夢みたあとで(3)>>間奏>>Zodiac Brave Story

夢みたあとで(3)

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 赤い太陽が山際に沈み、稜線から溢れ出る残照が世界の色を染めていく。
 色を失って透明だった空を、輝くような琥珀色へと。新緑に萌える山野を、燃えるような黄金色へと。
 自然が織りなす色彩の変化を、彼はじっと見つめていた。
 不意に何かの気配を感じ、振り返る。
 しかし、そこに人の姿はなかった。名を知らぬ野草が微かな風を浴びて、細い葉を揺らしているだけだ。
 落胆か、寂しさか、悲しさか。
 彼自身にもよく分からない心の動きによって、ため息が一つ零れた。
 頬に風を感じて、視線を正面に戻す。
 風に波立つ草原。光と影によって陰影がついた高峰。琥珀色から茜色へと変化しつつある空。
 蕩々たる自然を瞳に映し、思考の中を泳ぐ。
 ―――やはり懐かしい感じがする。どこかで見たような…。
 心に浮かんだ感情に従い、地面から腰を浮かして立ち上り、両足を動かす。少し離れた場所に生えている常緑樹から葉を一枚むしり、口にあてる。息をフゥーと吹けば、低い音が鳴った。
 耳に届いた響きは懐かしく、唇に感じた震えは心地いい。
 唇の形を変えて草に息を吹きかければ、高い音が鳴る。続けて鳴らせば音は音階となり、高低強弱を繰り返せば旋律となる。
 彼は心命ずるままに草笛を奏でた。
 最後に発した音がのびやかに響き、風に乗って草原をわたる。
 草を口から離して余韻に耳を傾けていると、背後から控えめな拍手が聞こえた。
「とてもきれいな曲でした」
 本心からそう思っているのだろう、修道女は微笑を浮かべて賛辞を贈っている。彼としては、誰もいないと思ったからこそ無心で吹けたのだ。向けられた暖かみのある瞳がなんだか気恥ずかしい。持っていた葉を捨てる動作に紛らさせて、顔を逸らした。
「草笛がとても上手ですね」
「昔、ある人から教わりました。彼の草笛は素晴らしかった」
 草むらに落ちた葉に視線を固定したまま答えた彼だったが、
「よかった。身体だけでなく記憶も回復してきているのですね」
 安堵する修道女の言葉に顔を上げた。慈愛を湛えた瞳は若干伏せられ、彼の足下に注がれている。つられるように視線を落とし、意味を察した。
 長い間太ももに固定されていた添え木は、もう、ない。今から五日前――意識を取り戻して一ヶ月後にあたる――に、ようやくとれたのだ。
 また、頭部や上半身を覆っていた包帯も外され、食事や着替えなどの日常的なことは自分でできるようになった。手厚い看護をし続けてくれた面前の女性から、外出の許可も下りた。
 以来、彼は、暇さえあれば、体力の回復と足のリハビリを兼ねて修道院付近の山野を歩いている。初日は半時間歩いただけで息切れがしたものだが、毎日地道に繰り返すことによって身体も慣れてきたのか、徐々に歩ける距離は伸び、走ることもできるようになった。
 そして、傷が癒えるとともに、欠落していた記憶も戻りつつある。
 生まれ育った、煉瓦造りの小さな家。馬飼いとしてチョコボの育成・調教を生業としていた父。日々の糧を得るために畑仕事や家事に勤しんでいた母。忙しい両親に代わって面倒を見つづけてきた、一つ年下の妹。
 ―――穏やかで暖かい、幼き記憶。
