剣を棄てない理由(1)>>第一部>>Zodiac Brave Story

第十二章 剣を棄てない理由(1)

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 目の前に広がる、荒涼とした大地。
 人の手は一切入っておらず、切り立った岩が幾つも地面から乱立している。
 無秩序にそびえ立つ岩の数々は、起伏ある地形をさらに複雑なものへと変化させ、自然の迷路を作りだし、旅人の行く手を阻む壁となる。
 だが、悪い事ばかりではない。
 時折北から吹きすさぶ寒風を遮る盾ともなるからだ。
 また、分厚い岩に左右を囲まれた地点は身を隠す絶好の場所となる。
 今、彼女たちが休憩している場所も、そんな自然が形成した防護壁の一角だった。
 寒さと疲労から身を寄せ合うように固まっている仲間達。
 火でも焚ければ少しは和らぐのだろうが、追跡されている身では叶わぬ事。
 胃袋はしつこく空腹を訴えているが、もう食料はない。先程口に入れた干した果実一個が最後の食べ物だった。ここからは、水で空腹を誤魔化していくしかないだろう。
 なんてことはない。水だけでも三日は生きられる。
 彼女は、自身の体験によってそのことを熟知していた。
 だが、戦闘に耐えうる体力を維持するのは不可能だろう、と指揮官としての自分が冷静に指摘する。
 だからこそ、体力があるうちに、飢えと疲労で倒れる前に、仲間と合流しなければならない。
 合流ポイントである風車小屋までは、あと少し。
 現在の移動速度でもっても、半日歩き続ければたどり着ける。
 小屋には兄がいて、我々の到着を待っているはず。
 もう少しの辛抱だ。
 息を一つ吐くことで気を入れ直すと、彼女は立ち上がった。小声で仲間達に出立を促す。だが、誰一人立ち上がろうとしない。身動き一つしない。ぼんやりと地面の一点を見つめるのみだ。
 彼女が口を開きかけたとき、腰に剣を帯びた女性が顔を上げる。土気色の顔で、空虚な瞳で、ぼそりと呟いた。
「もう諦めましょう」
「諦める? 何を?」
「おとなしく投降したほうが」
 粗末な麻のローブを羽織った男性が応える。
 馬鹿なことを、と彼女は一蹴にした。
「投降したら生き残れるというの? 奴らに捕まれば、その場で処刑されるに決まってるわ。前に進むしか活路はないのよ!」
「前に進んでも、どうせもう勝ち目はないじゃないですか! こちらは数十人。向こうは数千、いや万を超す兵がいるんですよ。どうあがいても、結局最後は死ぬ!! それなら、剣を棄てて、どこかの農村にでも逃げたほうが」
 同意する声が、次々と連鎖的に続く。
 彼女はただ一人、口を閉ざす。にわかに活気づいた仲間達を、冷め切った目で見つめた。
「ミルウーダ様もそうしましょう。この人数なら、北天の包囲網から逃れられます。その辺の奴らから少々駄賃を拝借し、そこそこの金が貯まったら、全員で荒れ地でも開墾して暮らせばいい」
 五つの視線が自分に集中する。彼女は口を開いた。
「貴方たちは、私に、貴族が我々にしてきた仕打ちの全てを忘れろというの? 駒のように生還の可能性が低い戦場へ配置され、それでも勝ち残ってきた我々に対し、奴らは何の恩賞も与えなかった。それどころか、労う言葉さえなかった。そして、戦争が終われば、用無しとばかりに使い捨てにされた。あの悔しさを、腹立たしさを、怒りを、全て忘れろと言うの!!」
 辺りは水を打ったかのように静かになる。
 視線を彼女から逸らし、俯く仲間達。
 徐々に熱を帯びていく己の声が、岩壁に囲まれた空間にこだまする。
「私は忘れないわ。忘れることなどできないわ! 領主という地位にいるだけで不当な税を課し、生きるために必要な糧でさえ奪っていった奴らを! 徴収という名の略奪行為を許容する社会制度を! 平民という生まれだけで、嘲笑を受け侮蔑され、働きに対し何ら報われなかった過去を! 投降した仲間を拷問にかけ、必要な情報を引き出したらゴミのように投げ捨てた奴らの所行を!」
 反響が収まると、彼女は再度出立を指示する。
 緩慢な動きではあるが、全員が立ち上がる。
 異議を唱える者はいなかった。

