第八章 束の間の休息(4)
ディリータは暇をもてあましていた。
「今日は仕事をしなくてもいいよ。晩餐まで部屋で休んでいなさい」というマーサの言葉に甘える形で自室に戻ったのだが、するべきことがないというのは彼にとって落ち着かない事だった。
暇つぶしになるような物があれば一時の退屈しのぎにはなるのだろうが、あいにくと、ここには服などの日常をおくるのに必要なだけの私物を残しているだけだ。娯楽の種になりそうなものは、全て士官アカデミー寄宿舎の自室の中。
結局、彼が思いついた暇つぶしと言えば、ベットに寝ころぶ事だけだった。
だが、いい加減飽きてきた。なにより、何の変哲もない漆喰の天井を見るのも、おもしろみがない。
ディリータは体を起こし、暇つぶしのネタを求めて部屋を出た。
まず、はす向かいにある妹の部屋に向かった。
「ティータ、入るぞ」
ドアノブを押すと同時に、けたたましい二種類の悲鳴が耳に飛び込んでくる。
「だめぇ!」
「いきなり入って来るなぁ!」
ディリータは反射的に扉を閉めた。悲鳴をあげられた原因がわからず、あっけにとられていると、扉が少し開いた。隙間からアルマが顔を覗かせる。
「ディリータ。妹とはいえ、女の子の部屋に入るときはもうちょっと気を遣いなさいよ」
険のある声音でアルマは叱りつける。もっともな説教に、ディリータは恐縮した。
ティータもアルマも今年で十六歳になる。二人とも多感な年頃だ。兄とはいえ、いきなり男が部屋に入ったら困るような時もあるだろう。
「わるい、俺が軽率でした」
「分かればよろしい。で、なんの用事?」
「暇だからティータの顔でも見ようかと」
「残念でした。ティータは、いま、とてもとても忙しいの。というわけだから、あとでね」
アルマは早口で告げると、扉をぱたんと閉めた。けんもほろろに断られ、彼は立ちつくす。十秒ほど待っても、扉が開く気配はない。ディリータは無言でその場を立ち去った。
次に、ディリータが向かったのはラムザの部屋だった。
「ラムザ、いるか?」
親しき仲にも礼儀ありという先程の教訓を生かし、彼はノックしてから数秒待った。だが、反応がない。三回ほどノックを繰り返したが、返ってくるのは沈黙だけだった。ドアノブを少し押してみると、小さな音を立てて扉は開く。鍵はかけていないようだ。ならば、入室しても文句は言われないだろう。
「入るぞ、ラムザ」
一応断りを入れて、広い部屋に足を踏み入れる。
部屋の主は、背を向ける形で机に向かっていた。背筋を伸ばして椅子に腰掛け、正面を見据えている。ディリータは眉をひそめた。ラムザの視線の先−机の正面はただの石造りの壁だったからだ。しかも、背後にいる自分の存在に気づかない。
彼は、また何か考え込んでいるのだろうか。ディリータは軽く息を吐き、そして新鮮な空気を吸い込んだ。
「ラムザ!」
「うわぁ!」
ラムザはびくっと両肩を跳ね上げて、振り返る。ディリータの姿を確認すると、彼は「ディリータか、驚かさないでくれよ」と抗議した。
「何度もノックしたし、部屋に入るときはきちんと声をかけたぞ」
「あれ? そうなの?」
事実だからディリータは無言で頷く。
ラムザは気まずそうに左手で髪の毛をかき回し、気づかなかったと呟いた。考え事をすると、己の思考に没頭し周りが見えなくなるというのは彼の癖だ。いつものことなので、ディリータは肩をすくめるにとどめた。それよりも、ラムザが何を悩んでいるか、その内容の方がよほど気になる。
「何しているんだ?」
「あ、うん、久しぶりに時間ができたから絵でも描こうかと思って…」
「ほう」
確かに、机にはスケッチブックとデッサン用の木炭が転がっていた。ディリータは白いキャンパスを横からのぞき込み、そして、怪訝に思った。
そこに描かれていたのは、無秩序に黒く塗りつぶした楕円形がいくつかと、それらを結ぶべく縦横無尽に走らせた木炭の太くて濃い線だった。絵画にそれほど詳しくはないが、記憶にある限りでは一度も見たこともない画風だ。
ディリータは、ラムザの表情を伺う。彼は当惑の表情で自分の作品を凝視していた。
気まずい沈黙が二人の間に漂った。
「この一年間で、前衛絵画に転向したのか?」
「ち、違うよ!」
ラムザは苦笑しながらそのページを破り取り、丸めてくず箱に投げ捨てた。
「おかしいなぁ。最初は海を描こうとしたんだけどな」
「考え事をしながら、描くからだろう」
目を点にして、ラムザはディリータを見つめる。
「違うのか?」
ラムザは俯いた。何か言いかけるが、ためらうように口ごもる。
だが、ディリータには確信があった。彼は生来隠し事ができない。しようと努力しても、成功したためしがない。暫く待っていれば認めるはずだ。今回もその例に漏れることはなかった。