 九回目の誕生日まであと二ヶ月というある秋の日、飼育していたチョコボが次々と倒れ、全滅した。原因を解明しようとしていた父は高熱を発し、追いかけるように母も倒れた。看病しようと寝室へ入れば「でていけ」と追い出され、食事と水を扉の前に置いても受け取ってもらえることはなかった。扉の向こうから聞こえる呻き声。村の大人に助けを求めても拒絶され、不安に震える妹と身を寄せ合うように居間で過ごした五日間。
 ―――黒死病への感染を防ごうとしていた、両親。
 物音が途絶えた寝室。全身に黒い痣をつくって、事切れていた父と母。見るに堪えない形相をした、死に顔。茫然とした空白の時間。がなり声をあげて侵入してきた村人達。その手に握られた、鍬や鋤。柄で小突かれて家の外に追い出され、問答無用で何本もの松明が家に投げ入れられた。黒い煙を上げて燃え出す家。泣き叫ぶ妹。村人の苛烈な暴力。死の恐怖を感じ、妹の腕をとって逃げ出した。
 ―――根本的な治癒法がない故に起こった、悲劇。
 がむしゃらに走り、やがては疲労でとぼとぼ歩き、暗くなったら互いの体温を確認するように眠った。二回ほどそれを繰り返した後、偶然一人の男性に出会った。
 ―――それが、バルバネス・ベオルブだった。
 彼から紹介された二人の子ども。ラムザとアルマ。一緒にいて飽きない存在。戻ってきた妹の笑顔。初めてできた親友。同じ時間を過ごし、喜怒哀楽をともにしてきた―――。
 過去に想いを馳せれば、鮮明に情景が脳裏に浮かぶ。
 むろん、まだ思い出せない箇所もある。だが、一ヶ月前は名前と年齢しか思い出せなかったことを考慮すれば、目を見張るべき回復だといえるだろう。
 ―――それにしても。
 記憶の回復は修道女の言うとおり喜ばしいことだと、彼も思う。しかし、腑に落ちない点がある。
 それは、記憶の回復の仕方だ。
 この一ヶ月、毎夜夢をみた。夢の中で彼は妹となり、妹の主観で夢は進行していく。そして、目が覚めれば、ふとしたきっかけで、夢の内容に関連する記憶を思い出す。
 夢は過去の経験を描き出すこともあるらしいから、夢が契機となって記憶の回復に繋がることも、不思議ではないのかもしれない。
 だが、それならば、なぜ自身の主観ではなく、妹の主観なのだろうか。妹から伝え聞いたことを想像でもって再現しているとしても、感情移入は自然だし、内容は詳細すぎる。また、彼自身が体験していないと思われる出来事さえ夢みることもあった。
 夢の内容が妹の記憶だと仮定すれば、つじつまは合う。
 しかし、その結論は、新たな疑問を提起する。
 実の肉親とはいえ、妹と自分は別の人間だ。同じ時間を過ごし、同じ出来事を経験しても、感情や思考は個性という膜を通して受けるためにそれぞれ異なるはずだ。全く同じと言うことは、決してあり得ない。
 ――別人格を有する他者の記憶が自己に宿ることなど、ありえるのだろうか?
「ディリータさん」
 控えめな呼びかけが物思いを中断させる。顔を上げれば、修道女は腕を交叉させ、手のひらで肘をさすっていた。
「風が冷たくなってきました。治りかけの身体に無理は禁物です。戻りましょう」
「はい、シスター・アンナ」
 先導する修道女の後ろを数歩の距離を保って歩き、衝動的に振り返る。
 太陽の光はすっかり消え失せ、空は茜色から暗い青色へと変わりつつある。

