磨羯の月に奏でるは、狂詩曲>>Novel>>Starry Heaven

磨羯の月に奏でるは、狂詩曲

 日が地平線に沈み夜の帳が完全に降りるまでの短い間、夕まぐれ時。
 薄闇に包まれた密室で、ひそひそと会話を交わす四つの人影がある。
「課題は、いかにして彼の気を逸らし続けるかだ」
「そうね。前回から一カ月しか経ってないし」
「日が近接しているのも、こういうとき不便だわ」
 複数の人影からため息が漏れる。
 暫しの間、沈思という名の静寂が辺りを満たした。
「こういうのはどうだ?」
 一つの人影が身を乗り出し、熱を帯びた声で具体的内容を語り出す。
 全てを聞き終え、座長役である人影は大きく頷いた。
「悪くないな。それでいこう」
「よっしゃ。別任務に就いているあいつには、隙を見て俺が伝えておくよ」
「くれぐれも気づかれないようにしてよ」
「わかってるよ」
「では、最終確認に移ろう」
「作戦決行日は磨羯の月六日午後三時になります。各自、準備と心構えをお願いします。また、ターゲットに気取られないよう細心の注意を払ってください」
 四つの人影はそれぞれ目交ぜし、そして、ばらばらに解散していった。



 士官アカデミーは、冬至の翌日に当たる磨羯の月一日から十日間の冬期休暇に突入した。
 休暇中は自由行動のみならず親元への帰省が許されているが、帰ろうとするものはガリランド近隣出身のごく少数の者だけだった。ゼルデニア領など遠方出身の者にしてみれば、十日では往路にもならない。それに、吹雪など季節上旅行を困難にする物理的要因も、冬至祭での遊び疲れをゆっくりと癒したいという心理的要因も重なったのだろう。
 ゆえに、冬期休暇中といえども、学内の施設から人の気配が消えることはない。
 それは、ラムザが現在いる場所、静粛な雰囲気に包まれた図書館においても例外ではなかった。
(えっと…「子の曰わく、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。」
 意味は…「先生がいわれた、『学んでは適当な時期におさらいをする、いかにも心嬉しいことだね。なぜなら、そのたびに理解が深まって向上していくのだから。だれか友達が遠い所からも尋ねて来る、いかにも楽しいことだね。なぜなら、同じ道について語り合えるから。人が分かってくれなくても気にかけない、いかにも人格者だね。なぜなら、凡人にはできないことだから』」か)
 青灰色の瞳が向けられているのは、表紙に「論語(RONGO)」とのタイトルの付いた一冊の書物と帳面(ノート)である。士官アカデミー図書館に収蔵されているものではなく、同期生であるアデル・ハルバートンから借りたものだ。
 母親が隣国ロマンダよりももっと遠い国…東洋と呼ばれている国の出身であるためか、彼は国内ではとても希少な東洋伝来の書を、幾つか所持している。
 個人的な興味から侍(SAMURAI)――刀という東方伝来の武器に込められた力を引き出すことの出来るジョブ――について詳しく調べていると、彼はどこからか聞きつけたのか、「侍の原点はこれらの書物に書かれているんだ!」と声高に主張し、そのうち『最も初歩的な書』を貸してくれたのだった。
 ラムザはもう一度最初から本文を黙読し、ふぅと息を吐く。
(簡潔だけど難しい言い回しだな。意訳が記されたノートがないと、よくわからないや)
 一緒に貸してくれた帳面は、アデル自身が記したものらしい。少し乱雑な印象を受ける筆跡で、びっしりと訳が綴られている。ぱらぱらと捲れば、よれた頁、インクの残りや手あかで端が黒ずんでいる頁が目につく。おそらく何十回、いや、何百回と繰り返して読んだのだろう。
 正直、ラムザはアデルの意外な一面を垣間見た気がした。なぜなら、彼が所持するアカデミーのテキストはあまり開かれたことがないせいか、入学して半年以上経過した今でも新品同然だったからだ。
