第八章 束の間の休息(2)
わずが半日で、訓練の方向性は修正された。昼食を兼ねた話し合いでマリアの意見がとおり、それぞれが得意とする技を磨くことになった。
あからさまに喜んだのはアデルとマリアだった。二人は拷問から解放されたかのように歓声を上げ、昼食後、好きな場所に散らばっていった。
イリアは落ち込んでいた。自分の教え方が悪いと思っているようだった。そんなことないよ、とラムザがフォローに回る。下手にフォローに走ったせいか、彼は引き続きイリアについて白魔法を修練することになった。
イゴールはやる気がない人に教えても無駄だと思ったのだろう。特に不服を示さず、初日の午後以降、長弓と魔法の修練に明け暮れていた。
ディリータは、午前はイゴールについて弓の修練をし、午後はアデルと組み手をしたり、マリアや、魔法修練を終えたラムザと剣の稽古をしていた。
そして、迎えた訓練最終日。
午後からは、休息を兼ねた自由行動ということになった。
自由行動とはいっても街に遊びに行く金も時間も惜しいディリータは、闘技場で汗を流していた。場内にはマリアもいて、自然と手合わせするという形になった。
「なかなか頑張っているな、ディリータ」
マリアとの剣の稽古が一段落したときだった。背後から聞き覚えのある声が、そう話しかける。ディリータは振り返ると、すぐさま相手に対し敬意を表するため一礼した。
「…そんなことしなくてもいいんだぞ」
不満そうな声で、頭を上げるよう言われる。だが、ディリータは動かなかった。
「いえ、そう言うわけにはいきません」
「せめて、今だけはやめてくれ。隣のお嬢さんも。ここにオレがいるのがばれると困るんだ」
どこか狼狽した感じだった。毅然としている彼に似つかわしくない口調にディリータは頭を上げる。そして、相手の着ている服をみて怪訝に思った。普段まとっている黒地に金糸をあしらった軍服ではなく、騎士見習いに支給される鈍色の戦闘服だった。腰に帯びている騎士剣が不釣り合いな事、この上ない。
「ザルバッグ様、どうされたのですか。その格好は」
「脱走用の服だ。木は森に隠せと言う。騎士は騎士が集まる場所に逃げ込むのが最善だろう?」
「はあ…」
ディリータは曖昧な返事をする。正直、真新しい戦闘服を着ているが故にかえって目立つ存在となっていると思われたのだが、指摘するのは憚れた。
ザルバッグは、当惑の表情をしているマリアに視線を向ける。
「こちらの女子候補生は、同じ班の者か?」
「…はい、マリア・ベトナンシュと申します。閣下」
「そうか、二人が世話になっているな。これからもよろしく頼む」
ザルバッグは右手をマリアに差し出す。彼女は驚きで目を見開き、そして、しっかりと握手を交わした。
「あと三名班員がいると聞いていたが、彼らはどうしたのだ? それに、ラムザは?」
「弓術鍛錬場か、裏庭か、図書館にいるはずです」
闘技場内にいる騎士見習い達の視線がザルバッグに集まり始めた。さざ波のように人々が囁きあう。
「やばいな。では、おまえ達に伝言を頼むとしよう。今夜、おまえ達の武勇伝を聞くために家で晩餐を催す。ラムザ以下第三班の班員は全員出席するように。以上だ」
「はい?」
「一六:〇〇に城の正門前に迎えの馬車を寄越す。では、また後ほどな」
ザルバッグは早口でそう言うと、裏口から姿を消した。