『ラムザさんの瞳の色って、黄昏時の空と同じですね』
 妹が微笑んでいる。
 あれは、いつだったろうか。そうだ、士官アカデミー入学試験に備えて、ラムザと二人猛勉強していたときだ。夕食の知らせにきた際、不意に、そう呟いたのだ。窓から見える空を見上げ、なるほど、と納得したのを覚えている。
『ティータは詩人だね』
 ラムザの誉め言葉に、妹の笑みが深くなった。

 黄昏がすぎれば、天は闇に包まれ、夜となる。
 人間が休息をとるための時刻。夢にその意識を浸す時間。
 この夢をみつづけていれば、疑問が解けるのだろうか。
 おそらく、夢の終わりは、記憶が完全にもどったとき。
 そのとき、自分はどうなるのだろうか。

 一陣の風が草原を渡り、草を激しく波打つ。
 冷たさを増した風は身体から熱を奪い、胸の中を吹き荒れていった。


***

「やったね、ティータ!」
 ふと気づけば、ベオルブ家の玄関前にいた。
 隣には、満面に笑みを浮かべたアルマがいる。妹への呼びかけなのに、彼女の声はなぜか自分に向けて発せられていた。彼は何気なく手元に目をやって、ぎょっとした。
(このリボンはラムザが使っていた!)
 いつの間に持っていたのだろうか。右手には藍色のリボンが握られている。
「ねぇ、早速つけて学校に行こうよ。後ろで一つに結わえる? それとも、三つ編みにした髪に編み込む?」
「これでいいよ」
 自分ではない自分が喋っている。意識とは別に、身体が勝手に声を発し、リボンを左手首に巻いていく。
「えーっ、それじゃあ誰も気づかないよ!」
「いいの。普段髪を結わえていないのに、いきなりリボンを付けたらクラスのみんなに怪しまれるから」
 "いじめの種にされるかもしれないし。"
 暗く沈んだ声が聞こえた。アルマに向かって喋っていたときよりも直截的で、じかに響いた。
(どうなっているんだ?)
 疑問に応える声はない。それどころか―――
「それはそうかもしれないけど」
「だから、これでいいの。身につけていることに変わりはないから、おまじないとして有効だと思うし」
「ティータがそう言うならいいけど」
 ―――会話が勝手に進んでいく。
「でもね!」
 リボンを蝶々結びに括り終えたアルマが、顔を上げる。いつになく真剣な表情をしている。
「ラムザ兄さんは自分のことに関して呆れるくらい鈍感だから、積極的にアピールしないと絶対気づかないよ!」
 その言葉に、彼は激しく動揺した。
(アピールって、ラムザに何を? どういう意味だ?!)
 声高に叫んでも、応える声はない。外からも内からも。
 ただ、生暖かくてねっとりと粘り気のある感情がどこからか流れ込み、胸の内に溜まっていく。
 泥沼に沈んでいくような感覚に、息が詰まり目が眩んだ。


「逃げなさい!」
 不意に視界が明瞭になる。
 絶叫が耳を打ったのと同時に、乱暴に身体を押し出された。どすんと地面に尻もちをつく。自分ならざる誰かの意思が働き、顔があがる。目に飛び込んできたのは、黒い肌をもつ中年の女性。ラムザとアルマの乳母、マーサ。ベオルブ本邸に引き取られた自分たち兄妹をも慈しんでくれた女性。
 室内に一人残っている彼女は微笑し、扉を閉めた。直後、扉の向こうから、錠が下ろされる音がした。
「マーサ、マーサ!」
 隣で尻もちをついていたアルマが、がばっと身を起こし、扉を何度も叩く。
 だが、扉はびくとも動かない。四隅を金属で補強した木製の扉は、女の子一人の力で押し開けられるほど柔らかくない。
「開けて、開けてよッ!」
 両拳を突き立て、顔を扉に寄せて、アルマが叫ぶ。
「ダメだよ、アルマ」
 耳になじんだより沈痛な妹の声が、響いた。
 アルマが振り向き、こちらを睨んだ。
「何がダメなの、マーサをあそこに残したら危ないよ。ティータは一人で逃げればいい。わたしは助けに行くからッ!」
「アルマが行ってもどうしようもないよ」
「勝手に決めないでよ、なにかできるかもしれないじゃない!」
「なにもできないよ!」
「なんでよ!」
「なにかできるかもしれないって、そんな曖昧なことで現実がどうにかなるなら苦労しないわッ!」
 口から飛び出たその言葉は、彼の胸を抉った。
 面前にいるアルマにも思うところがあったのか、彼女は一瞬目を見張り、次いで、すまなそうに目を伏せた。
「わたし達が戻ったところで、みんなの迷惑になるだけだよ。わたし達、兄さん達と違って戦えない。今のわたし達にできることは、西館に行って、警備の人に事態を知らせ助けを求めることだよ」
「うん」
「だから、いまは逃げよう」
 差し出した手に、アルマの手が重なる。ぎゅっときつく握りしめられた。
「ティータ、さっきはごめん」
「気にしないで」
 "アルマの気持ち、とてもよくわかるから。"
 また、声にならない妹の言葉が、頭に響く。それどころか、元気に働いていた頃の両親の姿が目の前に浮かび、数瞬後には消えた。
(―――!)
 しかし、彼に状況を把握するために熟慮する時間は与えられなかった。
 二人が揃って駆け出そうとした瞬間、狙い澄ましたかのように背後でけたたましい物音がした。振り返った先に見えたのは―――
「ここにいたのか」
 知らない男の人。革鎧を着、左腰には剣を帯びている。その人は、こちらを、次いで隣のアルマをみつめ、口の端に心持ち上げた。獲物を狩るような獣のように、瞳がぎらぎらと光る。
 "違う、警備の人じゃない!!"
「アルマ!」
 握りしめた手を引き、走るように促す。だが、アルマの足は全く動かない。青灰の瞳は零れんばかりに見開かれ、不法侵入者の背後に向けられていた。目を眇めてその場所を凝視し、血だまりの中うつ伏せに倒れている人物をみとめ、身体から体温が消えた。
「いやぁああああ、マーサ!」
 握っていた手が解かれ、アルマが室内に駆け戻ろうとする。その腕を不法侵入者が掴む。アルマが「いたっ」と悲鳴をあげた。
「来い!」
「やだ、放して、早く止血しないとマーサが死んじゃう!」
 外へと連れ出そうとする腕から逃れようと、アルマががむしゃらに暴れる。悲痛な声をあげ、髪を振り乱して、目尻に光るものを浮かべて。
 息を一つ吸うことで全身に力を込めると、不法侵入者に向かって突進し、その腕に絡みついた。衝撃に負けて、不法侵入者の身体が傾き、アルマが拘束から逃れる。地面に転がり落ちた彼女に向かって叫んだ。
「早く―――」
 "逃げて!"
 続きの言葉は、鳩尾を突く拳によって発することができなかった。
 目の前が真っ暗になり、全身から力が抜け落ちた。


