願わくば、汝にひとときの安らぎを>>Novel>>Starry Heaven

願わくば、汝にひとときの安らぎを

 夜の帳が下り、星月が天を彩る頃。
 貿易都市ドーターの片隅にある<<小熊亭>>の食堂は、星々の輝きにも劣らない明るさと賑やかさに包まれていた。
 暖炉の赤い照り返し、たくさんのランタンの揺れる炎。上出来の食べ物と人の発する熱気のおかげで窓という窓は白く曇り、夜の闇を霞ませる。
 彼は、一人、窓から外の暗がりをみつめていた。襟の高い上衣に頬を埋め、太陽のような金髪を眉の辺りで切りそろえてるから、傍目から見えるのは鋭いながらも憂いを帯びた青灰の瞳のみ。
 どっ、と室内が沸く。背中の向こうの、暖かい光の中で。
 青灰の瞳に影を落としてまつげを伏せると、彼は、ミリ単位の笑みを口の端に乗せた。だが、彼が再び瞼を開いたときには、その笑みは日の出前の夜露のように儚く消え失せていた。
「おぉい、ラムザ。なに辛気くさい顔しているんだよ」
「少しは飲んでいるか…って、全然飲んでいないじゃないか」
 背後から陽気な声が呼びかけ、アルコールに濡れた別の声が、窓辺に置いていたカップの中身を確認して咎めるように言う。ラムザは一つ嘆息し、振り返った。
「こんな苦い物のどこがいいのか、やっぱり僕にはわからないよ」
「苦いからいいんじゃないか。人生、甘いだけじゃないさ」
 濃紺の武闘着を纏った黒髪の青年――アデルが神妙な表情で言う。その隣にいる亜麻色の髪の機工士――ムスタディオが、赤い顔で同調した。
「そうそう。人生苦難があるからこそ、酒が飲みたくなるんだ。ひとときの穏やかさを手に入れるために」
「だな」
 二人の青年は顔を見合わせてニッと笑う。
 窓辺に立っている彼は肯定も否定もせず、また、その表情にも変化がなかった。
 数秒の沈黙を経て、彼は再び視線を窓の向こうに戻す。その態度は、酒が入っている仲間達から距離をとるようにも、自分はひとときの楽しみさえ許されないとでも主張しているようにも見える。少なくとも、アデルには後者のように思えた。
「一人でぼへぇと突っ立っているからおもしろくないんだよ。お前もこっち来いよ」
 片腕を掴み、仲間達が集う大卓へと引っ張り込もうとする。予想どおりというべきか、彼は抵抗した。
「いや、僕はここでいいよ。席が足らないだろうし」
「なに言っているんだよ。とっくの前から空いているよ」
 その指摘にラムザが仲間達が集う大卓を見遣れば、確かに三人分の空席があった。
「イリアとマリア、それにラファは『眠くなっちゃった』と言って、部屋にもどった」
 彼の脳裏に浮かんだ疑問を見透かしたかのように、ムスタディオが言う。
「これでお前の席もできたわけだ。問題なしだな」
「そうそう。たまには一緒に騒ごうぜ」
 青年二人の誘いに対し彼は動こうとはせず、ただ押し黙ったままだ。頑迷ともいえる態度に、二人の口調が揶揄するものからなじるものへと変化した。
「それともなにか? オレ達とは酒が飲めないというのか?」
 彼はゆるゆるとかぶりを振った。
「そういうわけじゃないけど…」
「じゃあ、酔っぱらう仲間達を観察して、その真情を推し量るつもりか?」
「いや、そういうわけでもないけど…」
「じゃあ、どういうわけなんだよ」
 二人の青年はじっと彼を見つめる。逃げやごまかしを一切許さない追求に、彼は渋々と答えた。
「みんな美味しいというけど、僕にはその美味しさがよくわからないから」
 申し訳なさそうに俯くラムザに、二人の青年は噴き出した。
「なぁんだ、そんなことか」
「それなら、ラムザの口にあう酒を探せばいいだけじゃないか」
「伯やベイオウーフさんなら詳しいだろう。さっそく聞いてみようぜ」
 勝手に話をまとめた二人は彼を引っ張り込み、空席の一つへ座らせる。奇しくも、そこは卓を挟んでアグリアスの正面にあたる位置だった。