直後、ザルバッグはどこだぁ!と赤毛の騎士が闘技場に怒鳴り込んでくる。鋭い眼光で場内を見渡し、呼び捨てにした人物がいないことを確認すると、騒がせてすまなかったと言って立ち去った。
突風のような出来事だった。候補生たちは互いに顔を見合わせる。
「晩餐? 家って、まさか…」
マリアが呆然と呟く。ディリータは彼女に頷いて見せた。
「間違いなく、ベオルブ邸だろうな」
数分後、驚愕から脱した二人は手分けして残りのメンバーを探すことにした。
迎えが来るという16時まであと一時間ほどしかなかった―――。
マリアは弓術鍛錬場に向かった。数人の騎士達に混じって、イゴールのみならずアデルまで長弓の修練をしているのを見て、マリアは仰天した。
「アデルは弓扱えないんじゃなかったの?」
「それが、イゴールの長弓だと的に当たるんだよ」
確かに、アデルの両手にあるのはイゴールの弓だった。背丈ほどの大きさがあり、並外れた筋力がないと引く事さえかなわないと思われる強弓。
彼は易々と矢をつがえ、狙いを定めて放つ。的の中央を見事に射抜いていた。
「俺の弓だったら使えるとは、変に器用なやつだな。お前は…」
イゴールは疲弊した声で呟く。マリアは説明を求めた。
「イゴールの弓がいいからじゃないの?」
「違う。俺の長弓は自分用に調整している。他人がそう易々と使えないようにしているんだ。実際興味に駆られたディリータに引かせてみたが、半ばで諦めた。誰にでも扱えるはずの自動弓だとダメなくせに、俺の長弓だと使える。どういうことだ?」
「どういう事だと言われてもなぁ。俺にもわからん」
アデルはあっけらかんと答え、持ち主に弓を返した。イゴールは無言で受け取った。
「ところで、何か用か? 剣の稽古にいってたんじゃないのか?」
アデルが用向きを尋ねてくる。マリアは二人を修練場の外へと連れだし、先程闘技場であった一連の出来事を話した。
「命令違反の成果をベオルブ邸で報告するのか? もし、晩餐の席に軍師がいたら、俺たちどうなるんだ?」
アデルはマリアが感じ取っていた不安そのものを口に出す。
対するイゴールは、長い沈黙の後一言だけ感想を漏らした。
「…軍師と違い、お茶目な方だな」
裏庭の木陰で昼寝をすると言っていたのに、ラムザの姿はなかった。ディリータは彼を捜すことをひとまず留置し、イグーロス城の東の塔にある図書館へと足を向ける。閲覧許可を得たイリアが、朝からそこに籠もっているはずだった。
図書館内は、ひんやりとした空気に古書の匂いが混じっていた。ディリータは受付にいる女性に尋ねた。
「書物の山に埋もれて本を読む黒髪の女の子は、どこですか?」
女性は微笑みながら、二階の閲覧室にいたわよ、と答える。
実際行ってみると、口に出したとおりの状況下になっていた。彼女は、端の席に座り厚さ十センはある書物を熱心に読んでいる。周りには、大小様々な十数冊の書物が、絶妙なバランスの元積み上げられていた。
「イリア、面白い命令を受けたぞ」
「…今いいところなのよ。もうちょっと待って」
気乗りしない返事が返ってくる。ディリータはいたずら心で、命令の内容を伝えた。
「俺たち第三班に出頭命令がきた。あと三十分で、ベオルブ邸から迎えの馬車が来るぞ」
「…はい?」
ようやくイリアは書物から目を離した。夢見るような瞳でディリータを見つめる。
どうやら、書物の世界から現実への切り替えがうまくいってないらしい。ディリータは再度同じ言葉を繰り返した。
