表情をする。無理もない反応とも言える。ほんの五日前、イゴールは全く同じ手口で、ラムザとディリータを強制的に眠りの世界へと誘っていたからだ。
「熾烈な戦いを二回も行い、しかも黒魔法まで使っていた。体力のみならず精神力も限界に近いはずだ。無理をして倒れてもらっては困る」
イリアは手元に視線を落とした。
イゴールの指摘は正しい。彼女自身も感じていた。
ウィーグラフが去った後。
風車小屋の中にはいった彼は、なかなか出てこようとはしなかった。あまりの長さに気をもんでいたマリアが「様子を見てくる」と言い出した頃、ようやくディリータと一緒に外へ出てきた。心配そうに見つめる自分たちに対し、彼は「ジークデン砦に向かおう」と言った。端的な言い様は、静かでありながら確固たる意志を感じさせたが、同時に危うさも感じさせた。
ミルウーダが遺した言葉の数々。ウィーグラフが告げた真相。
間接的に聞いた自分でさえ、胸を引き裂くような痛みを感じた。
責任感が強く、まっすぐ人を信じて疑わないラムザにとっては、これらは比喩どおりの激痛を伴って心の奥底に突き刺さったはずだ。その心労は計り知れないものだろう。
ところが、彼はそれをおくびにも出さない。表面上は、誘拐されたティータを救うことに専念している。その様が張りつめた一本の細い糸を連想させた。
もし、万一。イゴールが指摘した事態になったら、彼はどうするのだろう。どう思うだろう。
そう考えると、すぅと胸が冷え込んでいく。まとまりきらない思考がどろどろと頭の中をめぐり、眠気を遠ざけていく。
イリアは小さくため息をつき、横目でイゴールを見る。不眠の原因を作った彼は、静かな表情で弓の手入れをしていた。炎の照り返しによって明暗のついた横顔に、イリアはある決意を決めさせた数日前の出来事を想い出す。
不意に知りたくなった。
彼の考えを。
「イゴールは、ウィーグラフが語った真相どう思った?」
唐突に発せられたイリアの疑問に、イゴールは手を止めた。ラムザとディリータを一瞥し、二人が熟睡しているのを視認してから答える。
「あの軍師ならやりかねないな」
「どうしてそう思うの?」
「侯爵誘拐事件については不審な点が多い。奴らは毒矢で外にいた護衛を全滅させると、馬車の中に即効性の麻痺薬を投げ込んだ。そして、完全に身体の自由を失った頃を見計らって侯爵を連れ去った。巧妙かつ迅速な作戦だ。だが、成功させるためには、奇襲に適した場所で待ち伏せをしていなければならない。
ここで、一つの疑問が出てくる。なぜ、骸旅団の奴らはエルムドア侯がマンダリア平原を通過する日時を知っていたか、だ。侯爵のガリオンヌ表敬は非公式かつ極秘だったはず。これは、ラムザが誘拐事件を報告したとき城の兵士があわてふためいていた事、目撃者である俺達が即座に隔離され個別に尋問を受けた事から推定できる。ならば、軍の上層部もしくは機密にかかわる者が、骸旅団に侯爵の行動日程を漏らしたと考えるのが自然。そして、“ラーグ公の懐刀”と称される軍師なら可能だ」
イゴールは一端言葉を切った。まっすぐ向けられる青紫の瞳に促され、続きを言う。
「侯爵誘拐は、骸旅団の本意ではなかった。これはウィーグラフの言動からして明白だ。そして、侯爵誘拐が軍師に教唆されたものならば、骸旅団の一派がベオルブ邸を襲撃し、軍師の暗殺を謀った理由も説明がつく。矜持を傷つけた事に対する報復だったのだろう」
最後の言葉は、辺りをはばかるような抑えた声で発せられた。イリアは顔を曇らせ、膝を両手で抱えた。
「ラムザとディリータには、とても聞かせられないね」
「…ああ」
イゴールは腰を浮かせ、薪として用意していた小枝の山へ手を伸ばす。手頃な枝をとり、たき火の中に放り込んだ。火箸代わりの枝をたき火に突っ込み、空気を入れる。やがて、小さくなりつつあった炎が元の大きさに戻った。
「だが、ひとつはっきりしないことがある」
「なに?」
「動機だ」
イリアはびくっと硬直した。