「…いや、当たりだ」
ラムザは盛大なため息をつく。
「どうして、ディリータはそう聡いのかな。僕は鈍いのに。なんか不公平だ」
彼の抗議は的はずれだ、とディリータは感じた。なぜなら…
「俺が聡いんじゃない。お前の心理状態がわかりやすいからだよ」
「そうかな?」
「ああ。すぐ表に出る。単純明快だ」
ディリータが断言すると、ラムザは机に顔を埋め、呻き声を上げた。
彼にとっては不満なのだろう。だが、ディリータにしてみれば、羨ましい限りだった。
良くも悪くも根が正直な彼には、嘘や偽りがない。親交を結んだ者はその人柄を評価し、信頼を寄せる。そして、慢心することなく、彼は最大限それに応えようとする。
無条件で人と人との間に信頼関係を築けるという彼最大の魅力の所以が、その素直さなのだが、当人はいまだに分かっていないようだ。
いや、ひょっとしたら、永遠に気づかないかもしれない。
その鈍さこそが、ラムザたる所以だから―――。
「なにニヤニヤしているんだ? ディリータ」
顔を上げたラムザが咎めてくる。いつの間にか笑っていたらしい。ディリータは表情を改めた。そして、本来聞きたかった話題を振る。
「ところで、何を考えていたんだ?」
「先に僕の質問に答えてほしいな」
「残念だが、お前に言える事じゃないよ」
「そう。じゃあ、僕も言わない」
ラムザはふくれっ面でそっぽをむく。拗ねているようだ。だが、能面のような無表情で考え込んでいるよりは数倍いい。ディリータは安堵した。そして、彼の機嫌を直す方法を脳内で模索する。だが、妙案を思いつく前に、扉をノックする音によって思考は中断された。両開きの扉から現れたのは、給仕係のメイドだった。
「ラムザ様、準備が整いましたので食堂へいらして下さい。あ、ディリータもこちらにいたのですか。あんたもだよ」
「わかりました」
「はい」
メイドが立ち去ると、ラムザは机の上を片付け始めた。引き出しに木炭とスケッチブックを入れ、鍵をかける。親指の爪ほどの小さな鍵を、彼は分厚い畏国語辞典の一ページに挟んだ。
「これでよし、と。行こうか」
「ああ」
ディリータは扉へと足を向ける。ラムザが早足で駆け寄ってきて、すれ違う瞬間、囁いた。
「心配してくれて、ありがとう」
ディリータの足が止まる。
ラムザはそのまま部屋を出て行った。一人残されたディリータは口元を綻ばせ、笑みの形を作った。
***
案内された食堂には、晩餐に出席すると聞いていた人達が全員揃っていた。ホストであるザルバッグ。同席しているアルマとティータ。そして、招待客であるアデル、イゴール、マリア、イリア。彼らはそれぞれ席に着いていて、食前の茶を楽しんでいるようだった。
「遅れて申し訳ありません」
ラムザが戸口でザルバッグに謝罪する。ザルバッグは鷹揚に笑った。
「そうなんでも謝る必要はないんだぞ、ラムザ。急におまえ達をここに呼んだのはオレだし、なかなか仕事が終わらなくて、かなりの時間を待たせたのもオレのせいだからな」
ラムザは応とも否とも答えなかった。無言でザルバッグの右正面の席に着く。遅れてディリータも唯一の空席、ザルバッグの左正面に着席した。すぐさま、給仕係のメイド達がお茶を淹れてくれた。
カップから立ちのぼる清々しい香り。ディリータはカップを手に取り口に含んだ。さっぱりとした喉ごしで、紅茶独特の苦みがあまりない。
「なかなか美味しい茶だろう? ディリータ」
ザルバッグがにこやかに話しかけてくる。
「は、はい。飲みやすくて、食前にぴったりですね」
「そうだろう。今日晩餐をするといったら、茶にうるさい友人がくれたんだ。『食前にはこれが一番だ』といってな。茶の葉と一緒に、大量の未決済書類まで押しつけられたのには参ったが…」
「ザルバッグ兄さん、忙しかったの? ご無理を言ったかしら、わたし」
アルマは悄然とうなだれる。ザルバッグはゆるゆると頭を振った。
「いや、あれはエバンスなりの嫌味だ。書類の内容はオレ以外でも決済出来るものばかりだった。だから、押しつけ返して、茶の葉だけを貰おうとしたんだ。そしたら、あいつ、烈火のように怒ってなぁ。宥めるのに時間がかかった」
ディリータの脳裏に闘技場での出来事がよぎる。
ザルバッグが闘技場を逃げるように出ていった直後に、鬼の形相でどなりこんできた赤毛の騎士。彼がエバンスという人物なのだろう。ディリータは、ザルバッグが見習い騎士向けの戦闘服を着用していた理由を、『逃亡用の服』という意味をようやく理解できた。
隣の席にいるマリアに視線を向けると、彼女はかすかに含み笑いを浮かべていた。
