継がれゆく想い(1)>>Novel>>Starry Heaven

継がれゆく想い(1)

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 晩秋のある晴れた日。
 一人の男性が小高い丘へと至る小道を登っていた。
 その足取りはゆったりしており、急いだものではない。その証拠に、時折その足取りは唐突に止まる。前方の丘にそびえ立つ一本の大樹を、道の左右に生えている名も知らない草花を、収穫の刈り入れが終わった畑を、そして、頭上に広がる何処までも青い空を、何度も黒瞳に映す。彼は両目に焼き付けるように時間をかけて眺めた。そして、再び歩き出す。
 丘へと近づくにつれて、そよ風に混じって歌声が聞こえてきた。妖精の囁きに似た美しく優しいソプラノ。彼の足取りは自然と速くなった。最後の一歩を踏み出し、目的地に到着した彼は、目前に広がる風景を見て声を失った。
 己の存在意義を主張するかのようにそびえ立つ、樹齢数百年はあると思われるオークの木。複雑に絡み合い天へと伸びる枝と枝の間から降り注がれる木漏れ日。大人一人ではとうてい抱えきれない太い幹に背中を預けて座り、歌を口ずさむプラチナブロンドの女性。慈愛に満ちた表情を浮かべ、可憐な口から紡がれる歌声は、聞く者の心を安らげ穏やかな眠りへと誘う子守歌。聴衆は三人。二人の幼子と、一人の壮年男性。全員がすでに歌の世界へと誘われているようだ。壮年男性は女性のすぐ隣で、二人の幼子は歌い手の膝に頭を預けて、安らかな寝息を立てていた。

 美しく穏やかな世界。
 彼自身が強く願い、希求しているものがそこにはあった。

「シド様」
 呼びかけに意識を現実へと戻す。歌は止んでおり、女性がなつかしそうにこちらを見つめていた。
「お久しぶりです。フェリシア」
 眠っている三人を起こさないよう小声で返し、会釈を交わす。
「ええ、本当に。何年ぶりでしょう?」
「三…いや、四年ほどでしょうか?あの後、男子が産まれたとバルバネスから聞きました。名は?」
「ラムザですわ。今年四歳になります」
「では、こちらは二人目?」
「ええ。今年三歳になったアルマです。女の子ですわ」
「そうですか…」
 フェリシアが示した子ども達は、膝枕の上でさも気持ちよさそうに寝ている。どちらも目鼻立ちは母親に似ているように思われた。父親譲りなのは髪の色ぐらいだ。
「どちらも母親似ですね。将来美人になるでしょうな」
「ありがとうございます」
 くすっとフェリシアは笑った。彼は彼女に笑みを返し、そして、自分をここへと呼び出した人物を見る。仰向けに寝ころび、微かに笑みを浮かべて穏やかな寝息を立てていた。
「何かバルバネス様に用があるのでしょう。起こしましょうか」
「いや、こいつも疲れているのでしょう。起きるまで待ちますよ」
 彼自身も幹に背中を預けて、腰を下ろす。天から降り注ぐ暖かい光を身体全身で浴び、快いそよ風に撫でられる。そして、子守歌の優しき調べ。瞼を閉じて歌を聴いているうちに、いつしか彼も眠りに落ちていた。

