第九章 襲撃(2)
夜明けの時間だというのに、空は厚い暗雲に覆われたまま。
針のように細くて小さい水滴が天から幾重にも降り注ぎ、全てを暗く沈んだ色へと染めていく。
大地を、海を、そして、それを見つめる人々の心をも…。
「そう、本隊との連絡も途切れたのね。私たちも、もうおしまいのようね」
「なに言っているんですか! 戦いはまだ終わってないじゃないですかッ!」
「そうですよ、やつら、貴族どもが、我々に謝罪するまで続くんですッ!」
即座に反論する部下達。だが、その声は、勢いはあっても力はなかった。
ミルウーダは外の景色から背後へ視線を移す。扉前で控えている部下二人の顔面には、疲労ゆえの土気色に、絶望と虚無感という暗い色が入り交じっていた。たった一つの蝋燭が明かりを提供する薄暗い室内でも、はっきりと見て取れた。
部下たちもわかっているのだ。もはや、我々には、現状を打破し夢みた理想を実現する力はない。口に出した言葉は、ただ、自分達が絶望の淵に落ちるのを防ぐために紡がれたものにしかすぎない。
「兄さんの…、兄さんのやり方が甘いから…」
思わず出てしまった愚痴。だが、それは正しくはない。甘いのは兄一人だけではないのだ。
ミルウーダは左の壁に視線を向ける。灰褐色の石造りの壁。その向こうに彼女の「甘さ」がある。彼女はそれを捨て去ることは出来なかった。いや、違う。やろうと思えばたぶんできただろう。だが、捨て去ることを頑なに拒否してきたのだ。
切り捨てることは、自分たちが憎み嫌悪する貴族達の思想に追随することになるが故に。そして、この「甘さ」があるからこそ、人としての誇りが保たれると信じているが故に。
「ミルウーダ様」
自分を呼びかける部下の声に、ミルウーダは意識を己の内面から現実へと切り替える。たとえ、どんなに絶望的な状況下にあろうとも、生き残るための手段は講じなければならない。それが、彼女に付き従ってきた部下達に対する責務であり、贖罪でもあった。
「彼らの体力が回復次第、ジークデン砦に向けて移動を開始します。引き続き、治療に最善を尽くして」
「て、敵襲ッ!!」
急を告げる声。続けて、くぐもった絶叫。ミルウーダは壁に立てかけてある剣を取った。
「エルザ、彼らは…」
「無理です!」
質問の意図を正確に理解した上での返事。ミルウーダの脳裏に二つの選択肢が浮かび、彼女は迷わずそのうちの一つを選んだ。鞘から剣を抜き放つ。
「ならば、敵を全員排除する! ついてきて!」
「はい!」
「わかりました!」
なおも自分の選択を信じてくれる部下達に感謝しつつ、彼女は駆け出した。
***
「北天騎士団の名において、ここを臨検させてもらいます」
ラムザが証書を提示しながら宣告すると、門番らしき男は「敵襲」と叫びながら、腰の小剣を抜きはなって襲いかかってきた。ラムザは慌てることなく斜め後方に退く。男と彼の距離が開いた瞬間、アデルは拳術を発動させた。
「波動撃!」
目に見えない気の固まりを腹部に喰らい、男は後ろへ吹っ飛び壁に激突した。彼はそのまま崩れ落ちて意識を失う。小剣は遙か彼方へと転がり、小さな音を立てて海に落下した。
「お見事」
「どういたしまして」
パチパチと小さく拍手するマリアに、アデルはニカっと笑った。
「のんびりおしゃべりしている時間はない。さっさと手はず通りにするぞ。次から次へと敵が来るだろうからな」
ディリータの言葉を証明するかのように、二人の男性が入り口から姿を現す。どちらも短剣や小剣を手にしており、こちらに明らかな殺気を向けていた。
「わかってるよ。じゃ、援護よろしく」
「了解」
後ろにいる仲間達の返事を背中で聞き、接近戦担当のアデル、ディリータ、アルガスは前方に駆け出した。アデルは右手にいる敵に向かって、ディリータは左にいる敵に向かって、アルガスは正面の砦入り口に向かう。
マリアはアデルを援護すべく、長弓を構え横の高台に移動した。手に二本の矢をとる。身軽さで敵を翻弄しつつ拳を身体にたたき込む彼の動きを目で追いながら、矢をつがえタイミングを計る。敵の短剣による攻撃に怯み、彼が距離をとった瞬間彼女は矢を放った。背中を狙ったのだが、相手に気づかれたのか左腕をかすっただけだった。それでも十分効果はあった。敵は一瞬、苦痛で硬直する。瞬きするほどの短い時間。だが、アデルが気をためるには十分な時間だった。彼は渾身の力を込めて拳を振り下ろす。真横から見えざる力を受け、敵の身体は不自然に斜めに傾く。マリアはその隙を逃さず、もう一本矢を放つ。今度は狙い通りに背中の中央に当たった。敵はその場に倒れ伏し、動かない。赤い血が大量に流れ出ていることから、戦闘能力はもはやないだろうと彼女は判断する。