(このノートに注いだ情熱の何割かを振り分けて教養科目をうければ、成績がもっと上がるだろうに)
 人の悪い笑みを微かに唇の端に浮かべ、帳面の頁を先程のものに戻す。次いで、書物のページを捲ろうと…
「ラムザ、大変だぁ!」
 した手が、図書館にあるまじき絶叫によってぴたりと止まった。
 発生源の方に頭を巡らせれば、入り口付近にいるのはディリータである。いつも後ろに流された栗色の髪は乱れており、額に何本も垂れかかっている。また、まるで一時間ほど全力疾走でもしたかのように、肩で荒い息を繰り返していた。
 常と異なる親友の状態に、ラムザの怒りは若干静められた。書物とノートをまとめて持ち、席を立つ。他の閲覧者から向けられる痛い視線を背に浴びて図書館を後にし、連れだって廊下へ出る。
「どうしたんだい?」
 歩きながら小声で尋ねれば、全く想像できない事態がディリータの口から飛び出した。
「イゴールとイリアが喧嘩している」


 椅子に腰掛け、むっつりと押し黙っているイゴール。
 テーブルを挟んでイゴールの正面に座っているにも拘わらず、彼と視線をあわせようとしないイリア。
 二人の周囲を、困惑の色を浮かべたアデルとマリアが囲んでいる。
 ディリータに案内された現場…食堂に駆け込んだラムザを待っていたのは、そんな光景だった。
「何があったんだ?」
 そう問いかければ、
「ラムザ、班長権限を持ち出してもいいからこいつらを何とかしてくれ」
 疲れ切った声でアデルが言い、マリアが「うんうん」と頷く。
「だから、一体何があったんだ。事情を話してくれ」
 ラムザはこの場にいる人達を順々に見つめる。
 当事者の片割れであるイゴールは、貝のように口を固く閉ざしている。
 その隣にいるアデルは、「口を開くのも面倒だ」といわんばかりに露骨なため息をした。
 真横にいるディリータに目で尋ねれば、彼はふるふると首を横に振る。どうやら、説明できるほど詳しく事情を知らないようだ。
 当事者のもう片割れに目を向ければ、青紫の瞳と視線が合うなりぷいっと逸らされた。
 ラムザは最後となった候補生に視線を注ぐ。
「発端は、パウンドケーキだったのよね…」
 酷く遠くを見るような目で、マリアはゆっくりと話し出した。
 彼女の長い話を要約すれば、こうだ。
 冬至祭の前日にあった一件――ラムザにしてみればジャック教官の悪ふざけにしか思えない出来事――のお詫びをするため、マリアはパウンドケーキを焼いた。そして、あの場にいたメンバー全員に振る舞おうとしたのだが、声をかけた時点で…今から三〇分ほど前らしいが…所在が掴めたのはアデルとイゴール、イリアの三名。
『ひとまず分配して食べようぜ。ディリータとラムザの分は、俺があとであいつらの部屋に持って行ってやるからよ』
 アデルの言葉に甘える形で、ラムザとディリータが不在の中、マリア主宰のお茶会が始まった。
 最初は平穏に進行していたらしい。招待された三名はパウンドケーキに舌鼓を打ち、マリアの腕を誉め称えた。主宰である彼女は照れつつもとっておきの香茶を淹れていた。
 和やかな雰囲気にヒビが入ったのは、
『マリアのお菓子は本当に美味しいね。習えば、わたしにもできるかなぁ』
『できるだろう。料理は“余計なこと”をせずに、習った通りにすればうまくいく』
 イリアの呟きに対する、イゴールの含みある答えだった。
『余計って何を指すの?』
『言わずもがな魔法だ。不用意に魔法を使いたがるから、おまえの料理は失敗するんだ』
 イリアの名誉のために説明すれば、彼女の料理の腕は決して悪くない。設備の整った環境で、きちんと分量を量り、一つ一つの手順を守りながら作れば、誰でも「美味しい」と思える料理が作れる腕前だ。しかし、イゴールが指摘したとおり、イリアはなぜか料理に魔法を導入したがる。