「なんて愚かなことを。即刻解放しなさい」
 暗闇の中、びしっと鞭を打つような声が聞こえた。女性のものだ。目をこらすも、闇が広がるばかりで相手の姿は見えない。彼は首を傾げた。
(どこかで聞いたような)
「なにを言うんだ、ミルウーダ!」
 野太い別の声が、脳裏に浮かんだ疑問を解決してくれた。
 その声は、続けて言う。
「堅固なベオルブ邸から脱出できたのも、ここまで追撃の手が及ばなかったのも、この娘がいたからだ。この娘は使える」
「奴ら上流貴族に憐憫の情などありはしないわ。それに、追撃がないのは、総攻撃に備えて戦力を整えているだけよ」
「だからこそ、だ。向こうが戦力を増強している隙に、奴らの手が届かない場所まで逃げるのが得策じゃないか!」
「逃げる? よくそんな恥知らずなことがいえるわね。イグーロス近郊には、負傷した我らの同志がまだいるというのに」
「だから、お優しいミルウーダ補佐官は、これから、北天騎士団の目をかいくぐってイグーロスに向かい、ケガをしたあいつらを保護しに行くのですか? オレとしては、ほうっておいた方がいいと思いますけどね。戦力になるどころか足手まといだし、あいつらが骸騎士団団員だと敵に知らせるようなもんですよ」
「見捨てるわけにはいかない」
「ま、どうぞご自由に。オレらは一足先に拠点に行かせてもらいますよ。重要な戦利品を団長に届けないといけませんからね」
 あざけるような男の言葉を最後に、声は途切れた。