「俺たち第三班に出頭命令。あと三十分でベオルブ邸から迎えの馬車が来るぞ」
イリアは驚愕の声を上げながら、椅子から立ち上がる。急激な振動が机全体を揺らし、十数冊の書物の山はディリータの足下付近に崩れ落ちた。
「危ないな。書物の山に埋もれて骨折なんて、嫌だぞ」
落下した書物を拾い上げ、机の上にきちんと載せる。イリアは軽い恐慌状態のようで、第一級機密文書読んだのがばれちゃったのかしら、と剣呑な事を口走る。
「おい、落ち着け、ひとまず外へ出るぞ」
他の閲覧者がいないことを天に感謝しながら、ディリータはイリアを外へを連れ出した。イリアは入り口前で地面にへたり込む。
「あぁ、わたしは軍師の元に連行されるのね」
青ざめた顔で呟く。なにを勘違いしているのかわからないが、発端は自分にある。ディリータは彼女が気の毒になり、素直に謝罪した。
「いや、悪かった。実は出頭命令はウソだ」
「えっ!」
「でも、あと三十分ほどでベオルブ邸から迎えの馬車が来るのは本当だ。俺たち全員を晩餐に招待したいんだとよ」
「晩餐! …ああ、審判前の最後の晩餐なのね」
彼女の頭では、あらぬ方向へと話が飛躍しているようだ。
誤解を解くのに、ディリータは迎えが来るまでの残存時間全てを費やさなければならなかった。
一方、ラムザはイグーロスから徒歩一時間半の距離にある湖の畔にいた。
石で丹念に舗装された登り坂を歩み、湖の中央部分に突き出た崖へと向かう。
色とりどりの野の花が咲き乱れるの崖の突端にあるのは、一つの墓標。乳白色の墓石に刻まれているのは、グレバドス教のシンボルである十字架と弔われた故人の姓名と生没年。ラムザは城下町で購入した花束を墓前に供えた。
「久しぶり、父さん。…一年以上もこれなくてごめん」
暖かい南風が、花束の白い花弁を揺らし、ラムザの前髪を優しく撫でていく。彼には、ここで静かに眠っている父が「忙しかったのだろう、気にするな。それよりも、アカデミーはどうだ?」と尋ねたような気がした。
ラムザは、墓標の前に片膝をつき、アカデミーに入学してからの一年間にあったことを回想する。
入学半月で同級生と喧嘩して、謹慎処分になったこと。その甲斐あって知り合えたアデルとイゴールの二人。初めてできたディリータ以外の友人。
担当教官として選んだジャック教官のこと。ふざけた賭をアデル達に持ちかけ彼らと一緒に馬鹿騒ぎをする反面、教官としての指導は厳しく容赦がなかった。稽古でしかなかった自分の剣術が実戦レベルまでに高まったのは、彼の指導のおかげだった。
同期生として知り合ったマリアとイリア。彼女たちが思いつくいたずらや騒動に振り回された日々。
ラムザは思いつくままに、胸中で亡き父に語った。
だが、回想が初陣以降に至ると彼は言葉を紡ぐのを中断した。
胸にわき上がる、もやもやとしたあまり気持ちのいいものではない感情の渦。右手を左胸にあてて、知っている言葉で相応しい表現方法を探る。自分の鼓動と同調するように呼吸を繰り返すうちに、ある言葉にたどり着いた。
――迷い。
きたる作戦で自分たちに要求されるのは、定められた時刻にアジトを調べ、『敵』がいればその場で全員殲滅する事。
『敵』とは、骸旅団の構成員。
北天騎士団の命令によって、殲滅すべきとされた『敵』。
だけど、彼らは本当に『敵』なのだろうか?
彼らの貴族に対する憤怒、憎悪、怨恨。
それらを全て無視し剣を振り下ろす事が、正義なのだろうか?