***

 最初に気づいたのは、イゴールだった。
 偵察をかねて先頭を歩いていた彼は唐突に足を止め、背負っている長弓を手に取る。後ろを歩いていた全員が、即座に彼に倣って戦闘態勢をとった。
「人がいる」
「どこだ!」
 ディリータが周りを見渡す。イゴールは前方の一点を指さした。
「あの岩陰だ。武装した人間が何人か、こちらへ出てきている」
 ラムザは彼が指し示す方角を凝視する。
 最初は霞んだ空と草が生い茂った黄土色の巨岩しか見えなかった。が、岩と地面との接着面に注目すると、確かに自分たちがいる裏街道へと戻るように動いている影が幾つかあった。瞳を凝らせば、ゴブリンというには大きすぎる二足立ちの生物だとわかる。
 十分警戒しながら、正体を確認するため接近する。
 五十歩ほど近づくと、ラムザの目にも相手の姿格好が判別できた。
 間違いない、人間だ。
「魔道士らしき者が1…2…3。剣を帯びた者が2…いや3ッ」
 イゴールが息を呑む。
 その音が届いたのか、それとも、自分たちを見下ろす位置にいる相手からは、こちらを確認しやすかったのだろうか。とんがり帽子を被った人が声をあげ、剣士らしき女性が、岩陰で半身が見えない誰かを呼びかける。列の最後にいる人物らしい。その人の顔が判明した瞬間、誰もがイゴールと同じ反応をした。
 相手もこちらの正体に気づいたのか、色めきだっている仲間達をその場に止め、一人ゆっくりと近づいてくる。
 十歩ほどの距離まで詰めると、彼女は足を止めた。坂の下に立ちつくしている六名の候補生を鋭い眼光で見渡し、口の端を皮肉の形につり上げる。
「この道も閉鎖されているのね。やはり、我々に逃げ道はないという事か」
 彼女は音も立てずに鞘から剣を抜き放つ。
 最後尾にいたディリータがイゴールを押しのけ、大声を張り上げた。
「ウィーグラフはどこだッ! ティータをどこへやった!!」
「ティータ? ゴラグロスが人質にしたベオルブ家の娘のこと?」
「ティータは俺の妹だッ! ベオルブとは関係ないッ!! おまえたちがティータを人質にしても何の意味もない! お願いだ、妹を返してくれッ!!」
「貴方たちは返してくれるの?」
 穏やかな口調で、彼女はディリータの懇願を遮った。
「貴方たち貴族が、私たちから奪ったすべてのものを貴方たちは返してくれるの? 最初に奪ったのは貴方たち。私たちはそれを返してくれと願っているにすぎない。だが、貴方たちは返してくれない。ただ、ひたすら奪い続けるだけだ! だから、私たちは力を行使する!」
 彼女は右手にある剣を下段に構える。
 同時に、後方にいる骸旅団の残党と思われる人達も戦闘態勢をとった。
「あきらめなさい! 貴方の妹を返さねばならない理由はどこにもないのよッ!!」
 凛とした声で宣告すると、彼女は地を蹴った。
 先頭にいたイゴールに肉薄する。
 狙われた彼は後方に飛びのき、ラムザが牽制のために剣を振るう。
「俺は、俺は…!」
 ディリータの叫びは、剣戟の音にかき消えた。


