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幸せな日

 耳を澄ませば、雲雀の鳴き声が聞こえる。
 瞳を開けば、青い空と綿のような白い雲、そして青々とした草原が目に写った。
 心地よい一陣の風が草原を波打ち、身体をくすぐるように撫でていく。
 新鮮な空気を力一杯吸い込めば、野の花の甘い匂いがした。
「疲れたか?」
 背後から発せられた気遣いの言葉。オヴェリアは振り返り、首を横に振った。
「ううん。そんなことない。むしろ、気持ちいい」
「そうか」
 彼は口の端を微かにあげて笑い、すっと左手を差し出す。大きな手を、次いで小麦色に焼けた顔をじっと見つめていると、ついと視線を外されてしまった。
「ここから坂になるから、つかまれよ」
 その横顔には、普段にはない朱が混じっている。オヴェリアは微笑み、差し出された手に己の手を重ねた。
「ありがとう」
「…行くぞ」
 殊更素っ気なく言い、ディリータは歩き出きだした。臑ほどの高さのある草達を踏み分け、勾配を増した地面に怯むことなく、標のない草原に目的地までの道を己の足で造っていく。
 オヴェリアは、握られた手から伝わってくる温もりを頼りに、足を動かした。


「今日はいい天気だから、遊びに行かないか?」
 そうディリータから言われたのは、朝食を食べ終えて暫く経った頃だった。
「遊びに?」
 尋ね返すと、上下とも黒で統一した平服姿の彼は頷いた。
「ああ。といっても、弁当をもって外に出て、景色の良いところで食べる。それだけのことだけど…」
 申し訳なさそうに言う。
 だが、オヴェリアにとって、その提案はとても魅力溢れるものに思えた。
 朝、一人が使うには広すぎる豪奢な寝室から身を起こし、時間をかけて女王としての身支度を整える。支度が終われば、傅く人々に囲まれて、毒味を経て冷め切った食事をとる。暫しの休憩の後、侍従に形だけの玉座に導かれる。そこで自分に要求されるのは、人形のごとく大人しく座り、背後で耳打ちされる後見人の言葉を音に出すだけ。“女王”の出番が終われば、私室で用意されたお茶を飲み菓子をかじり、手慰めに刺繍などをして、夜が来れば一人で眠るだけ。
 笑うことも、泣くことも、怒ることも哀しむこともない。そもそも必要とされない、無味乾燥な時間。形式としきたりだけが繰り返され、流れていく日々。
 それが、オヴェリアの日常だった。
 彼の提案は日常という固い殻を突き破るものであり、かつ、女王の役割を演じなくてもよいことを示唆していた。
「ゴルダーナ公の許可はとってある。何も問題はないから、一緒に行こう」
 差し出された手は、かけがえのないものに思えた。
 戸惑うように重ねた自分の手を、彼は優しく握りしめてくれた。