「父さん。僕は騎士に向かないかもしれない。軍では命令は絶対的なものだとジャック教官は言った。アカデミーでも命令に忠実であるべきだと教わった。だけど、わからないんだ」
ラムザはすがるような視線を墓標に向ける。
父の叱責がほしかった。内面にある迷いが吹き飛ぶほど厳しいものを。
だが、死者は何も語らない。語る術を持たない。
墓標は、ただそこにあるのみ。死者はそこで、静かに安らかに眠るのみ。
追憶する過程で、心の中に蘇るだけの存在にしかすぎないのだ。
ラムザは小さく吐息し、立ち上がる。
彼は無言で父の墓標を見つめ続けた。
***
学校帰りに「亡き父の冥福を祈る」という名目で、湖に寄り道をする。
アルマとティータにとっては、イグーロスの貴族学校に編入して以来の日課になっていた。
アルマにとっては、この場所は心の羽根をのばせる、くつろぎの場だった。
花嫁学校のつまらない授業からの開放。
貴族の息女達が使う丁寧だが迂遠で舌を噛みそうな言葉遣いを忘れ、気の置けないティータと、邪魔者なしで思う存分話できる、数少ない場所。
父が眠る墓標がある場所だとは分かってはいるが、不謹慎にもここに来ると心弾むのだった。
通い慣れた墓標への道をティータと歩む。隣の彼女の足取りは学校でのそれとは異なり、滑らかで軽やかだった。ここに来るのを楽しみにしているのが自分だけではないという証拠だ。アルマは、ふふ、と小さく笑い声を上げた。
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
「本当に?」
ティータは疑いの眼差しをアルマに向ける。急に笑い出すから不審に思ったのだろうか。それとも、何か悪巧みでもしていると思ったのだろうか。
アルマは軽く右手を左右に振って彼女の懸念を否定する。
「本当になんでもないのよ。早く行きましょう」
「そうね。今日は兄さん達も帰ってくるし、ね」
「ええ」
アルマはティータの言葉に頷いて、少しだけ足の運びを早めた。ティータも遅れまいとついてくる。やがて、もどかしく感じアルマはスカートの裾をたくし上げて坂道を走り出した。
「アルマ! お行儀が悪いわよ!」
屋敷の小うるさいメイド頭のような事を言う。アルマは振り返って反論した。
「ティータまでそんなこと言わないでよ。それよりも、早く来ないと置いていくわよ!」
後ろの方で聞こえた彼女の抗議は無視し、アルマは全力で走った。
弾む息。
足で地を蹴る感触。
空気の流れを体全身で受け止め、背後に流す。
一陣の風になれたようで気持ちよかった。
やがて、並木道の坂道は終わり、視界が開ける。アルマは足を止め、すぐさまスカートの裾を下ろした。突端にある墓標の前で、自分に背を向けるように立つ人がいたからだ。青の上着を羽織り、長い金髪を藍色のリボンで一つに束ねた背の低い少年。腰に帯びた細身の長剣。人物の大半を構成する物は、たった一つを除いて、アルマにとって見覚えのある物だった。
「アルマ、急に走り出すなんて、ひどいわ」
背中から聞こえる息も絶え絶えなティータの声。その声に反応するように、彼はゆっくりと振り返る。妹の目から見ても整っていると思える顔に、驚きの表情を浮かべる。
「アルマ、ティータ、どうしてここに?」
「父さんに会いに来たの」
本当は少しだけ違うんだけど、と胸中でアルマは訂正する。
「そうか。僕もだよ」
人の心を読む術など無い兄は素直に納得し、墓標から離れた。
アルマは息と身だしなみを整えて、乳白色の墓標前で両膝をつく。少し遅れてティータが隣で膝をつき、アルマに視線を向ける。アルマは「学校での愚痴は今日はやめとこうね」と目で彼女に訴える。相手が軽く頷いたのを確認してから、目を閉じた。そして、祈りの言葉を捧げる。
「汝が肉体、地に還るとも、我らは汝を忘れじ。
汝が魂、天に召されようとも、我らは汝を忘れじ。
汝が想い受け継ぎし剣を手に戦う限り、汝は我らと共にありけり」
「アルマ?」
「それは…」
二人分の疑問の声が上がる。
無理もない感想だと言える。本来は、戦場で志半ばに倒れた騎士に手向ける言葉なのだから。だけど、教会の祈りよりも、こちらの言葉の方がアルマは好きだった。なぜならば…。
「父さんの想いが、戦場にいる兄さん達を守ってくれそうだから」
アルマはそう答え、黙祷を捧げた。
ティータも反芻するように、最後の言葉だけを呟く。
ラムザは腰の剣を見遣った。
遠い昔、父から手渡された長剣。
父の想いを受け継ぎし物。
一つの願いを叶えるために手にとった力。
―――胸の内にある迷いの渦が、微かに薄れたような気がした。