 紅茶色の髪をもつ女性騎士とラムザとが剣を交えたのを横目に捉えながら、アデルは左に跳躍し、自分の背丈ほどの高さはある岩の上に降り立つ。そして岩づたいに前方へ駆け出した。
 彼の狙いは、坂の上でロッドを掲げて呪文詠唱をしている黒魔道士二人。
 度重なる実戦で、彼はあることを学んだ。
 戦場で魔術の使い手を放置しておくと、やっかいなことこの上ない、と言うことだ。
 攻撃主体の黒魔法は味方に甚大な被害を与えるし、回復主体の白魔法は敵の勢力維持に通じる。他の系統の魔法はよく知らないが、面倒な事態を引き起こすに決まっている。
 仲間のうちで最も早く動ける自分こそが、最優先で魔道士を戦闘不能にさせなければならない。彼はそう自分に課していた。
 耳を澄ませば、軽快な足音が自分に続いているのが分かる。
 背後に感じる気配に安堵しつつ、アデルは岩を滑り落ちた。
 横から現れた彼に対し、剣を構える女性剣士二人。
 アデルはスピードを落とさない。落とす必要もない。
 背後の安全は、必ず彼女が確保してくれる。
 白刃に怯むことなく剣士の脇を通り過ぎ、黒魔道士二人に迫る。
 横一列に並び、呪文詠唱のため身動きできない彼ら。
 イグーロス城内での訓練に使用した丸太に等しい、無防備な姿。
 一瞬、胸に罪悪感がよぎる。
 だが、ここで自分が躊躇すれば、魔法は発動される。
 背後にいる仲間達が傷つき倒れる姿だけは、もう、二度と見たくなかった。
 彼は右手に気を込め、気合いと共に地面へと叩きつける。
「地烈斬!」
 地割れが発生し、前方にむかって直線上に衝撃波が走る。アデルの狙い通り、それは黒魔道士二人の身体を引き裂いた。彼らはその場に崩れ落ち、立ち上がろうとはしなかった。
「アデル!」
 下方から発せられた警告。
 視線を巡らせば、鏃の先端が目に飛び込んでくる。アデルは右足を半歩退くことで、辛うじてかわす。矢は見事な放物線を描いて飛来し、彼の後ろにいた紫色のローブをまとう女性の身体に吸い込まれていった。また一つ、甲高い悲鳴が戦場に響く。
 長弓をもつ人物は、ここには一人しかない。アデルは一歩間違えれば味方殺しになりかねない攻撃をした相手に怒鳴り散らした。
「イゴール、俺に命中したらどうするつもりだ!」
「そんなへまはしないだろう。お前なら」
 当の相手は反省の色なくしれっと答え、矢をつがえる。
 ―――実力を評価されていると言うべきなのか? それとも、珍しく矢が逸れただけか?
 正直、複雑な思いがした。


 マリアは岩壁を背に立ち、二人の女性剣士を相手にしていた。
 拳術で魔道士を倒しているアデルに攻撃が向かないよう、相手の気を此方に惹きつける。
 土気色の顔面で、ぎらぎらと血走った目で剣を振りかぶる敵。
 死にたくない。単純だけど何よりも強い願望から戦っているのだと容易に推察できる。
 だからといって、此方がやられてやることはできない。
 相手が剣を突きつけている限り、生き残るために、戦わなければならない。
 それは、戦場という非情な世界における、至極単純な真理。
 胸の内で小さく謝罪しながら、彼女はがら空きになった敵の胴を剣で薙いだ。
 苦悶の表情を浮かべ、脇から血を流して、地に伏す敵。
 生暖かい液体が、顔に、前髪に、幾つも散る。
 赤くなった視界を煩わしく思いながらも、マリアは次の敵と刃を交えた。


 矢をつがえたものの、次にとるべき行動にイゴールは迷った。
 右方では、ラムザが、灯台跡で戦った女性騎士と剣を交えている。足場が狭いゆえか、その戦いは両者の立ち位置がめまぐるしく変わる斬り合いだ。その動きは速く、しかも変化自在。先程のアデルの動きと異なり、先読みができない。下手に矢を放てばラムザに当たりかねない。
 前を見遣れば、マリアが敵を一人倒し別の相手と剣を交えている。アデルは敵の背後に回り、拳術をたたき込んでいる。坂の上で、両足で地面に立っている敵は一人だけだ。二人に任せても問題ないだろう。
「出番がなかった」
 隣にいるイリアが呟く。安堵と表現した方が相応しい声音だった。
「魔法力は温存しといた方がいい。あの女性がここにいると言うことは、骸旅団の残党が他にもいる可能性が高い」
「そうだね」
 彼女は軽く頷いて、右方で繰り広げられている戦いを見守る。
 イリアがラムザに助太刀しない理由は、おそらく自分と同じだろう。魔法や弓の攻撃はどうしても時間差が生じる。真剣同士の戦いにおいて、それは致命的なものだ。
 また、あの二人に割り込めるほどの剣技を、自分は持ち合わせていない。
 可能性があるのは…。
 イゴールはこの戦いで一度も剣を抜いていない相手を顧みる。彼は幼なじみの戦いぶりをその両目に写しながらも、手を柄にかけたまま硬直していた。榛の瞳は、迷いに揺れている。
「ディリータ。なぜ、戦わない?」
「俺は…何者なんだ?」
「ディリータ・ハイラルと呼ばれる人間」
 それは、イゴールにとってはごく自然に出た言葉。
 だが、相手の反応は著しかった。彼は目を大きく見開き、始めて存在に気づいたかのようにイゴールの方を向く。
「俺はそれ以外知らない。他の自己定義の仕方は自分で見つけろ。だが、今はそれを模索する刻ではない。お前がここまで来た理由は何だ。仲間の戦いを傍観するためか?」
 彼はじっとイゴールの顔を見つめ、前方を見遣り、そして左手首に視線を走らせる。
 内面でどういう葛藤があったかは、イゴールにはわからない。
 だが、数秒後、剣を鞘から抜きはなった彼の瞳には一定の決意のようなものがあるように思えた。
 ラムザの動きを、女性騎士の剣筋を読み、タイミングを計るため両足でリズムを刻む。やがて判断できたのか、ディリータは腰を落とす。彼が大地を蹴ろうとした刹那だった。
「手出しするなッ!」
 有無を言わせない、厳しい命令。
 ディリータのみならず、イゴールとイリアも信じられない思いで発言者を凝視する。
 それは、女性騎士と鍔競り合いをしているラムザだった。