「伯、ベイオウーフさん。ラムザに合う酒を選んでやってください」
「こう見えてもこいつ結構強いですから、いくらでも試飲させて大丈夫ですよ」
 ムスタディオが頼み、アデルが軽く請け合う。
 樫の円卓を囲んで酒宴を楽しんでいた歴戦の強者共――オルランドゥ伯、ベイオウーフ、レーゼ、アグリアス、メリアドール、弓使いイゴール、マラーク――の瞳に、好奇と興味という光が宿った。
「そんなに強いの? 甘党だから弱いものだと思っていたのに」
「士官アカデミー時代、ブランデー一気飲みでも表情一つ変わることがなかった」
 メリアドールの呟きにイゴールが呆れるような口調で答え、
「ほう、人は見かけによらないということだな」
 ベイオウーフが感嘆しつつ、グラスを傾ける。
「士官アカデミー時代って、十五か十六だよな?」
「入学して一箇月経った頃だから、十五歳だ。他のメンバーは全員泥酔していたのに、こいつ一人だけがけろっとしていた」
「相当なものだな」
 マラークとアデルがひそひそ声で会話を交わす。
「赤ワインに蜂蜜とレモンとお湯を入れたホットパンチならいけるんじゃないかしら。甘めだし、飲みやすいし。アグリアス、そう思わない?」
 首を傾げて思考を凝らしていたレーゼが、話を振る。少しぼんやりしていたアグリアスは、とっさに「ああ、そうかもな」と答えた。
「じゃあ、私作ってくるわ」
 かなりの酒精が入っているにもかかわらず常と変わらない軽やかな動きで、レーゼは厨房へと姿を消した。続けて、ベイオウーフが席を立った。
「オレも自慢の一品を作ってくる」
 彼女の後を追うように行動するベイオウーフに、ムスタディオが揶揄を飛ばした。
「二人の世界にトリップしないで、ちゃんと戻ってきてくださいよ〜」
 複数の口から失笑が漏れる。
 当の本人は、意地の悪い笑みを浮かべた。
「独り身のひがみは情けないだけだぞ、ムスタディオ」
「ひがみじゃありませんよ。どこそこ構わずレーゼさんにくっついていると、しつこいって嫌われますよ」
「ふっ、ありえないな」
 ムスタディオの嫌味に自信たっぷりな態度で否定して、ベイオウーフも厨房へと姿を消した。しばらく経つと、恋人同士の楽しそうな話し声が聞こえ出す。機工士の青年は肩をすくめた。
「あぁ〜あ、いつもお熱いことで」
「離れ離れになっていた時間が長かったから、一緒にいたいと思うのだろう」
 淡々とした口調でイゴールは言い、手ずから空のカップに酒を注ぐ。ムスタディオは瞼をぱちぱちと数回瞬いた。
「お前がそう言うとは、少し意外だ」
「そうか?」
「ああ。いつもむすっとしているから、恋愛には興味がないと思っていた」
「………」
 イゴールは複雑な表情でグラスの中身を飲み干す。
 彼の真情を理解しているアデル・ラムザの両名は、こみ上げてくる笑いを必死に堪えなければならなかった。
「健全な男子たるもの、女性に興味がないことはあり得ないということだ。ムスタディオ」
 重みのある口調でオルランドゥ伯が諭せば、
「それもそうか」
 と、ムスタディオは納得顔で頷く。彼は最も近いところにある酒瓶を手に取ると、イゴールの空のグラスに酒を注ぎ入れた。
「で、お前の好みのタイプはどんな娘だ? この際だ、全てを吐いてもらおうじゃないか」
「人のことより、自分のことを心配したらどうだ?」
 なみなみと注がれたグラスを見つめ、吐息混じりにイゴールが嫌味を言う。
 対するムスタディオは、ニッと笑った。
「お前もわかってないな。他人の恋愛事は格好の酒のつまみになるんだよ」
 それは、酒宴における、反論の余地が一切ない燦然たる事実である。
 誰かが漏らした失笑が仲間全員の大爆笑に変わるのに要した時間は、わずか数秒だった。