「まあ、オレの話は置いておこう。今日の主役はラムザ達だ。おまえ達の武勇伝を、ゆっくり食事をしながら話してくれ」
ザルバッグのその一言で、晩餐は始まった。
最初は、ザルバッグの問いにラムザかディリータが答えるというぎこちない会話だったが、やがて話し好きのマリアとアデルが口を出し、そのまま二人が会話の主導権を握った。彼らは、出される食事を綺麗に平らげながら、イグーロスを離れていた間にあった出来事をほぼ全部語った。
スウィージの森で遭遇したモンスターとの戦い。
ドーターの市場の賑やかさ。豊かさ。一方で、スラム街に慢性する貧困という影。
スラム街での骸旅団の待ち伏せ攻撃。ドゾフという一風変わった元骸旅団団員との交流。
湖の畔にあった骸旅団のアジトへの奇襲攻撃。骸旅団団長・ウィーグラフとの出会い。『卑怯な手段は使わない』という主義主張。
「やはり、侯爵誘拐はウィーグラフの真意ではなかったか」
「はい。僕には、彼が嘘をついているようには思えませんでした」
ザルバッグの呟きに、ラムザが静かに答える。
「となると、誰かが侯爵誘拐をそそのかしたのか。いったい誰だろうな。詳しい調査をしてみる必要があるかもしれない」
「イリア。顔色が悪いけど、大丈夫?」
マリアの言葉に、食卓を囲む全員の視線が黒髪の少女に集中する。蝋燭とランプの明かりでは判断しにくいが、白い顔が普段よりも青白いように思えた。彼女の皿には、メインディッシュの子兎の香草焼きが残っている。運ばれてかなりの時間がたっているのに、ほとんど手をつけていないようだった。
「食が進んでいないようだが、具合悪いのか?」
イゴールの質問に、イリアは首を横にふるばかり。マリアが彼女の額に手をあて「熱はないわね」とつぶやく。
「口に合わないか?」
「い、いえ。そんなことないです、閣下。とても美味しいです!」
ザルバッグの問いにイリアは狼狽し、目にとまった杯を手に取り、一気に中身を飲み干す。その直後、めざましい変化が彼女の顔に表れた。白から赤へと紅潮し、再び白へと戻っていく。めまぐるしく変わる顔色に一同があっけにとられていると、彼女は小さな呻き声を上げてテーブルにうつぶせに倒れ込んだ。すーすーと安らかな寝息が口から漏れる。
アデルは彼女が飲み干したカップの中身を嗅いで、得心した。
「これ、ワインだ。一滴も飲めないからな、イリアは」
「そうなのか。すまないことをしたな」
イゴールは上着を脱いで彼女の肩にかける。マリアが「なかなか紳士じゃない」とからかう。彼は口を半開きにしたが、結局はなにも言わなかった。
ザルバッグはメイド達に四人分の部屋を用意するよう命じた。
「馬車での移動は彼女に辛いだろう。今夜はここに泊まっていきなさい。翌朝城まで送らせる」
「…はい」
「さて、オレはまだするべき事があるので先に失礼する。今日は実に楽しかった。また、一緒に食事でもしよう」
ザルバッグはそう言って席を立つ。イリア以外の全員が見送る中、扉前で彼は足をとめ、振り返った。
「重要なことを言うのを忘れていた。ラムザ、アルガス・サダルファスという者を知っているな?」
「はい。彼がなにか?」
「侯爵救助を手助けしてくれた礼に、おまえ達の作戦を手伝いたいと先日申し出てきた。オレの権限で、おまえ達第三班のメンバーとして参戦することを許可している。明日、出発前に城にいる彼を迎えに行ってやってくれ」
「わかりました」
ラムザが頷くのを確認してから、ザルバッグは退出していった。入れ替わりにメイドが現れ、部屋の準備が出来たことを告げる。イゴールがイリアの体を抱き上げ、マリアが付き添い、案内するメイドの後に続いた。
「アルガスも参加するのかぁ。にしても、あいつが晩餐に招待されていないのは意外だった。将軍と会えるとか言って飛んできそうな感じだけど」
嫌味口調でアデルが言う。彼の疑問に答えたのはアルマだった。
「声はかけたけど断られたって、兄さんが言ってました」
「珍しいこともあるものだ。明日は雨かな」
「雨だと移動が厳しくなるからイヤだな」
「真面目に返すなよ、ディリータ。…って、お前も珍しいと思っているんだな」
ディリータは沈黙でもって問いに答える。アデルは我が意を得たとばかりに小さく笑い、ラムザは困ったように二人の顔を見比べていた。
同時刻、イグーロス城の一角。
くしゅん。
アルガスはむずむずする鼻をこすって、見開いていた書物のページを閉じた。彼は薄ら笑いを浮かべてベットに横になり、そのまま寝息を立て始めた。
サイドテーブルに残されたのは、一冊の本。
分厚くて角が金属で補強してある、書物というよりは辞典のような代物。
“貴族名鑑”と、金文字でタイトルが書かれてあった。