「余裕のつもり? なめられたものね!」
「違うッ!」
 否定の言葉と共に、ラムザは相手の剣を押し返す。女性は逆らうことなく、むしろその力を利用して後方へ退く。追撃を警戒して剣を正眼に構えるが、こなかった。代わりに向けられたのは、まっすぐな青灰の瞳だった。
「どうしてそこまで僕らを憎むのですか! 何がいけないんですか?!」
「貴方は、あのときもそう言っていたわね」
 鋭い紅茶色の目がふっと和らぐ。だが、それは一瞬でしかなかった。
「知らないということはそれだけで罪だわ! 貴方が当然と思う世界は貴方に見える範囲だけ。でも、それだけが世界じゃない。貴方が当たり前のように生きている一方で、何もかも貴族に奪われて死んでいく平民が何十、いえ、何百人もいるのよ!」
 女性の凛々たる糾弾は、戦場の隅々まで響き渡る。
「貴方が悪いわけじゃない。でも、現状が変わらない限り、私は貴方を憎む! 貴方がベオルブの名を継ぐ者である限り、貴方の存在そのものが私の敵ッ!」
 大音声で、彼女は断定する。
 自分へ向けられた切っ先には、言葉通り憎悪と殺気が込められている。
 ラムザは自分の認識がいかに甘かったか思い知った。
 彼女が憎んでいるのは、貴族制度そのもの。
 ベオルブの名を継ぐ者として存在する自分自身。
 貴族である自分が億万の言葉を費やしても、もう彼女には通じない。届かない。
 かといって、骸旅団のやり方が正しいなんて思えない。
 何ら罪のない人を苦しめ、無力なティータを拐かし、マーサを無惨に殺害したのだから。
 ならば…仕方ないのか…。
 ラムザは左腕に装備していた盾を外し、地面に落とす。
 両手で剣を握り直し、青眼に構え、敵として存在する女性を見据える。
 峻厳な青灰の瞳。
 彼の身体から立ちのぼる見えざる“何か”。
 その場にいる者達を竦ませ、畏怖させる。
 彼はじりっと一歩を踏み出し、猛然と女性に向かっていった。
 両者の剣が交じり、激しい火花が舞い散る。
 防御から攻撃へと転じた彼の剣技は、冷酷無比。
 打ち込まれる斬撃の重さに、突き出される剣の鋭さに、女性はたちまち追い込まれ防戦一方となる。均衡を保っていた形勢は、一気にラムザへと傾いた。
 周りの候補生は加勢する事も声をあげることも忘れて、ただ呆然と、普段とは全く異なる彼の戦いぶりを見つめていた。
 五手目でこちらの勢いに負け、相手の体勢が崩れる。
 ラムザはその隙を見逃さない。
 剣を下から上へ垂直に円を描くよう、一閃。
 女性の右肩から鮮血が噴き出し、片腕が宙を舞う。
 これで、相手の戦闘能力はなくなった。
 冷徹に己の行為を判断し、彼は切断面を左手で押さえて両膝をつく女性に近づいた。彼女は激痛に苛まれながらも、悲鳴どころか呻き声さえあげない。騎士として見事な矜持だと感じた。
「とどめ、か?」
 ラムザは無言で剣を振り上げ、一気に振り下ろす。
 周りにいる誰もが、瞳をきつく閉じ顔を背ける中で。
 紅茶色の瞳だけが、瞬きもせず、迫り来る白刃を見つめていた。