 宴も終盤にはいると、場の方向性・まとまりというものは崩壊していく。一部を除いて酒豪揃いのラムザ隊でも、例外ではない。
 飲み比べをしているかのように、様々な種類の酒瓶を片っ端から空けていくオルランドゥ伯とラムザ。一人黙々とグラスを傾けるイゴール。酔いつぶれて床に寝ているマラーク。赤い顔で骨がないかのようにゆらゆらと首を揺らすメリアドール。レーゼと昔話に興じるベイオウーフ。調子外れな声で歌を歌うアデルと、それに唱和するムスタディオ。
 秩序はとっくの昔に失われ、混沌が顔をもたげている。
 そんな中、引き時を図っていたアグリアスは、抜き足差し足忍び足でその場を抜け出した。人気のいない廊下で、ほっと息を吐く。アルコールをたっぷり含んだ呼気は、ひんやりと冷たい空気になかなか溶けなかった。
(少々飲み過ぎたな)
 自覚すると、身体は正直に酔いを具現化していく。ふらふらと揺れる視界を煩わしく思いつつも、アグリアスは何とか部屋にたどり着いた。まっすぐ寝台に向かい、倒れ込むように横たわる。日向の臭いがするシーツに顔を埋めて目を閉じれば、アルコール作用による睡魔はすぐに彼女を夢の世界へと誘ってくれた。
 このように階下の騒ぎを一切気にせずに睡眠を堪能していたアグリアスだが、不意にがちゃと扉を開く音に意識が急浮上した。枕元に置いていた剣を引き寄せ、身体を起こす。扉がある方へ視線を巡らせば、暗がりの中、一つの人影があった。闇に目が慣れていないせいか、顔がよくわからない。
「誰だ!」
 鋭い誰何(すいか)の声に、相手は応えない。夢遊病者のような足取りでアグリアスがいる寝台へと近づいてくる。彼女が剣を片手に寝台から飛び退くのと、人影が寝台へと倒れ込んだのは、ほぼ同時だった。
 アグリアスは何時でも剣を抜けるように気を配りながら、サイドテーブルに置いてあった蝋燭に火を灯す。蝋燭の灯りに彩られて、不審者が持つ髪が黄金に輝く。アグリアスは目を剥いた。
「ラ、ラムザ!?」
「うぅ…」
 寝台に仰向けに寝ころんだ彼は呻き声を上げるが、再びすーすーと寝息を立て始める。はき出される呼気は、鼻がへそ曲がるのではないかと思うほど酒臭かった。
 アグリアスは室内を見渡す。
 手にある剣は間違いなく自分の物であるし、ベッド脇に置かれた背負い袋も、扉前のハンガー掛けに掛けてあるマントも、自分の物である。間違いなく、ここは自分に割り当てられた部屋だ。ならば、
「部屋をまちがえるほど、泥酔しているのか?」
 応えはない。穏やかというには少し荒い寝息が返ってくるのみである。
 アグリアスは剣を元の位置にもどし、蜂蜜色の髪をかき上げた。
 相手に害意や殺気がないことはわかったが、よりやっかいな事態に陥ったかもしれない。小柄とはいえれっきとした成人男性であるラムザをアグリアス一人で抱えるのは至難の業だから、彼本来の部屋へと連れて行くのは困難である。誰かに助力を求めればいいのだろうが、しんと静まりかえった様子から判断するに、宴は終わり、今頃仲間達は全員泥のように眠っているに違いない。
 この部屋は一人部屋だから、寝台は当然のように一つしかない。彼に占領されては、アグリアスとしては床で寝るしか選択肢がない。折角暖かく柔らかいベッドに寝る機会を得ながら、冷たい床で寝るというのは少々わびしい。
「参ったな。さて、どうしよう」
 腕を組んで首を傾げていると、ふっと、妙案が浮かんだ。
 ラムザの部屋も人数の都合上、一人部屋だったはずだ。そこに自分が移動して寝ればいい。
 早速実践に移そうとしたとき、彼の寝息が変わった。呼吸の間隔が短くなり、半開きの唇からは呻き声が漏れ始める。眉間には、深い縦皺を刻んでいた。
「う……うぅ…」
 あまりにも苦しげな声に、痛ましげな表情に、目尻から流れる一滴の水滴に、アグリアスは耐えきれなくなって彼の両肩を揺さぶった。
「ラムザ、ラムザ、ラムザ。起きなさい、ラムザ!」
 何度目かの呼びかけで、彼の目がうっすらと開く。酒気に濁ったせいか、寝ぼけているせいか、茫洋とした青灰の瞳がちらりとアグリアスをかすめた。
