傷ついたココロに、花を(1)>>Novel>>Starry Heaven

傷ついたココロに、花を 1

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夢のような生活だ。
アグリアスはそう思う。

朝、愛しい人から起こされ、その人が作った温かい食事をともに食べる。
畑に向かう彼を見送ってから、掃除と洗濯をこなす。

洗濯物を干し終えたら、昼食の支度だ。
チーズとハム、そして手頃な野菜を切り、スライスしたパンに挟む。
お湯を用意している間に、紅茶の葉を選ぶ。
良いお天気ならば、さっぱりとしたストレートティ。
爽やかな香りのハーブティも捨てがたい。
もし彼の好きなミルクがあれば、濃いめのロイヤルティーも良いだろう。
ポットに熱湯を注ぎ入れ、選んだ葉を小瓶に入れる。

大抵、この頃には彼は畑から帰ってくる。
もし帰ってこなくても、家と畑の距離は五百メートルほどだ。
表に出て、大きな声で名を呼べば、すぐ彼は応えてくれる。

昼食を食べ終えたら、少し自由時間ができる。
彼と一緒に畑の手入れを手伝うも良し。
昔取った杵柄で森に行って狩りをするもあるし、ジャムやピクルスなどの保存食を作ることもある。
日暮れ前にしなければいけないこと―――洗濯物を取り込むことと夕飯の下準備を終えることを忘れなければ、問題ない。

予めした準備をしていた夕飯を彼と一緒に作り、一つのテーブルを囲んで食べ、身体を清め、他愛ない話をしながら一つのベッドで共に眠る。

ほんとうに、穏やかで優しい日常だ。
婚姻の契りを交わしたばかりの自分たちにとって、これ以上望む必要はない。
不満なんてあろう筈がない。
そう思うべきなのに…。

「アグリアスさん、どうかしましたか?」
「えっ?」
「何か僕の顔についていますか?」
 こちらの内心を推し量るかのように、ラムザはじっと見つめている。
 アグリアスはとっさにかぶりを振った。
「いや、なんでもないんだ。うん、我ながら今晩のシチューはうまくできた」
「……ええ、とても美味しいです」
 ラムザは微かに笑っているが、青灰の瞳に宿る光は鋭さを失っていない。
(しまった。気づかれただろうか)
 焦りのあまり、クリームシチューの味も、アグリアスにはもはや感じられなかった。
  
新婚生活に不安の影を投げかけているもの。
その正体に気づいたのは、六日前だ。
初めて彼とちぎりを交わした夜、アグリアスが身体の中心から真っ二つに引き裂かれるような激痛に耐えているとき、ラムザが言ったのだ。

『しばらくしたら楽になりますから、我慢してください』

事実、彼の言うとおりになったから、そのときは何もいわなかった。
だが、いま思い返してみれば、おかしい。

彼はなぜ、そんなことを知っているのだろう。

可能性としては、二つの場合が考えられる。
一つは、誰かに聞いて知っていた場合。かつての旅の仲間―――特にベイオウーフならば、経験者として彼に助言できるだろう。
だが、果たしてそうだろうか。
我慢しろと言ったあとの彼の行動は…はっきりと覚えていないが、戸惑いは感じられなかった。理屈ではなく、身体がどうすればいいか知っている。そんな感じだった。
そうなると、もう一つの可能性しかない。

お前は、私以外の女を抱いたことがあるのか?
私はお前以外の男など知らないのに、知りたくもないのに、お前は知っているというのか?
私にはお前しかいないのに、お前は違うというのか?