「何故、娘を誘拐した?」
「我々が逃げるためには人質を取らざるをえなかったんだ」
「逃げるだけならば途中で解放することもできたはず。ゴラグロス、まさか、おまえまで…!」
「ギュスタヴと一緒にするのか!」
 また、声が聞こえた。言い争いをしているようだ。
「よく考えてみろ、ウィーグラフ。我々骸騎士団は仲間の大半を失い今も北天騎士団に包囲されている。この窮地を乗り切るためにはまたとない切り札となるぞ。この娘はベオルブ家の令嬢だからな!」
 身体に緊張が走る。
 数秒間、沈黙があった。
「逃げてどうする? いや、どこへ逃げようというのだ? この場から逃れようとも我々は奪われる側…。いいように利用されるだけだ。我々は我々の子供たちのために未来を築かねばならない。同じ苦しみを与えぬためにも。我々の投じた小石は小さな波紋しか起こせぬかもしれんがそれは確実に大きな波となろう。たとえ、ここで朽ち果てようともな!」
「我々に“死ね”と命ずるのか?!」
「ただでは死なぬ。一人でも多くの貴族を道連れに!」
「バカな! 犬死にするだけだ!!」
「いや、ジークデン砦には生き残った仲間がまだいるはずだ。合流すれば、一矢報いることはできよう!」
「すでに、殺られているかも…」
 その呟きを最後に声は聞こえなくなり、長い長い沈黙が暗闇に漂う。
(話は終わったのだろうか)
 彼がそう思った直後、
「敵襲ッ!! 北天騎士団のヤツラだーッ!!」
 絶叫が耳朶を打った。
 その瞬間、目の前に光が差し込み、闇を引き裂いていく。
 薄汚れた室内。石造りの壁に、冷たい木の床。身体に伝わる規則正しい振動。遠ざかっていく複数の靴音。
 閉じられた窓を開け放したように、視界が鮮やかに広がり、音が戻ってくる。
 だが―――
「オレは逃げてやる……。死んでたまるか!」
 誘拐犯の焦燥に駆られた双眸をみた途端、急速に光が萎んだ。入れ替わりに、暗闇が視界を浸食していく。
 "大丈夫、絶対助かる。"
 闇に包まれる直前、祈りのような言葉が響いた。
 "まだチャンスはある。諦めない、絶対に…。"
 左手首に何か暖かいものが宿り、胸に染みわたっていった。


 それから暫く、周囲は闇に包まれていた。
 しかし、最前と異なり、全く何も見えないというわけではない。
 ときおり耳に届くざわめきが、闇を薄めて人影を浮かび上がらせる。
 だが、ざわめきは意味ある言葉としてとらえることはできず、人影は輪郭がぼやけて容貌が分からない。黒色のヴェール越しに世界を眺めているような感覚だ。
 皮膚を刺激する空気は徐々に冷たさを増し、寒さに身震いがする。冷えた両手を袖にくぐらせて暖めようとしても、後ろ手に拘束する縄に阻まれてできなかった。
「………ッ!」
「…………………………!」
「…………………!」
 大声がいくつも聞こえる。だが、なんと言っているか分からない。聴覚が一時的に麻痺したのだろうか。声の振動だけが皮膚で感じられた。
 突然、猛烈な脱力感が全身に襲いかかった。がくんと全身から力が抜け落ち、視界が霞んでいく。瞼が途方もなく重い。抗いがたい疲労感に瞼が完全に降りようとしていたそのとき、
「兄さん! アルガス!」
「ティータ!」
 二種類の声が発した叫びに、意識がはっきりした。視界が明瞭となり、世界に色が戻る。
 首を動かして声がした方角を見遣れば、自分がいる木製の陸橋のすぐ下…直線距離にして数メートル下に、彼自身が立っており、手を差し伸べている。その周りには、ラムザや士官アカデミーで一緒に学んだ仲であるイゴール、アデル、マリア、イリアもいた。
 歓喜が全身を駆けめぐり、疲労感が遙か彼方へと消え失せた。
「兄さんッ!」
 "―――ラムザさん!!"
 続けて言おうとした呼びかけは、
「動くんじゃねぇ!」
 耳許で発せられた怒鳴り声と手首に走った激烈な痛みによって、はばまれた。
 右腕がねじり上げられ、身体が強制的に動かされる。
 陸橋と地面とが接する高台に、鎧を纏った人達が数人いる。その中には、ザルバッグとアルガスがいた。前者は痛みを堪えるような表情をしているのに、後者は薄く笑っている。
「早く退け! さぁ!」
「構わん、やれ!」
 誘拐犯が叫ぶのと同時に、ザルバッグが声を荒げ、彼の隣に控えていたアルガスが動いた。
 ヒュと何かが風を切る音。
 そして、次の瞬間。
 左胸を、灼熱の感触が貫いた。
「え?」
 何が起きたが、一瞬わからなかった。
 "なに…?"
 言葉がでない。
 代わりに熱い何かが喉からこみ上げてくる。吐き出せば、それは赤い色をしていた。なんでこんなものが喉からでるのだろう。
 痛い。身体が痛い。何処が痛いのかよくわからないけど、すごく痛い。
 全身から何かがこぼれ落ちていく。
 視界が急激に横へ流れ、泣きそうな顔をしているラムザが目にとまった。