マリアは他のメンバーの戦況を窺う。
ディリータはラムザの援護をうけながら、危なげなく敵と剣を交えていた。数度の剣戟の後、ディリータは距離をとる。間隙を埋めるようにラムザは矢を連射した。矢の一本が敵の右腕に当たり、激痛で敵が剣を落とす。その隙を逃さず、ディリータは敵に向かって突進し、剣を相手に突き立てる。白刃は敵の身体に吸い込まれていった。
―――あれで勝負あったわね。
マリアはそう独りごち、砦の入り口付近に視線を向ける。
どうやら、戦う相手がいなかったアルガスはそのまま砦へと歩を進め、内部で誰かと交戦しているらしい。剣戟の音が反響して聞こえてくる。魔道士のローブをまとったイゴールとイリアは入り口付近でロッドを構え、呪文の詠唱をしていた。何を対象にしているのか、判断つかない。アデルが手話で「内部に進入しよう」と提案してくる。外には敵はもういない。マリアは入り口へと足を向ける。左足を砦の内部に入れたその瞬間、複数の苦痛を訴える悲鳴が塔の内部に響き渡った。
一つは自然ならざる雷に貫かれた、魔道士らしき二人の女性の口から。
もう一つは、突如炎に包まれたアルガスからだった。
「アルガス!」
「大丈夫かッ!」
炎は彼の全身を包み込み、そして、消え失せた。アルガスが白煙を上げて片膝をつく。濃い紅茶色の髪をした女性が彼に急接近し、抜き身の刃を振り下ろそうとするのがマリアの目にやけにゆっくりと見えた。
「させるかぁ! 地烈斬!!」
アルガスと女性とを妨げるように衝撃波が直線上に発生する。巻き込まれる直前で、女性はバックステップを踏みそれを回避した。衝撃波が通過した石造りの床は、深い地割れを起こしていた。
「若いながら見事な拳術ね。剣術偏重の騎士団には珍しいわ」
女性はアデルに向かって軽く笑いかける。アデルは油断なく構えをとりながらも、かすかに口の端をあげた。
「そりゃ、どうも」
アデルが手振りで「アルガスの治療を」と指示する。イリアとイゴールが炎に焼かれてぐったりしているアルガスを壁際に退避させた。イリアが白魔法を詠唱し始めたのを確認してから、マリアは長弓と矢筒を床に置き、腰に帯びていたレイピアに手をかけた。治療の邪魔をさせないという役割を果たすには、弓よりも慣れた剣の方が的確だと判断したからだ。
「さて、俺としては、敵はこちらの実力に恐れをなし投降したというシナリオを希望するのですが。実際、もう、貴女ぐらいしか戦える人はいないですよ?」
「…そう、かしら?」
奇妙な確信を帯びた女性の言葉。マリアがその意味を理解する前に事態は急変した。
「後ろだぁ!」
警告が発せられたのと、彼女が背後からもう一つ別の殺気を捕らえたのは同時だった。振り返れば、銀色に光る鋭利な金属が目に飛び込んでくる。狙いはアデルの無防備な背中。時を置かずして、目の前の女性はアデルに向かって突進してきた。
女性騎士に備えていたアデルに、必殺の意図を込めた背後の攻撃を回避する余裕はなかった。また、マリアの位置と反射神経からも、剣を抜いてはじき飛ばすことは不可能だ。彼女にできるのは、前後の攻撃から逸らすべく身を挺して彼を突き飛ばすことだけだった。
アデルに覆い被さった直後、右肩に何かが突き刺さり、鋭い痛みが全身を駆けめぐる。
予想はしていたが想像以上の激痛に、彼女の視界は暗転した。
アデルの背後を狙っていたのは、最初に彼が拳術で気絶させた男性だった。何かを振りかぶる動作に気づいたラムザが即座に矢を放ったが、命中する前に敵は手にしていた短剣をアデル目がけて投げつけていた。ディリータにできたのは、大声を張り上げることだけだった。
矢で背中を貫かれた男が絶命していることを確認した後、ラムザとディリータは砦の内部に突入した。直後、力強い声が飛び込んできた。
「サンダー!」
石造りの建物内部はまばゆい青白い光に包まれ、彼らの視界をもその色に染め上げる。閉じた瞼の裏をも通り越して。
轟音がとどろき、一つの苦悶の叫びが響き渡る。