 野菜炒めには強い火力が必要だといって、火炎魔法を竈(かまど)に放り込み、材料のみならず竈(かまど)まで吹っ飛ばす。
 長期保存には冷凍が一番といって、凍結魔法で食材どころか調理場まで氷付けにする。
 他にも例を挙げれば、枚挙に暇がない。
 もはや、第五七期生の間で、イリアの料理失敗談を知らぬ者は誰もいなかった。
 そして、彼女が騒動を起こす度に、連帯責任という名の下に班員全員が後片付けをし、班長であるラムザは厳しい叱責を受けるのだった。
『以前はともかく、最近は制御が上手くいくようになったのよ。ケーキの時は焦ってたから失敗したけど』
『………』
『火打ち石を使わなくても火が点けられる。高価な氷室を用意しなくても、真夏に氷が使える。これって素晴らしい事じゃない?』
『………』
『絶えることのない向上心が技術の発展を促し、人の生活を豊かにしていくと思わない?』
『イリア、一つ言ってもいいか?』
『なに?』
『言ってもムダとはおまえのためにある言葉だな』


「そのあとは…まあ、思い出したくもない状況だったわ」
 マリアは深い嘆息する。
「蜘蛛の子を散らすように食堂から人が出てくるから何かと思って覗いてみれば、一触即発状態で睨み合うイリアとイゴール、必死に押しとどめているマリアとアデルの姿だったよ」
 額にかかる前髪を掻き上げつつ、ディリータが言う。
 ラムザは正直困惑した。
 思慮深いイゴールが直截的に仲間を非難する言葉を口に出したという事実は、にわかに信じられない。が、目に角を立てて明後日の方を見つけるイリアを目の当たりにして、嘘だとは到底言えない。
 毎度毎度尻ぬぐいさせられることが、よっぽど腹立たしかったのだろうか?
 でも、毎回謝罪するイリアに「気にするな。もう慣れた」と誰よりも早く慰めるのも、彼なのだが…。
「で、ラムザ。この二人をどうしよう」
 アデルの声がラムザの物思いを断ち切る。彼は少し考え、
「現状において、イリアがイゴールに望むことは何?」
 と尋ねた。
「イゴールに、魔法を使っても美味しい料理が出来ることを理解させる事よ!」
 イリアはびしっと音が聞こえてきそうな勢いで、イゴールの顔を指さす。
「イゴールは?」
「この魔法マニアに、己の所行を反省させることだ」
 陰鬱な表情で、イゴールは呟く。
 ラムザは途方に暮れた。
(どちらの要望も、実現がとても難しい)
 とっさにそう思ったからだ。
 心から申し訳ないと思ったら、イリアは同じ事は決して繰り返さない。その程度のことは、半年以上一緒に教練をうけてきた仲間なら誰でも理解しているはず。それにも関わらず、彼女が料理に魔法を使いたがるのは、利益があるからと考えているからだ。
 実際、イリアが提示した例は悪くない。特に、真夏でも安定した氷の供給が可能という案は、暑さに少々弱いラムザにはとても魅力的に思えた。
 賛同できる一面も確かにあるイリアの考え。
 権限でもって、一方的に、「迷惑だからやめろ」と言われて納得してもらえるとは到底思えない。
 かといって、イゴールの気持ちもよくわかる。毎回叱責を受けるのは、ラムザ自身なのだから。
「試しにイリアが魔法を使って料理をしてみればいいんじゃないか?」
 禁断の扉を開くにも等しい案が提示される。
 ぎょっと視線を向ければ、発言者であるディリータは至極真面目な表情をしていた。
「イリアがそこまで言うなら、実際に見せてもらった方が早い。そして、イリアのものと比較対照するためにイゴールも同じ料理を作ればいい」
「つまり、料理勝負ということだな」
 アデルの言葉に、ディリータが首肯する。直後、
「ふっふっふっふっふ…」
 凄絶な笑みを口の端に浮かべて、ふらりとイリアが立ち上がった。椅子ががたんと床に倒される。
「その勝負受けた! お題目はパウンドケーキよ」
「…承知」
 若干の間を経て、イゴールは呟くように言った。
「………」
 君達、本気か?