 そして、彼は夢を見る。
 それは遠い昔の出来事。
 だが、決して忘れられない思い出。

◆◇◆

 バルバネス・ベオルブという候補生を一言で表現するなら、それは“完璧な候補生”だった。
 成績は入学時から常に主席を維持。容貌は眉目秀麗。中背ではあるが均整がとれており、しなやかな筋肉がついている肉体。その身体に流れるのは、武門の棟梁として名高いベオルブ家という由緒正しき血。
 これで性格が嫌な奴なら、同期の男子候補生達にはそれがせめてもの救いとなっただろう。だが、残念ながらそうではなかった。誰に対しても丁寧で柔らかい物腰。品行方正な振る舞い。彼は、性格においても何ら問題がなかった。
 “完璧な候補生”。
 このような人物が一定の集団にいる場合、属する者がとりうる行動を単極に分類すると、二つになる。
 人柄に惹かれ、慕い、そして彼を偶像として崇拝する、か。
 嫉妬心を隠すため代替的手段をとる。つまり、対抗馬を擁立し、かの人物と対立するよう煽る、かだ。
 後者に分類される者達が目をつけたのが、シドルファス・オルランドゥだった。
 南天騎士団にその名を連ねるオルランドゥ伯爵家の次男であり、剣術に限定すれば、バルバネスにひけをとらない腕前を誇っている。
 不平分子たる彼らは、篝火に集まる蛾のようにシドルファスの元に集まり、彼を派閥の長に据え置いた。シドルファス自身は、くだらない事だなと思いながらも、あえて止めようとはしなかった。
 彼もまた、バルバネス・ベオルブという人間に対し良い感情を持ったことがないからだ。


 寄宿舎が同室でもある彼らは、図らずも寝食を共にする仲である。
 シドルファスが同室の人物にたいし違和感を覚えたのは、アカデミーに入学して一ヶ月たった頃だった。
 貴族の子弟として不自由なく育った候補生達が親元を離れ、二人部屋をあてがわれ、寄宿舎での共同生活を送るのだ。入学当初は同室の人間に対して緊張し、寛いだ姿を見せないのは仕方ないことだ。だが、人間というのは新しい環境に適応できる。一ヶ月も経てば、二人部屋という状況にも慣れ、多少はリラックスした姿を同室の者に見せるはずだ。事実、他の部屋の候補生達はそうだった。
 だが、バルバネスは一ヶ月経っても寛がない。全く隙を見せなかった。
 具体的に言えば、シドルファスは彼が眠っている姿を見たことがない。彼は必ず自分よりも遅く就寝し、そして、自分が目を覚ます前には起床している。しかも、身支度は完璧に整っている状態だ。ベットは使った形跡はあるので、寝ていないというわけではないはず。一度奴の寝顔を見てやると意気込んだが、彼はシドルファスが睡魔に屈服するまでベットに潜り込むことはなかった。
 また、片付けなんぞしたことがないからシドルファスの机や書棚は散らかり放題なのに、バルバネスの方は整然としている。ゴミやホコリというものが一切見あたらない。名門貴族の子弟にしては、几帳面な性格なのか? だが、シドルファスには知る術がない。原因は容易に分かる。会話の貧困ゆえだ。
 最初の自己紹介を兼ねた挨拶の他で、彼と交わした言葉は数種類だけ。「おはよう」「おやすみ」「ただいま」「おかえり」ぐらいだ。同室のよしみとして彼と交友しようにも、とっかかりがないとどうしようもない。お手上げ状態だ。
 厳しい講義を終え、ゆっくり休むための部屋。本来ならくつろぎの場所になるはずだ。だが、同室の人間がここまで素っ気ないと、落ち着かない。居心地が悪すぎる。
 入学して二ヶ月経つ頃には、シドルファスは就寝のときのみ部屋に戻るようになった。講義が終われば図書館や闘技場で日が暮れるまでの時間を潰し、消灯時間直前までは、友人の部屋に邪魔するようになったからだ。
 あからさまに避けるようになった自分に対し、バルバネスは何も言わなかった。