「アグリアスさん」
我に返ると、卓を挟んで正面にいたはずのラムザがいつの間にか隣に移動していた。
「どこか具合でも悪いんですか?」
「いや、そんなことはない」
内心はともかく、身体は健康そのものだから、アグリアスは否定する。
しかし、ラムザは納得していないようだった。思案げな表情で、アグリアスに手を伸ばそうとする。
その手が前髪に触れる直前で、アグリアスは立ち上がった。
突然の衝撃に耐えかねて、椅子がガタンと床に倒れる。
「あっ…」
ラムザが言い掛けた言葉を飲み込み、伸ばしかけた手を降ろす。
傷ついたようなその表情は、アグリアスの胸に突き刺さった。
(しまった、そんなつもりではーっ!)
(嫌だった訳じゃないんだ。ただ、その驚いたというか、怖かったというか。いや、なぜ怖がる必要があるんだ。相手はラムザじゃないかーっ)
「お疲れみたいですね。食器は僕が片づけますから、先に休んでいてください」
一人問答している間に、ラムザの方が助け船を出してくる。
アグリアスはその言葉に甘えた。
汲み置きしていた水で身体を清め、寝間着に着替え、束ねていた髪を梳かし、ベッドに潜り込む。
二人でも十分な広さのベッドは、一人で横になっていてもむなしさが募るばかりだ。ラムザに疲れからの拒絶と思われた以上、彼が戻る前に眠っていた方が無難だと思うのに、眠気はちっとも訪れない。
ランプの明かりを弱めてまぶたを閉じても、まとまり切らぬ思考がどろどろ頭の中を流れて息苦しく、かえって目がさえるばかりだ。
「ダメだ、寝ていられない」
ベッドから抜けだし、ベッド脇のかごに畳んでおいていたガウンを羽織る。室内が見えるようにランプの明かりを調整していると、
「起きていたのですか」
背後からラムザの声がした。
「……うん」
アグリアスは振り向き、視界に彼の姿を収める。
目があった瞬間、ラムザが困ったような顔をした。
「先に休んでいてくれた方がよかったのですが…」
「目が冴えて眠れなかったのだ」
アグリアスが正直に答えると、ラムザの表情が変わった。
「あなたがそう僕に言うか」
苛立ちを含んだ声音で言い捨て、こちらへと歩み寄る。
常とは違う冷たい態度に、アグリアスの本能が危険を察知した。足が勝手に後ずさるも、ベッドに阻害されて身動きができない。
「そうだ。あなたは、僕が触れようとする度に逃げている」
射抜くような鋭さで一瞥され身がすくんだ瞬間、容赦ない力で身体が引き寄せられた。背に両腕が回され、広く逞しい胸に閉じこめられる。
「僕はあなたを手放す気はさらさらない。だから、僕に何か思うことがあるなら、はっきり言ってくれ。気づかぬところであなたを傷ついていたなら、謝るから…」
震えている。
声も。身体も。
五感からの刺激を、頭よりも身体が先に理解した。
目頭がじんっと熱くなり、涙が勝手にこぼれてくる。
「…―っ」
漏れそうになる嗚咽を必死にこらえるも、いたわるように背中を撫でられて徒労に終わった。
「ラ…ムザっ」
六日間抱き続けた不安を押し流すように、アグリアスは面前の相手を掻き抱き、そして泣いた。

※※※

手桶に張った水に手布を浸し、きつく絞る。
したたり落ちる滴がなくなると布を広げ、四つ折りに畳みながらベッドに歩み寄った。
ベッドには、目元を赤くはらしたアグリアスが恥ずかしそうに腰掛けている。
「これで冷やしてください」
ラムザが手布を差し出すと、彼女は素直に受け取り、両目に押し当てた。
「すまない、みっともなく泣いてしまって…」
ラムザは「いいえ」と頭を振り、アグリアスの隣に座った。
「僕としては嬉しかったですよ。旅していた頃は、散々あなたに泣き顔を見られましたから。これでおあいこですね」
茶化すように言えば、アグリアスはクスっと笑った。
「……ラムザ」
ややあって、アグリアスが手布を外す。
「聞きたいことがある。正直に答えてくれ」
背筋をぴんと伸ばし、こちらをまっすぐに見据えて、アグリアスが言う。
「おまえは…私以外の女を抱いたことがあるのか」
思わず正面の蒼い瞳から目をそらし、次の瞬間にはその行動を恥じた。
渾身の意志で視線をアグリアスの顔に固定し、口内の唾液で喉を整えてから口を開く。
「あります。ガフガリオンの麾下にいた頃に」
「…やはりな」
アグリアスが低く呟く。
ここにいたって、ラムザは、アグリアスがよそよそしさの理由を悟った。
そして、どんなに傷つけていたのかも。
「すみません、本当に…」
「いや、いい。私がおまえと出会う前の事だから、仕方ない。むしろ安心した」
「安心?」
予想外の言葉に聞き返すと、アグリアスは手を伸ばし、指先が頬に触れた。
「オーボンヌ修道院で出会ったとき、おまえは恐ろしく冷たく乾いた顔をしていた。すべてが灰色に見えるような、そんな目をしていた。そんな精神状態でも、おまえは誰かを愛することができた。そう思えたから…」
愛おしむように頬を撫でられ、ラムザは顔が歪むのを自覚した。
「アグリアス、ちがいます。僕はその娘の境遇には同情していたけど、愛してはいなかった」
蒼い目が最大限まで見開かれ、頬を撫でていた手が外される。
「身体だけの関係だった。そういうことです」
端的に事実を告げれば、アグリアスはふるふると頭を振った。
「ウソだな」
「…本当のことですよ」
「いや、自分のことを自虐的に言うのはおまえの悪い癖だ」
がしっと勢いよく、両肩を捕まれた。
「理由を話せ。いきさつもだ」
「話したところで過ちがなくなるわけではー」
「それは私が判断する。だから話せ」
まっすぐに見つめてくる蒼い瞳に、ラムザは内心でため息をこぼした。
(あなたには、かなわないな)
アグリアスには、全て受け止める覚悟がある。
ならば、自分は、その気持ちに応えなくてはならない。
「…わかりました」
頷いてみせると、両肩に乗せられていた手がそっと外された。
彼女の目を見ながら話す勇気はどうしても持てず、視線を手元に落とし、過去を思い出す。
「あれは…、ガフガリオンの麾下に加わって最初の依頼でした」
忘れようにも忘れられない出来事を、ラムザはゆっくりと語り出した。

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