「エルムドア候は独身で、他に直系の血を引く者もいない。彼を殺害すれば、軍師の狙い通りランベリー領領主の座は空白となる。国政において絶対的権力を握っているのは、王妃と実兄のラーグ公だ。息のかかった者を新たな領主にすることも容易いことだろう。
しかし、ランベリー領にこだわる理由が分からない。予想されうる権力争いに備えるというというだけで、誘拐という失敗の可能性が高い策を軍師がとるとは思えない。なにか、別の理由があるはずだ」
イゴールは首を左に動かす。動揺と狼狽で揺れている青紫の瞳を見つめつつ、ずっと疑問に思っていた事を口に出した。
「おまえなら、なにか知っているんじゃないのか?」
イリアは追求の視線から逃れるように俯いた。足下をじっと見つめている。
イゴールは視線を向けたまま、彼女が答えるのを待った。
沈黙という楽曲が薪をはぜる音を伴奏として、二人の間を重々しく流れる。数小節ほど奏でた頃、イリアが絞り出すような声を発した。
「どうして、そう思うの?」
「ベオルブ邸での晩餐の時、誘拐の背後関係に話が及ぶとおまえは露骨に動揺していた。あれでは、どうぞ疑ってくださいと言っているようなものだ」
からかうような指摘に対し、イリアは何も答えない。
イゴールはたき火に視線を移した。
「言いたくないのならそれでもいい。だが、二度と動揺を表に出すな。ラムザやディリータを不安にさせるだけでなく、おまえ自身が危うくなる」
イリアはぎょっと隣にいる人物を見やり、息を呑んだ。
オレンジ色に染まったイゴールの横顔に変化はない。内心の感情が窺えない、静かな表情をしている。イリアには、彼が故意に口出さなかったある可能性の恐ろしさを強調しているように見えた。
『真相を知る者は軍師にとって邪魔者以外の何者でもない。利用価値のない者は、いずれ存在を抹消される』
イリアは膝を抱え直し、考える。
この事実は、指摘される度に大きな困惑を呼び起こしてしまう。だからだろう。どうしても顔にでて、行動に表れてしまう。動揺を顕わにせず、たった一人で一生抱え持つ自信はない。
そうかといって、たやすく他人に言えるものでもない。バカバカしいと一蹴されるか、軍師への侮辱ととられるか、どちらかだろうから。
だが、イゴールなら、信じてくれるかもしれない。
彼がさっきまで語っていた事は、イリアも考えたことだ。ほぼ同じ思考を辿り、同じ結論を導いている。それなら、もう一つの状況証拠を付け加えても、問題ないと言える。
イリアは意を決した。イゴールの厚意に甘え、ある単語を口に出した。
「小麦」
「なんだって?」
「イグーロス城の図書館で、北天騎士団が所有する食料庫の備蓄表を見たの。わたしが見たものには、小麦の項目しかなかった。五十年戦争時は収入より消費の方が多く、備蓄量は極限まで減少していた。終戦を迎えた昨年は増加していたけど、比率が半端じゃなかった。どの倉庫も急激に増えているの。空だった倉庫が去年の一年間で備蓄限界の九十パーセントまで満たされているのもあった」
「税収だけで賄うには、多すぎる量か?」
イリアはこっくりと首を縦にふった。
「たった一年間の税収だけで、数万の騎士が数年食べれる量の食料を備蓄するなんて絶対不可能よ。だから、他の領地から買い付けた。数字上、最も流入が多かったのはランベリー領からだった」
イゴールの脳裏にある考えが閃く。彼は天を仰ぎ、呆れるように言った。
「つまりはこういう事か。軍師は小麦を買う代金が惜しくなったから、ランベリー領領主をすげ替えようとした、と」
「身も蓋もない言い方だけど、簡単に言えばそうなるね」
「確かに、兵士と食料を揃えることは兵法における基本中の基本だ。しかし、そこまで極端な思考にはしるか、普通…」
「それはわたしも疑問に思ったけど。でも、これでエルムドア候がガリオンヌ領を表敬訪問する理由も推察できるよ。急激な小麦の買い付けに対するラーグ公の真意を直接聞くために、イグーロスへと向かっていた」
「筋はたつな」
「うん」
「ますます、ラムザとディリータには聞かせられない話になったな」
「そうね」
二人は同時に顔を見合わせ、ため息を一つ吐いた。