 草木が色づき、山が粧う頃。
 通常ならば二年生のみで実施される実地演習を、特に成績優秀な一年生にも参加を許すという特例が学長から発表された。
 一年生の枠は最大で五名。但し、該当者がいなければゼロにもなるという厳しいもの。
 一年次の候補生達は突如やってきたチャンスに勇躍した。参加が許されれば、二年次にも匹敵する実力を有するとの証明になる。そして、実戦を体験することもできるのだ。彼らは近々実施される特別選考試験に向けて、よりいっそう厳しい自己鍛錬を繰り返した。
 シドルファスも例外ではない。魔法が苦手な彼は、己の得意分野、剣術と格闘技をより高める努力をした。寝ている間もトレーニングする夢を見るほどに彼は稽古に励んだ。その甲斐あってだろう。倍率十五倍という狭き門をくぐり抜け、彼は見事、実地演習に参加する資格を得た。
 一年生で彼の他に参加資格を得た者は三名。そのうち二名は名前が思い出せなかったが、最後の一人は知っていた。金髪・灰色の瞳をもつ候補生。同室なのに、ここ数ヶ月全く顔を合わせていなかった人物。バルバネス・ベオルブだった。


「予定通り、この周辺で地質とモンスターの調査を行う。一班から三班まではポイントAへ移動。私の指揮下で調査を行う。四班から六班まではポインBへ。これらは副団長の指揮下で調査を行うものとする。七班は野営地の設営。質問はあるか?」
 整然と班別に整列した候補生達は、音一つたてない。実地演習総責任者である二年次の先輩は満足げに頷いた。
「なお、先日の大雨で地盤がゆるんでいる。地滑りの可能性があるから、各員、十分な注意を払うこと。以上だ。作業開始」
 フォボハム平原の地質とモンスター生息調査。それが実地演習の内容だった。
 第七班に配属された一年次の候補生達の仕事は、野営の準備。シドルファスは物足りないと思ったが、命令に反すると評価が下がる。仕方なく野営するによい場所を品定めすべく移動しようとした。
「待て、シドルファス。私も同行する。アベルはカインと一緒に南へ」
「わかった」
「了解」
 反論する間もなく、二人はバルバネスの指示に従って移動を開始した。何考えているか分からない人間と行動しなければならないとは。シドルファスは苦々しく思った。
 バルバネスはこちらの心情なぞ気にしないのか、地図を広げ、東方向によさそうな場所があると言って歩き出す。ついて行かないでおこうか、とシドルファスが思った瞬間、バルバネスはこちらに振り返った。
「早く来い」
 素っ気ない、たった一言の指示。しかも命令形。腹立たしい事この上ないが、従わざるを得ない状況が憎らしい。シドルファスは渋々彼の後を追った。
 二人の間で会話が交わされることは一切なく、野営候補地へと到着する。枯れ葉色の草原が広がり、所々に低木が生えている。こんこんとわき水が溢れる小さな池もある。シドルファスは手袋を外して、水をすくってみた。澄んでおり、悪臭もない。蒸留させれば十分飲めそうだ。
「悪くないな。ここにするか」
「周辺を歩いてくる」
 シドルファスは無言で彼を送り出した。きまじめに地面の様子を確かめる彼を目の端で捕らえながら、シドルファスは水筒を取り出し、口を湿らせる。水筒の栓を閉めた瞬間、バルバネスの姿が唐突に消えた。
「な!?」
 慌てて彼がさっきまでいた場所に駆け寄ってみると、そこには直径五メートルほどの穴が広がっており、バルバネスはかろうじて片手で縁にしがみついていた。深さは分からない。真っ暗だった。
 シドルファスは右手を塞いでいた水筒を放り投げ、両手で彼の腕を掴む。
「だめだ、そこは…」
 バルバネスが何かを言おうとしているが、シドルファスはそれに構わず彼を引き上げようと全身に力を込める。次の瞬間、足下が不自然に滑った。バランスを崩し、前方に−穴の中心に向けて身体は傾く。
「うわぁ!?」
 滑ったのは足ではなく、地面だ。立っていた場所で地滑りが起きたのだとシドルファスが悟ったのは、穴に吸い込まれてからだった。