 そして、それは、今も変わらない。

 彼の手によって導かれた場所は、見晴らしの良い丘だった。
 頂に一本の巨木があるだけで、家屋などの人工物は一切見あたらない。
 木の傍らに立ち周辺を見渡せば、青い空と浮かぶ白い雲、そして、草原が地平線の果てまで続いていた。
「いい景色だろう?」
 幹にもたれかかって座っている彼が声をかけてくる。オヴェリアは心から頷いた。
「ええ」
「そう言ってもらえて良かった」
 嬉しそうに榛色の目を細め、上着を脱ぐ。裏地が表に出るように広げて地面におき、
「直に座ると服汚れるから、この上に座れよ」
 と、言う。オヴェリアは指された黒の上着と、暗い赤のタートルネックシャツに黒いズボンという相手の格好を見比べ、
「いらない」
 上着を拾い、持ち主に突き返した。
「ディリータの服が汚れちゃうわ」
「俺のは着古したものだし、暗い色だから汚れても目立たない。でも、おまえのはそうじゃないだろう?」
 顔に向けられていた榛の瞳がゆっくりと下に移動していく。オヴェリアはつられるように目線を落とし、纏っている衣服を見渡し、言わんとしていることを察した。
 襟が高く、袖は長く、裾が膝下まである白のワンピース。普段着させられているドレスと違い、刺繍やレースなどの装飾が一切ないシンプルなものである。
 外出という目的から最も動きやすく、かつ、簡素な服を選んだつもりだった。が、色の選択を誤った。白だとちょっとした汚れでも目立ってしまう。そして、汚れた服を洗うのは、自分ではなく侍女達だ。彼女たちの仕事を自分のわがままで増やしてしまうことになる。
「わかったなら大人しく使えよ。遠慮はいらない」
 彼は突き返した上着を再度地面に広げ、手のひらでぽんと叩く。屈託のない笑顔を浮かべて。
 オヴェリアは迷い、上着と彼の顔を見比べて考え、決断した。
「やっぱりいいわ」
 腰を屈めて拾い上げ、付着した草を払い、丁寧に畳んで彼に押しつける。ついで、立つ位置を幹の側から彼の近くへ移動し、面前に広がる景色に視線を注いだ。突き刺さるような視線を頬に感じたが、オヴェリアは黙殺する。
 風がそよぎ、髪を撫で、草原を波打っていった。
「まさか、ずっと立っているなんて言うつもりじゃないだろうな?」
 風が収まるなり、呻くように彼が言う。オヴェリアは首肯した。
「うん」
 はぁ、と露骨なため息が聞こえた。視線を向ければ、彼は片手を額にあてていた。
「立ちっぱなしだと疲れるだぞ。おまえ、体力ないんだし。無理をせず、遠慮せず、ここに座れ」
 彼はわずかに横にずれ、オヴェリアの面前に上着を広げておいた。三度目の行為に「頑固ね」と内心で呆れつつも、かぶりを振る。
「いらない」
「あのな、俺はおまえを疲れさせるために、余計な気遣いをさせるために、ここに連れてきたんじゃないぞ」
 ため息混じりにそう言われる。オヴェリアは思わず叫んだ。
「私だって同じよ!ディリータの服汚したくないわよ」
「俺は構わないってさっきから言っているだろう!」
「私が構うの!」
 互いの瞳が真っ向から激しくぶつかり合う。
 二種類の叫びが辺りにこだまし、驚いた鳥が何羽か草原を飛び立った。
「………よくわかった」
 奇妙に確信めいた声によって、睨み合いが破られる。
 彼は音も立てずに立ち上がる。流れるような動きにオヴェリアが思わず見とれていると、彼は背後に回り込んだ。髪をそっと後ろに払いのけ、肩に触れる。
「…?」
 オヴェリアが不審に思った瞬間、凄まじい力によって両肩が押し下ろさせられた。適度の休憩を挟んだとはいえ二時間ほど歩き続けたことによって疲弊していた両足は、あっけなく崩れ落ちた。両膝に衝撃が走り、尻もちをつく。
 膝と足にかかった痛みに顔をしかめた瞬間、背中に固いが弾力あるものが当たった。両肩に何かが載せられる。視線を落とせば、首に絡むような暗い赤の袖と小麦色の手が見えた。更に下に向ければ、地面に縫いつけるかのように、黒い布地で覆われた両脚がスカートの上に置かれている様が見えた。揃えた両膝には、草や土より遙かに柔らかいものの感触がする。
 首を捻って横を見れば、視界一杯に彼の顔が広がった。
「こうすれば、いやでも使ってもらえるな」
 暖かい呼気が耳許に掛かる。直後、ぞくっと悪寒に似た感触が背筋にはしった。理由は分からないが、頬がみるみる紅潮していくのが自分でもはっきりと感じた。
「ディ、ディリータ…」
 顔を背けて、面前の草原を眺めつつ口を開けば、
「どうした?」
 どこか楽しそうな声で尋ね返される。内心の動揺を悟られないよう精一杯声音を整えて、抗議する。
「無理矢理座らせるなんて、強引よ」
「人の好意くらい素直に受けろよ。おまえは遠慮しすぎだ」
 首に回されていた腕が片方だけ外され、大きな手がゆっくりと髪を梳いていく。その優しい感触に、背中から伝わる温かさに、オヴェリアは瞳を閉じた。
 こうしていると、安心する。暖かくて、とても心地よい…。
 先程まで感じていた腹立ちや苛立ちなど、もはや消えていた。
 彼が与えてくれる包み込むような温もりだけを、いつまでも感じていたい。
 オヴェリアは、ただ、そう思った。

 それは、ある春の日の出来事。

- end -

2006.12.12

(あとがき)
「ディリータとオヴェリアの幸せそうな一幕」というリクエストをシロト様から頂いたとき、連想したのがシロトさんがFFT祭で作品登録をされていた「幸せな日」というイラストでした。「丁度良い機会だから、あの絵をイメージして書こう!」と推敲を凝らし、甘さと切なさを共存させた表現に四苦八苦しつつ書き上げ、なんとか完成にこぎ着けました。
 少しでもあの絵に近づけたのなら、これ幸いです。
 シロトさん、色々考えさせられるリクエストありがとうございました。どうぞ、お持ち帰り下さい

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