発光が収まり、瞼の裏も通常の暗い色に戻る。ラムザがゆっくり目を開くと、状況が理解できた。
全身から白煙を上げ呻き声を上げながらも、両の足で立っている敵らしき女性騎士。
敵から五歩ほど離れた距離で、もつれ込むように床に倒れているアデルとマリア。意識がないのか、二人ともぴくりとも動かない。マリアの右肩には短剣が深く刺さっており、そこから血が流れ出ていた。
女性騎士の斜め後方ではイリアがアルガスに白魔法をかけており、隣にいるイゴールはロッドを女性に向けて差し出していた。彼は肩で息をしながらも、すがるような視線をディリータとラムザに送る。ラムザは瞬時にその意味を察した。
「ディリータ!」
「わかってる!」
ディリータは剣を抜いて、女性騎士に向かう。かろうじて彼の剣を回避した相手は距離をとり、懐から魔法薬の瓶を取り出して一気に飲み干した。瓶を投げ捨てる暇も与えず、ディリータは再度女性に斬りかかっていった。
ディリータが敵の気を惹きつけている間に、ラムザはアデルとマリアのそばに駆け寄った。まず、アデルをかばうように俯せに倒れているマリアに声をかける。返事はない。でも、呼吸はしている。ぐったりと力を失った彼女の体をゆっくりと抱き起こし、外傷を確認する。右肩以外には出血箇所はなかった。幸い、短剣が栓の役割をして出血は少ないようだが、骨まで傷つけている可能性もある。一刻も早い白魔法か医術による治療が必要だった。
「うう…」
仰向けに倒れていたアデルが、小さく声をあげながらも瞼をゆっくりと開く。ぼんやりとした黒い瞳に意思の光が宿ると、彼はがばっと身を起こし「マリアは?!」と叫んだ。これだけ元気なら怪我はないのだろう。ラムザはひとつ安堵しながら、人差し指を唇に当てた。
「大声出さないで。傷にさわる」
マリアの口からか細い呻き声が漏れる。傷の痛みのせいなのか、彼女は顔面に冷や汗を流し、眉間に深い皺を刻んでいる。アデルは「すまん」と小声で謝罪した。
「これから治癒する。僕が白魔法を唱えるから、合図をしたらアデルは一気にこの短剣を抜いてほしい。ためらわず、一息に頼むよ」
「わかった」
ラムザは両手の手袋を取り、息を吸って精神を集中させた。傷口のそばに右手を添え、ゆっくりと一音一音確認するよう呪文を詠唱していく。韻をふみながら、イリアに教わったように、彼は脳裏に五芒星をもつ円陣を描く。ぼんやりとした白い輪郭が徐々に輝きを増し、魔法陣全体が白銀の光を持った瞬間、彼はアデルに目で合図を送った。
アデルは指示通り一気に短剣を引き抜いた。栓がなくなったことで激しく出血する傷口をラムザは両手で押さえつける。そして、力ある言葉を紡ぎ出した。
「清らかなる生命の風よ、天空に舞い 邪悪なる傷を癒せ! ケアルラ!」
青白いがどこか暖かみのある光がラムザの両手を包み込むように発生し、それらは全てマリアの傷口へと注がれていった。光が消え去ると、ラムザは両手を離す。アデルがのぞき込むと、傷口から新しい出血はなく、彼女のべージュ色のアンダーシャツに紅い流血の跡を残すだけだった。また、顔色もよくなり、苦痛を訴えていた眉間の深い皺は消えていた。
「傷口は塞いだけど完全には治ってないから。無理しないよう見張ってて」
ラムザは手布で血まみれの両手を綺麗に拭うと、左袖を引きちぎって包帯代わりにマリアの右肩に巻き付ける。アデルは悄然とうなだれた。
「わかった。すまん、ラムザ。マリアがケガをしたのは俺のミスだ」
ラムザは頭を振る。
「それは違うよ。僕は気づかなかった。そして、それでもいいと思っていた。これは、その甘さが引き起こしたことだから。悪いのは僕だ」
ラムザは唇を噛みしめ、右拳を強く握りしめていた。彼の厳しい表情と、微妙にずれた返事にアデルは怪訝に思う。だが、問いただす前にラムザは立ち上がって長弓を手に取った。
「ディリータの援護にむかう。マリアのことは任せたよ」
そう言って彼は戦場へとかけ出す。屋内を満たすディリータと女性との剣戟の音に、ラムザが矢を放つ風切り音が加わる。それらの音を聞きながら、アデルは清潔な布でマリアの顔を拭き、乱れた亜麻色の髪を撫でる。彼女はまだ意識を取り戻さない。口に出したところで、彼女に届くはずもない。それでも、今、伝えたい言葉をアデルは口に出した。
「ごめんな。それから、ありがとう」