「―――ファス、シドルファス! 大丈夫かッ!?」
 誰かが身体を揺さぶっている。重い瞼を無理矢理あげると、今にも泣き出しそうな表情をした金髪の少年が視界一杯に飛び込んできた。
「バルバネス、か…? いてっ!」
 身体を起こそうとすると、激痛が駆けめぐった。
「無理するな。いま、回復魔法をかける」
 バルバネスが両手で地面にゆっくりと押し戻す。彼は自分の右肩に手を置いて、何やら不思議な言葉を紡ぐ。手を置かれた肩がじんわりと熱を帯びていく。
「清らかなる生命の風よ、天空に舞い邪悪なる傷を癒せ! ケアルラ! 」
 肩に置かれた手を起点にして、青い光が風をまとってシドルファスの体中に駆けめぐる。光はほのかに暖かく、そして、優しかった。光が空気に溶け込むように消えると、苦痛は嘘のように消えていた。
「痛みは残っているか?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
「ちがう…」
 バルバネスはためらうように口ごもる。が、それも一瞬のことでしかなかった。
「礼を言わなければならないのは僕の方だ。草むらに隠れていた穴に気づかず、落ちたのは僕自身のミス。放っておいてもよかったのに、君はすぐ駆け寄って、引き上げようとしてくれた。地盤がかなり不安定で共倒れの危険もあったのに。すまない。ありがとう」
 バルバネスは深々と頭を下げる。
 シドルファスは正直いたたまれなかった。彼はバルバネスを助けるとき、地盤のことなど考えてなかった。綺麗さっぱり作業前の警告を忘れていた。少し頭を冷やして冷静に行動していれば穴に落ちることなく彼を助けられたのではないか、という忸怩たる思いで頭はいっぱいだった。
「いや、俺こそ、もう少し頭を冷やして安全に助けるよう考えるべきだった。だから、礼はいいよ」
「だけど…」
「だぁぁぁぁ、俺がいいと言ってるんだ。もう気にするなッ! それよりもここから脱出する方法を考えるぞ」
 シドルファスは立ち上がって彼に背を向け、背後の岩肌を調べる。これ以上の謝罪は受け付けないぞ、という無言のメッセージを送る。バルバネスは暫しこちらをじっと見ているようだったが、やがて同じように岩肌を調べ始めた。
 直径五メートルほどの空間を作る壁を隅から隅まで、こんこん叩く。どうやらここは人工的に作られたものらしい。その証拠に、岩肌にはのみ等の工具で岩を削った後がいくつもあった。
「井戸、か?」
 背後でバルバネスが呟く。
 冗談ではない。ここが井戸の跡だとすると、脱出する方法は上に登ることだけになる。岩肌は出っ張りらしきものはなく、しかも、岩は割ともろい。強く握るとぽろぽろ崩れた。道具もなくよじ登るというのは不可能だ。
「池がすぐそばにあるのに、わざわざ井戸を掘る必要があるのか?」
 バルバネスは肯定も否定もしない。無言で作業を続行している。シドルファスの頭にふと嫌な仮定が浮かぶ。

 井戸の方が先に造られ、わき水の沸く池がその後に現れたから、この井戸の存在は忘れ去られたのではないか?