 "どうして、そんな顔をしているの?"


 唐突に、何の前触れもなく、目前の景色が一変する。
 どこかのバルコニーのようだ。瀟洒な紋様の刻まれた欄干が見える。山頂に引っかかりそうな細い三日月が、黄昏色の空に浮いていた。
 原因は分からないが、なんとなく息苦しい。しこりのようなものが胸に感じられる。
 誰かが近づいてくる気配に振り返れば、いきなりラムザに腕を掴まれた。
『な、なんですか? ラムザさん』
 恐ろしいほど真剣な瞳で凝視され、心臓が激しく拍動する。握られた箇所が、熱い。
『ごめん、なんでもない』
 安堵したような微笑とともに、触れていた手がそっと離れていく。

 "あなたは、ひとの苦しみに敏感だった。"

『ティータ』
『はい?』
『ごめん、なんでもない』
『ラムザさん、さっきから謝ってばかりですね』
『えっ、そうかな?』
『はい』

 "そんなとき、決まって傍にいてくれた。"
 "独りで苦しまないで。"
 "そう言ってくれるようで、とても嬉しかった。"
 "でも、あるとき、気づいた。"

 "あなたの笑顔は、誰が守るの?"

『こんにちは』
 光指す庭園に、出会ったばかりの頃のラムザがいる。日だまりのような笑顔をして。
 "笑うと、とても綺麗だった。思わず見とれてしまうほどに。"
 "だけど―――"
 湖の岬にある、白い墓石。こちらに背を向けて立っている十六歳のラムザが、ゆっくりと振り向く。
『どうしてここに?』
 ―――その横顔に浮かんでいたのは、苦しみを隠すような微笑み。

 "他人の悲しみを自分のものとして受け止めようとする姿勢。"
 "それは、同情からではなく、憐憫からでもない。もちろん、優越感からでもない。"
 "素直で、優しくて、純粋な心を持っているあなただからできること。"
 "表面上は見えない心の傷の深さを、誰よりも知っているからあなただからできること。"
 "ところが、あなたは自分の痛みを隠そうとする。"
 "苦しみを知った人の負担になることを恐れて。"

 "でもね、わたしは、話してくれないことが、悲しかった。何でもない風を装って微笑まれるのが、辛かった。あなたの苦しみを取り除くことができない無力な自分が、悔しかった。"
 "だから、あの紐を作った。"
 "あなたの力になれることを願って、あなたの苦しみがなくなることを祈って。"
 "内心の緊張を必死に押し隠して紐を贈ったとき、あなたは最初戸惑っていた。何を考えていたのか、分からない。でも、言ってくれた。"
 "ありがとう、と。"
 "その言葉が嬉しくてわたしが笑うと、あなたも笑ってくれた。"
 "裏表のない、太陽のような笑顔で。"
 "久しぶりにみたその表情はとても眩しく、どんな宝石よりも貴重なもののように思えた。"
 "そして、分かったの。"
 "わたしが心から笑っていれば、あなたが笑い返してくれることを。"
 "だから―――"


 朦朧としている意識では、意思どおりの表情になるか自信はない。
 それでも、残された力の全てを使って、表情筋を動かした。
 "―――そんな、泣きそうな顔をしないで。"
 "わたしは大丈夫だから。"
 "来てくれて嬉しかったから。"
 "身体は痛いけど、苦しくはないから。"
 "だから、お願い―――
               …笑って――。"


 その言葉を最後に、目が覚めた。
 同時に、彼は夢の終わりをさとった。

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