 問い質したい気持ちで一杯になったラムザだが、イリアとイゴールは火花を散らしそうな眼光を互いに向けている。また、
「調理で魔法を使用する許可を得ないといけないな」
「ジャック教官に申請をすればいいのかしら?」
 ディリータとマリアは真剣に考えている。そして、
「勝負の日時や場所などは俺に任せておけ!責任持ってセッティングしてやるぜ!!」
 意気揚々とアデルが拳を振り上げる。
 止めようと思っても止まりそうもない。
 奇妙に盛り上がっている同期生達を、ラムザは呆然と眺めていた。


 それから四日後に当たる、磨羯の月十日。
 食堂のある奥まった席に座らされたラムザは、呆気にとられていた。
「お集まりの皆さん、わざわざお越し下さってありがとうございます!」
 アデルの叫びに、食堂に集った三〇名ほどの同期生たちが、大きな歓声が応える。
「ディリータ、彼のあの格好はなんだ?」
 ラムザは傍らで佇立している人物に囁き、前方を見つめる。
 ディリータもそれに倣う。
 二対の瞳が見つめるものは、厨房と食堂とをしきるカウンターの側で観衆を鼓舞するアデルの姿。普段通りの黒っぽい服であるが、鈍い光沢のある生地で裾や襟に金糸の刺繍が施された豪奢な造り。式典などで着用する礼服である。
「ああ、『司会するなら派手な格好が一番だ』と言っていたな」
「司会って…何かのイベントじゃあるまいし」
「当人達はそうは思ってないようだぞ」
 ディリータはくいっと顎を動かす。
 その先にあるのは、これまた華やかな衣装を…青色のパーティドレスを着たマリアである。髪型も衣装に合わせたのだろう。アップに結わえ、青い石のついた髪飾りをつけている。
 衣装に劣らぬ艶やかな笑みを浮かべて、彼女はすっと立ち上がった。
「今料理対決のルールを説明します。挑戦者の二人には、パウンドケーキを作ってもらいます。制限時間は開始より二時間。出来上がった料理は審査員が判定し、より美味しいと宣言した方を勝者とします。なお…」
 長々と続くマリアの説明を左耳から右耳に流しつつ、ラムザは再び囁く。
「ねえ、僕、帰ってもいい?」
「ダメだ。それでは、このイベントの意義が無くなってしまう」
 ディリータがきっぱり否定したのと、
「審査員、ラムザ・ベオルブ!」
 高らかにマリアの宣言が響き渡ったのは、ほぼ同時だった。
「ええええええ! そんな話、聞いていないぞ」
 ラムザの狼狽と焦りを含んだ絶叫は、
「予め言ってなかったから、当然ね」
「挑戦者の二人が『審査員はラムザにしてほしい』と言ったんだ。班長殿、班員に厚く信頼されていてよかったな。」
 マリアとアデルによって、平然と受け流された。ラムザは言葉につまる。
「では、特別オブザーバーを皆様に紹介します。どうぞ、いらしてください」
 内心の感情を表現するのに相応しい言葉を探している間も、口上は続いていく。マリアとアデルは示し合わせたように、食堂の入り口に…戸口付近にいる小さな人影に向かって敬礼する。
 人影が食堂内に歩を進め、影と光の立場が逆転した瞬間。
 ラムザのみならずその場の全員が、直立不動の姿勢をとった。
「よいよい。みな、楽にしなさい。儂は、実戦以外で魔法を使うというから立場上ここにいるだけじゃ」
 マリアが丁重に案内した椅子に腰掛けた白髪の老人――士官アカデミーの最高責任者である学長は穏やかな口調で言った。