 頭を激しく振って仮定を脳裏から追い出そうと努力する。だが、うまくいかない。胸の内で、それが正しいと囁く別の自分がいる。バルバネスが何も言わないのはその可能性が高いとわかっているからだ、と。
(冗談じゃねぇ! こんなところで、いつ来るか分からない救助を待ってられっかぁ)
 苛立ちを込めて壁に拳を突き立てると、カーンという甲高い音がした。
「シドルファス」
「わかってる」
 拳を突きつけた場所を中心に、目をさらにして凝視する。最初は今までと変わらない岩壁にしか見えなかったが、微妙に色が濃いように思えた。
「向こうはかなり広い空間みたいだな」
 岩に耳を充てて壁を叩きながら、バルバネスが言う。シドルファスは頷く。音が響くと言うことは、音を伝えるだけの広さがあるということだ。
「問題はどうやってこの壁をどかすか、だな。何か仕掛けでもあるのか」
「辺りには、それらしきものはなかったが…」
 きまじめにバルバネスが答える。さっきまでさんざん二人で調べていたのだから、そのくらいはシドルファスにも分かる。ならば、他にとりうる方法は…。
「破壊するか」
「え!?」
「下がってろよ、バルバネス」
 バルバネスが壁から後退するのを確認して、シドルファスは剣を抜いた。つもりつもっていた鬱憤を気力に変え、剣に籠める。ゆっくり上段に構え、気合いのかけ声と共に振り下ろした。
 確かな手応えを感じながらシドルファスが剣を鞘に収めると、壁に斜めの亀裂が入った。小さな音を立てて亀裂は伸張していき、やがて、轟音をたてて左右に分かれて崩れ落ちた。岩があった場所には暗い穴がぽっかりと空いている。
「…見事だね」
 賞賛の拍手に似たバルバネスの言葉。シドルファスは振り返ってにやりと笑った。
「どういたしまして。でも、お前だってやろうと思えばこれくらい出来るだろう?」
「………」
 バルバネスは答えない。肯定とも否定ともとれるような曖昧な表情を浮かべていた。シドルファスの頭に疑問符が浮かぶ。
(こいつの腕ならできるはずだよな? じゃあ、なぜ肯定しないんだ?)
 こちらの心情を察したのか、バルバネスは薄く笑みを浮かべる。どことなく陰りがある、無理にこしらえたような笑みだった。シドルファスの疑問符がますます増えたとき、彼は別の話題を振ってきた。
「これからどうする? 先に行くか? それとも、ここで救助を待つか?」
「あ!あぁ…、ここで待ってても暇だし、調べてみないか」
「先に何があるか、また、どのくらい距離があるか分からない。ここで待っていた方が安全かもしれない」
「だが、折角道を開けたのに、ぼへ〜とここで時間を潰すのも能がないと思わないか? 救助がいつ来るか分からないし、来ても助けてくれるとは限らない。俺が力を込めただけで地滑りを起こすくらいだから、救助するには新たな犠牲がでると上が判断する可能性もある。そうなったら俺たちはここに置き去りだ。ならば、先を確かめてみるのも良いだろう? ひょっとしたら地上に通じてるかもしれないしな」
「そうだね。君の言うとおりだ」
 バルバネスはかすれた声で同意し、鞄から松明を取り出す。火打ち石で火をともすと、穴の先を照らした。まっすぐな通路が延びている。
「持っててくれないか?」
 シドルファスは差し出された松明を受け取る。隣の少年は、地図と方位磁石を取り出して、現在地を確認し通路の方角を調べていた。
「この先は西南西か。行こう」
「ああ」
 松明を持ったシドルファスが先に通路へと足を踏み出した。バルバネスは地図だけ鞄にしまい、方位磁石を片手にもってその後に続いた。