 鈍い衝撃音。
 何度も繰り返される、浅く荒い呼吸。
 恐る恐る瞼を開いた候補生達の目に写ったのは、剣を握りしめたまま動かないラムザの背中と、呆然とした顔をしている女性騎士だった。細身の刃は彼女の身体を僅かに逸れ、地面に突き刺さっている。
「どうして殺さないの? 私は貴方の敵よ」
「僕は…あなたが敵だとは…思えない…」
 甘ったれだと笑われても仕方ないとラムザ自身思う。
 だけど、どうしてもできなかった。
 敵だと断定され、無知を糾弾され、大事なものを奪った憎い敵だと思っても――。
「話し合えば、理解し合えると思うから」
 ラムザが地面に突き刺さった剣を引き抜き、鞘に収める。顔を上げると、女性騎士は穏やかな笑みを浮かべていた。
「貴方は…変わってるわね」
「よく言われます」
「そう…でしょうね」
 女性はゆっくりと瞼を閉じた。微笑から苦悶へと表情が変わる。その身体は、小刻みに震えている。傷口を押さえていた左手が右肩から滑り落ち、血が勢いよく流れ出す。
 失血性のショック状態。
 イリアは瞬時に判断を下し、ころがるように駆け寄る。数秒後、その場に凍りついていた他のメンバーも彼女に続いた。
「ラムザ、退いてッ!」
 イリアは譲られた場所に膝をつき、止血処理に使う布を探す。ラムザが背中のケープを外して手渡してくれたので、それでもって切断面を覆い、端を結んできつく縛り上げる。アイボリー色の布に赤い斑点がしみ出し、みるみる大きくなる。
 回復魔法でもっても、薬品でもっても、失われた血を戻すことはできない。
 一定量以上の血が体内から失われれば、死は免れない。
 それは、薬学・魔法学における絶対的な定理だった。
 イリアが回復魔法を詠唱する。ラムザはアデルが差し出した魔法薬を受け取り、封を切った。ぽんっという軽い音に女性は瞼を開き、ラムザをじっと見る。ゆるゆると頭を振った。
「いらないわ」
「どうしてですか。早く止血しないと死んでしまう!」
「剣に生きたものは…剣に死ぬ…。私は…革命のためとはいえ…多くの命を奪ってきた…。これは、その報いよ」
 一点の曇りもない、綺麗な瞳だった。
 己の信じる道を貫き通し、全てを容認した者だけができる強い目。
 ―――とうてい覆せるものではない。
 ラムザは唇を震わせるが何一つ言葉を出せず、魔法薬の栓を閉め直した。
 イゴールがイリアの肩に手を置き、首を横に振る。イリアは納得がいかないというように身じろぎするが、詠唱する声には涙が滲みだし、やがて風にかき消えた。
 女性は候補生達の顔を見渡し、ディリータに視線を止めた。
「娘は…ここから北西六qほど先にある…風車小屋に…いるはずよ…。迎えに…いってあげなさい」
「なぜ?」
「人質なんて…とる気はなかった…。全ては…あいつの…独断…」
「わかった。感謝する」
 ディリータは冷たさに驚きながらも、女性の左手を優しく握った。彼女は微かに笑い、ラムザに目を向けた。
「ラムザ…だったかしら、頼みがあるの」
「何でしょうか?」
 小さくなりつつある声を聞き漏らすまいと、ラムザは女性の口に耳を寄せる。掠れた声で彼女は言った。
「とどめ…刺して…」
 背後で幾つも息を呑む音がした。
 ラムザはそっと傷口を触れた。
 ぴちょんと言う音がする。巻き付けたアイボリーのケープはすでに止血としての効力を失い、血を透過させる布きれと化していた。
 彼は、手のひらに流れる赤い液体を眺め、血の気が退きつつある女性の顔を穴が開くほど見つめる。
 気が遠くなるほどの沈黙の後、ラムザはゆっくりと口を開いた。
「わかりました」
 手振りで背後にいる仲間達に離れるよう指示する。彼ら彼女らが十分な距離をとったのを背中越しに感じたのち、ラムザは鞘を払った。女性の傍らに片膝を付き、尋ねる。
「名前、教えてください」
「ミルウーダ・フォルズよ」
「ミルウーダ。あなたのことは決して忘れません。僕が剣に斃れる日まで」
 心からの言葉を贈り、ラムザは立ち上がった。
 震えそうになる腕を渾身の力で抑え、剣を振り上げる。
 ミルウーダが独語にちかい呟きを漏らす。
「兄さん…、ごめんなさい…」
 無尽蔵に、ラムザは剣を振り下ろした。

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