「どうして学長が…」
「学長の監督下において、学則第三条十八項の適用除外を認める。そういう条件で許可が下りたんだ」
 呻くような呟きに、ディリータから即座に回答がなされる。
 ちなみに、学則第三条十八項の条文は「戦闘若しくは急迫不正の侵害に対し自己又は他人の権利を防衛するためやむをえない状況以外での魔法の使用は、固く禁ずる」である。
 ラムザを傍らの人物を睨めつけた。
「君が申請しに行ったのか。わざわざ学長まで」
「ああ。ジャック教官と一緒に」
「だったら、僕に審査員が押しつけられるのも知っていた?」
「ああ」
 当然といわんばかりに頷かれ、ラムザは力なく椅子に座り直す。
(イリアの魔法が暴走したらどうするんだ。いや、そもそも、まともなケーキができるのだろうか?黒こげケーキは食べたくないよ)
「では、挑戦者の二人を紹介しましょう!!」
 人知れず零した呟きは、揚々としたアデルの叫びに掻き消された。


「料理開始!」
 気合いの入ったアデルの叫びが食堂内にこだまする。
 同時に、普段着に白いエプロンと三角巾をまいたイゴールとイリアが行動を開始した。
「おぉ、二人とも予め材料の分量を量っていたようです。躊躇いもせずに、ボールにバターをいれ、木べらで混ぜだした」
「少しでも時間を短縮しようとする意図が窺えますね」
「そんなに時間がかかるものなのか?」
「パウンドケーキは焼く時間だけで四五分から五〇分かかります。」
「制限時間の半分も使うことですか」
「ええ、そうです」
「なるほど。お、イゴールはベージュ色の粉を追加しました。一方、イリアは別のボールに卵を割って入れています」
「二人ともかなり作り方を勉強してきたようです。パウンドケーキ作りの基本をきちんと踏まえています」
「ほう!」
「詳しく述べると解説の分を出過ぎることになるので、申せませんが…」
 二人がとった行動に対して、いちいちアデルとマリアが口を挟んでいく。
 懊悩としているラムザにしてみれば煩わしいと感じるほどだが、他の人達は違うらしい。食堂に集まった同期生達はとても熱心に、厨房で動き回る二人を凝視している。
「図書館で調べただけと言っていた割には、イゴールの奴手慣れているな」
 変わらず隣に佇立するディリータが、独り言のように呟く。
 ラムザは仏頂面で黙々と作業をこなすイゴールを見つめ、人気のない場所で料理本を熱読する彼の姿を想像する。
 ―――違和感があまり感じられないのは何故だろう。
 そんな疑問が脳裏をかすめた。


 一時間五十分後。
 ラムザ最大の懸念――石造りのオーブンの温度を調整するという名目で発動されたイリアの火炎魔法が暴発すること――も発生することなく、調理作業はつつがなく終わった。
 彼の面前には全く同じ皿が二枚あり、それぞれに一切れずつパウンドケーキの切れ端が載せられている。両者とも、外はこんがりきつね色、中は綺麗な小麦色をしている。
 制作者の区別はつかない。正確に言えば、わからない。
 出来上がったパウンドケーキを盛りつけたのは、制作者ではなくアデルとマリアである。二人は「公平な審査のために」と主張し、厨房の奥…固い鉄製の壁の向こうにある食料庫で全ての作業を行っていた。
「両者、作品が出そろいました。では、審査に入る前に集金に入ります」
 集金。
 それは、金を集めること。
 意味はわかるが、何故、今、そんな必要がある?