 通路は細く、大人一人が通れる程の幅しかないが、天井は自分たちの身長の倍ほどはあるので圧迫感はない。
 ここも人の手で造られている。不自然な、まっすぐで細い一本道の通路。奇妙に真っ平らな暗褐色の地面。壁と天井は薄い灰色。通路を構成する物質の全てが、見たこともない材料で作られていた。地面には、なぜか、一定間隔ごとに明かりできらきら光る奇妙奇天烈なペンキで縦線がひかれていた。その横には、これまた見たこともない文字が同じ塗料で書かれている。
 どういう方法で、また、何の目的をもってこの通路は造られたのか。シドルファスには見当もつかなかった。
「なぁ、ここ一体なんだろうな?」
 シドルファスは前を向いたまま後ろにいる人物に尋ねてみる。が、答えは返ってこない。振り返れば、バルバネスは少し遅れてゆっくりと歩を進めていた。彼が追いつくまでシドルファスは待ち、そして、再び進む。
 延々と続く単調で変化のない通路。同じ所を繰り返し歩かされているような不安がせり上がってくる。もちろん、頭の片隅では錯覚だと理解している。一本道をずっと前に歩いていたのだから、間違えようもない。だが、不安に感じる心は隠しようがない。気を紛らわすために、シドルファスは背後の人物に語りかけた。
「どこまで続くのかな?この道は」
 後ろから返ってくるのは、規則正しい足音だけ。
 二人の間に静寂が訪れるが、シドルファスは再び口を開いた。
「にしても、今何時かな?こう暗いと時間が分からないよなぁ」
 またしても返ってくるのは足音と耳が痛くなるほどの沈黙のみ。シドルファスは徐々に苛立ってきた。バルバネスは不安や恐怖を抱いていないというのか?!
 不公平感と苛立ち、不安と恐怖とが入り交じってシドルファスの心に積もり、とうとう爆発した。
「おい、バルバネス、何とか言えよ!」
「あぁ、もう、わからなくなったじゃないか!」
 シドルファスの怒号と同時に、バルバネスが頭を抱えてわめく。彼は大股でシドルファスに詰め寄った。彼の顔面に浮かんでいる苛立ちと怒りにシドルファスはたじろぐ。
「もう少し静かにしてくれよ。歩数数えているんだから」
「歩数?」
「距離を測るためだよ」
 シドルファスの口から驚きの声が漏れる。瞬時に自分の非を悟った。
 無事に地上にでてもそのときの位置が分からないのでは、実地演習地に帰ることが出来ない。道は一本道だ。最初にいた場所から移動した場所までの距離が分かれば、容易に地図で現在位置を確認できる。また、最初の場所に戻るにしても、どの程度の時間を消費するか、歩数さえ分かれば逆算することも可能だ。
 バルバネスは二人が無事に帰還できるよう、先を見越して行動していたのだ。自分は何も考えていなかったのに。
「すまなかった」
 彼はじっとシドルファスの顔を見つめる。内面を見透かすような灰色の瞳を逸らさず受け止めていると、不意に彼は力なく微笑んだ。
「こっちこそ言い過ぎた。ごめん。そもそも僕のミスでこんな事態になったのに。さて、何歩目だったかなぁ。四八四〇? いや、四八五〇か?」
 後半部分は無理矢理明るい声をだしていると容易に知れた。シドルファスはいたたまれなくなった。
 自分は気にするなと彼に言った。向こうも何も言わないから解決したものだと思っていた。だが、彼の心には「事の発端は自分」という事実が深く突き刺さっていたのだ。
 改めてバルバネスの姿を見る。彼は両手の指を折って、ぶつぶつ数を数え直していた。
 一人で重責を担い一人で解決しようとする彼の姿勢は、酷く痛々しい。今は一人ではなく、二人だ。無事脱出するという重荷は二人で分けて背負うべきだった。そう思うと、同時に腹立たしくも感じた。自分の不甲斐なさと、助力を求めない彼に対して。
 シドルファスはふぅとため息を吐き、頭を無理矢理切り換える。

 ―――助けを求めないなら、助力を申し出ればいい。お前が持っている荷物を半分よこすように、と。今からでも遅くないよな?

「真ん中をとって四八四五にすればいいんじゃないか?」
 シドルファスの提案に、バルバネスは目を丸くする。
「どうだ?」
「…そうするよ」
「それと、今度からお前が松明を持って先に歩け。俺は後ろでお前の歩数を声に出して数える。二人でなら数え間違いも少ないだろうから」
「わかった」
 バルバネスは松明を受け取り、歩き出す。シドルファスはその背中を守るように位置取りながら、宣言通り彼の足の運びを数えた。前を歩く彼を励ますよう、自分に気合いを入れるよう、大きな声で。


 今思えば、自分はこのとき初めて、バルバネス・ベオルブという人間の一端を知ったのかもしれない。

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