「アグリ…アス…さん? 何故ここに?」
「…あ、あのね、ここは私の」
 部屋だよ、とアグリアスが言う前に、彼は切なげに笑った。
「夢か…。そうだよね、僕の部屋にあなたがいるわけないから。なら、ちょっとくらい、いいよね」
 彼は手を伸ばし、アグリアスの首に両腕を回す。
 思いもがけない行動に、いや、布越しに感じる彼の身体の硬さと熱さに、アグリアスは硬直した。
「恐いんだ」
 彼は額をアグリアスの胸に押しつけて、囁く。吐き出される息も、熱い。
「もう誰も利用しないと決めたのに、結局、僕はみんなを利用した。酒を飲むのがいやだったらイリアのようにさっさと退席すればよかったのに、ずるずると窓辺にいたのは、一人になりたくなかったからなんだ。一人になると、不安と恐怖で押しつぶされてしまいそうで。かといっても、どんちゃん騒ぎに率先して加わる元気もなくて、席が足らないというこじつけであそこにいたんだ。そのうち誰かが声を掛けてくれるのを、待ち望んで。賢しく他人の心情を計算してみんなの同情を引いて依存して…これじゃあ、ダイスダーグ兄さんと同じ…いや、数段タチが悪いよ。こんな僕が、兄さんの前で何を言うべきなのか、どうすればいいのか、わからないんだ」
 背中に縋りつく両腕の力はますます強くなり、密着する彼の身体は瘧(おこり)のように震え出す。
 アグリアスは、考えるよりも行動していた。両腕を背中に回し、震えを…彼の内面の不安を受け止めるように、宥める。震えが若干穏やかになると、彼女は思ったままを告げた。
「人は一人で生きていけるほど、強くない。だから、孤独に怯えるのは当然のことだよ。あのときの、私もそうだった。良かれと思った行動が裏目に出て、オヴェリア様を危険な目に遭わせ、アリシアとラヴィアンと分断されたとき、不安で恐かった。何をしても全てが徒労に終わる、そんな諦念と倦怠感に苛まれていた。そんな私を救ってくれたのが、あなただった。『助ける』。そう、言ってくれたね。自分の部下でもない、騎士でもない、たった数ヶ月間行動を共にしただけのあなたが。謀反の汚名を着せられた自分など、見捨ててもよかったのに。ライオネル聖印騎士団を敵に回せば、教会をも敵に回すことになるのに。あのときはいえなかったけど、とても嬉しかったんだよ。そして、思ったんだ。あなたのことは信じられる、と」
 アグリアスはすっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。涙が流れたそこは、冷たかった。指先でぬぐい取り、手のひらで暖めるように包み込む。戸惑いがちに上げられた青灰の瞳をまっすぐ見つめて、彼女は続きを紡いだ。
「その想いは今も変わらない。私はあなたがあなたである限り、あなたが望む限り、あなたの側にいる。同情からではなく、信じているが故に。だから、あなたは心赴くままに言えばいい。振る舞えばいい。私だけじゃなく皆も、それを望んでいるはずだよ」
 頬にキスを贈り、寝台に優しく寝かしつける。上掛けを掛け、柔らかい金髪を撫でつつ囁いた。
「側にいるから、ゆっくり眠りなさい」
「…はい」
 彼は素直に瞼を閉じる。規則正しい寝息が漏れ出すまで、さほど時間はかからなかった。
 アグリアスはゆっくりと立ち上がる。
 側にいると約束した以上、勝手に部屋を交換する訳にはいかない。何より、精神的に不安定な彼を独りにできるわけがない。ハンガー掛けに掛けてあるマントを毛布にして床で寝よう。そう決めたのだが、一歩を踏み出そうとした途端、何かが彼女の歩みを阻害した。見返れば、正体はすぐに理解できた。彼の指が、アグリアスの服の裾を握りしめているのだ。
 ふりほどこうと思えば、容易くできただろう。だが、アグリアスはできなかった。いや、したくなかったという方が正しいのかもしれない。
「参ったなぁ…。まあ、いいか」
 アグリアスはベッドの空いたスペースに潜り込んだ。横向きにからだを伸ばし、右手を枕に頬杖をつく。正面に見える彼の寝顔を穏やかな気持ちで見つめ、微かに感じる彼の温かさを心地よく思いつつ、ゆっくりと瞼を閉じた。