 ラムザは首を傾げ――、
「賭け金はお一人銅貨二枚!勝者となると思う人物名を明言の上、俺…じゃない私まで持ってきてください」
 そのままの姿勢で、硬直した。
「ハルバートン候補生」
 穏やかでありながら無視できない強さが込められた声が発せられる。学長だ。鋭い眼光でもって黒髪の男子候補生を見つめ、二時間もの間固く閉じられていた口が、今、ようやく開かれる。
「儂も賭けてよいかの?」
 その台詞に、ラムザの身体からかっくんと力が抜け落ちる。首のみならず身体まで不均衡に傾き、彼は椅子から転げ落ちた。
「お〜い、大丈夫か?」
 ディリータが身体を屈め、呆然としている友人を心配そうに見つめる。
 カウンターの傍らでは、
「は、はい、もちろんです!」
「そうか。それと、配分して余剰金がでたらアカデミーに寄附という形でいいかの?」
「数十ギルくらいにしかなりませんが…」
「元締めが一人占めしては、遺恨が残るじゃろうよ」
 したたかな駆け引きが繰り広げられていた。


 学長とアデルの交渉は、数分後、学長の全面的勝利で終結した。
 有志による賭け事の集金が終われば、食堂内の空気は騒然から緊迫感へと変わる。
 周囲を取り囲む同期生達の視線が自分に集中するのを、ラムザは感じた。
「では、審査をお願いします」
 アデルの促す声に、ラムザはフォークを手に取った。
 こぼれ落ちそうになるため息を渾身の力で押しとどめ、右の皿から手を付ける事を決める。フォークで切り分け、一口大となったパウンドケーキを口に含んだ。咀嚼すれば、生地はほろほろと口の中で溶けていき、微かな甘さが口内に染みわたっていく。
 ―――甘さ控えめだけど、美味しい。
 内心でそう評価を下し、飲み込んだ。
「次の食べる前に、水を飲んでね」
 マリアが言い、ディリータが水の入ったコップを差し出す。
 ラムザは頷き、受け取ったカップに口を付け、水で最前の味を口内から消し去る。次いで、左の皿に載せられたパウンドケーキを食べる。
「うっ!」
 思わず口から漏れた呻き声は、押さえることは出来なかった。
 たった一度ケーキ生地を噛んだだけで、激烈な塩辛さが口内を満たしていく。多量の塩分は、粘膜を一瞬で枯渇させ、舌を瞬時に痺れさせ、口内のみならず彼の頭上を突き抜けていった。
「う…うぅ…」
「お、おい、どうした?」
 そう声をかけたのは誰だったのか、ラムザには認識できなかった。
 彼の意識は、ぷっつんと糸が切れるように途切れた。


 うっすらと瞼を開けば、見えたのは木製の天井だった。後頭部には柔らかく弾力のあるものが当たっている。瞳だけを左右に動かせば、上掛けや白いシーツに枕などが目に写る。
「気づいたか?」
 耳に馴染んだ声に頭を巡らせば、予想通りディリータがいた。彼はベッドの端に腰掛け、こちらをじっと見ている。日暮れが近いのだろうか。オレンジ色の光の照らし出された横顔は、翳りの色があるように思えた。
 どうしてそんな表情をしているんだ?
 そう尋ねようと思ったのだが、口から出るのは掠れた息のみ。何故か、喉ががらがらに渇いている。不思議に思っていると、
「これ飲めよ」
 木のカップを差し出してくれた。身体を起こして受け取り、カップを傾ける。中身は味付けされていない、ただの井戸水だ。だが、渇ききった喉にはとても美味しい。一気に飲み干し、満足の息を吐いた。
「まだいるか?」
「ううん。もういい。ありがとう」
 ラムザはサイドテーブルにカップを置き、ディリータに疑問の視線を向ける。
「ディリータ、どうしたんだい? 暗そうだけど…」
「覚えてないのか? お前は左の皿…イリアが作ったパウンドケーキを食べた直後、口から泡を吹いて昏倒したんだ」
 ラムザの脳裏に意識を失うまでの記憶が、一気に蘇る。寝乱れた前髪を掻き上げ、苦笑した。
「左のは、イリアだったのか」
「ああ。あいつ、砂糖と塩とを間違えたんだ。意識を失ったお前を見て、真っ青な顔をしていた。『誕生日なのにとんでもないことをしちゃった!』って」
 耳朶に飛び込んできた単語にラムザは訝しみ、親友に怪訝な表情を向ける。
 ディリータは口の端に笑みを乗せた。
「今日は何日だ、ラムザ?」
 小さな子どもに言い聞かせるような声音は、一ヶ月ほど前の自分と全く同じもの。
 ラムザは嘆息した。
「磨羯の月十日。僕の誕生日です。」
「よくできました。」
 頭をポンポンと叩かれる。子ども扱いな振る舞いに、ラムザは頬をふくらませた。
「そんな顔するなよ。しっかし、本当に気づいてなかったんだな。まあ、俺のときと違って大がかりな芝居だったから、無理もないか」
 にやにや笑ってディリータは言う。
「芝居って?」
「だから、イリアとイゴールの喧嘩は八百長だ」
「え!」
 ラムザは目を白黒させる。
 こみ上げてくる笑いを精一杯押さえ込み、ディリータは真相を明かした。
「俺の誕生日から時間があまり経過していないから、お前の意識を逸らさせるために一芝居打ったんだ。喧嘩から料理対決という流れに持っていったのは、ケーキを作る大義名分を得るため。お前に審査員を押しつけたのは…」
「僕に食べさせるため」
「そう言うことだ」
「じゃあ、あの賭け事も芝居なのか?」
「いや、あれはアデルの即興だ。お前の誕生日をダシにして、冬至祭での鬱憤を晴らしたかったんだろうな」
「まあ、いいけど。本当に楽しそうだったし」
 ラムザはくすっと笑う。
 ディリータは自分のクローゼットに歩み寄り、扉を開ける。衣服の影に隠していた包みを二つとりだし、差し出した。
 彼の手にあるのは、二つの紙包み。
 一つは楕円形で、四隅に青いリボンが巻かれている。もう一方は、薄い長方形で、緑の包装紙で包まれている。
「こっちがアルマとティータからの誕生祝い。本当は今朝届けらたんだけど、寮母さんに頼んで保管してもらってたんだ」
 楕円形のものを若干持ち上げて、ディリータは言う。
 受け取って包装を解けば、中には生成り色の毛糸で編まれたマフラーと小さなカードがあった。カードには表に大きな字で「Happy Birthday!」と書いてあり、捲れば名前付でメッセージが記されていた。ラムザは笑みを深めて黙読し、顔を上げる。
「そっちは?」
 疑問のままに尋ねれば、ディリータはラムザの手に押しつけて、ぷいっと視線を逸らした。
「こっちが、俺達第三班全員からのだ」
 予想外の贈り物に、ラムザは目をぱちくりさせた。
「あ…ありがとう。開けてもいいかな?」
「あ、当たり前だ。お前へのプレゼトだ」
 顔を赤らめて喚くディリータに心からの笑みを向けて、包装紙をとる。薄い箱から出てきたのは、革張りの薄い帳面だった。表紙を捲れば、白紙の紙が何枚も閉じられている。
 ラムザは目を見張った。
「スケッチブックじゃないか!」
「アカデミーに入学して以来一度も描いてないだろう?勉強もいいが、息抜きにたまには描けよ。…おまえの絵、俺はいいと思う」
 最後の言葉は、ほとんど消え入りそうな声だった。
 明後日の方を向いたままの親友をじっと見つめ、胸にそれを抱く。
「…ありがとう」
 万感の思いを込めて、彼は言った。

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