***


 瞼の奥に優しく穏やかな光が満ちる。
 水面に浮かぶように意識が浮上し、ラムザはゆっくりと瞼を開いた。目に写ったのは、青い布地と朝日のような長い金髪。半身を起こし、寄り添うように寝ている人物の顔を見つめ
「…え?」
 と、自分でも間抜けに思える声を漏らした。
 目をぱちくりさせ、続けてゴシゴシと擦る。それでも、目に写るものに変化はない。ラムザは思わず後ずさった。
「な、な、なぜアグリアスさんが―――いてぇ!」
 勢いは止まらず、ベッドの縁から床へとラムザは転げ落ちた。じんじんと痛む腰をさすっていると、
「おはよう」
 アルトの声が頭上から降ってきた。
「お、おはようございます」
 何とか立ち上がり挨拶を返したものの、まともに相手の顔を見ることができない。 一つのベッドを共有した理由がわからない彼は、パニック寸前である。
 アグリアスさんが僕の部屋に夜這いをかけた? いや、それはあまりにも彼女の人柄にそぐわない。じゃあ、僕が酔った勢いでアグリアスさんを襲った? いや、それも違うな。そんな不埒なことをしたら、速攻、無双稲妻突きで黒こげになるにきまっている。まあ、剣を奪って力で押し倒せばできないこともないだろうけど…って、僕は何を考えているんだ!
 ここまで思うのに要した時間は、わずか一秒だった。
「昨夜のことは、覚えているのか?」
 くすくす笑いながら、アグリアスが尋ねてくる。怒っているわけではないらしい。ラムザは少々落ち着きを取り戻し、ゆっくりと記憶の糸をたぐった。
「さ、昨夜ですか…みんなが酔いつぶれてしまったので宴会は終わり、伯と一緒に毛布を掛けてまわって…その後は部屋に戻ったのですが…」
「ここは、私の部屋だよ」
「え?!」
 ゆっくりと室内を見渡す。アグリアスの私物を次から次へと認めた彼は、顔が強張るのを感じた。同時にある人物に対して猛烈な怒りがこみ上げてくる。念のために、尋ねてみた。
「あ、あの、ここは…廊下の突き当たりの右の部屋ですよね?」
「ああ、その通りだ」
「…あ、あいつっ!」
 頭に血が上るのを止めようとも思わず、激情のままラムザは扉前に移動する。ドアノブに手を掛けた瞬間、ふっと冷静な思考が戻り、彼は振り返った。ベッドで半身を起こしているアグリアスの顔を初めて直視し、恐る恐る口を開く。
「あの、僕、何か失礼なことをしませんでしたか? 部屋に戻ってからの記憶がないのですが…」
「…いや、人が寝ている寝台をいきなり占拠しただけだよ」
 若干の間を経て、アグリアスが答える。
 普段のラムザならその空白の時を気に留めたのだろうが、怒り心頭に発した彼は気づけなかった。
「本当に失礼しました。これから元凶をとっちめてきます」
 深々と頭を下げて、ラムザは部屋を出た。廊下を駆け足で走り抜け、階段を二足飛びで駆け下りる。昨日の酒宴の名残がありありと残っている食堂内をずかずかと進む。事の元凶たる一つ年上の機工士は、毛布にくるまってすやすやと気持ちよさそうに寝ていた。
「起きろ!」
 ラムザは容赦なく毛布をはぎ取って、ムスタディオをたたき起こす。寝起きの目をしばたかせて、「乱暴な起こし方だな」と抗議した。
「ふざけるな、当然の報いだ! わざと部屋を間違えて教えたな!」
「う…大声出さないでくれ…頭に響く…って、まじでアグリアスさんの部屋に行ったのか?」
 答えるのも腹立たしいラムザは、沈黙を保つ。
 肯定と捉えたムスタディオは、好奇心満々の瞳を彼に向けた。
「で、どうだった? 速攻追い出されたのか? それとも、何かいいことがあったのか?」

『私はあなたがあなたである限り、あなたが望む限り、あなたの側にいる』 

 唐突に、その言葉がラムザの脳裏をよぎる。
 優しいアルトでの囁き。
 暖かく柔らかい身体の感触。
 頬に触れた、極上のマシュマロのような唇――。
 顔が真っ赤になっていくのが、ラムザは自分でもはっきりとわかった。
(あれは、夢だ。でも、願望が見せたものにしてはリアルだったな…)
「その反応、やっぱり何かあったな。で、二人っきりで何をしたんだ? なあ、教えてくれよ」
 無遠慮な声が、思考を突き破る。
 黙らせるべく、ラムザはムスタディオに連続拳を放った。怒りで命中率と攻撃力が格段に上がったそれは、全てがムスタディオの顔面にあたった。

- end -

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