去来(1)>>第二部>>Zodiac Brave Story

第五章 去来(1)

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 まぶたの裏を差す光に、意識が急浮上した。
 ゆるゆるとまぶたを開くも、寝起きの頭はうまく働いていないようで、靄がかったようにぼやけて見える。酒精が抜けきっていない身体は水を含んだ綿のように重く、寝台を降りるのはもちろんのこと腕を上げることさえおっくうだ。今日は特に予定ないし、このまま寝てしまおう。まぶたを閉じ始めたラッドだったが、
「おはよう」
 耳朶に滑り込んできた冷ややかな声が、それを押しとどめる。ラッドは精神力を総動員して眠気を追い払い、寝台から半身を起こした。
「…といっても、もう昼過ぎだけどね」
 呆れるように同室者は言い、文机に向き直る。その手には、本。
 彼の言葉どおり、室内は春の陽光に隅々まで照らされて明るい。開け放たれた窓から流れてくるそよ風はさわやかで、寝汗を掻いた身体には心地よかった。
 ラッドは後頭部をがりがりと掻いて、上掛けをはねのけた。素足で板張りの床を歩き、自分の荷物袋から着替えを取り出し、身だしなみを整える。人前に出られる格好に至った段階で、ラッドは同室者の背中に視線を投げかけた。葡萄色のシャツに革のズボンと、ラフな格好をしている。剣だけは手の届く範囲――文机の脇に立てかけてあったが、鎧などの武具は一纏めにして部屋の片隅に置かれていた。
「ラムザ」
「ん?」
「おまえさ、今日、美人隊長さん達と一緒に買い物に行くんじゃなかったか?」
「よりふさわしい人材が見つかったから、留守番になった」
 本に固定した視線を動かさずに、彼は淡々と答える。
 だが、ラッドは気付いていた。質問を発したとき、彼の背中が一瞬だけ強ばったことを。着替えの最中、ページを捲る音が全くしなかったことをも。
 しかし、
「そりゃ、残念だったな。またとない『両手に花』の機会を逃してしまって」
 ラッドは軽口だけを口の端にのせ、そのまま部屋をあとにした。
 廊下に出るなり軽い喉の渇きを覚え、カップ一杯の水を求めて食堂に向かう。
 たどり着いたそこは、前日の静けさが嘘のようににぎわっていた。テーブル・カウンターの種類を問わず席はほぼ満席となっており、湯気が立ちのぼる料理に舌鼓を打ったり、食前酒を片手に隣通しで会話をしたりしている。奥の厨房からは美味しそうな食べ物の匂いが濃厚に漂い、二日酔い気味のラッドの胃腸をけたたましく刺激する。思わず口元を手で抑えていると、声をかけてきた者がいた。
「…起きたのか」
 一八〇センチは超えるであろう長身の若者だ。顔立ちから判断するに、年齢はおそらくラムザと同じ十代の後半だろうが、静かな口調がそれよりも年上にも見える。ウエイターっぽい格好――動きやすそうな衣服の上に白色のエプロンつけ、手には空の金属製の盆を携えている――が、鋭利な緑の双眸がどうも噛み合わない印象を与えていた。
「水が飲みたいんだが…」
 要望を伝えれば、彼は「ついてこい」と素っ気なく言い、ラッドを一つのテーブル席に導いた。濃紺の武闘着を纏った若者がひとり席について、お茶をすすっている。傍らには、空の皿が幾重にも積み重ねられていた。
「アデル、彼を同席させてくれ」
「あいよ」
 アデルと呼ばれた若者が指さす椅子にラッドは腰掛け、ひとまず水を注文する。
「イゴール、Aランチをひとつ追加してくれ」
「まだ食うのか?」
「おうよ、今のうちに美味い飯を食いだめしておかないと。明日からは携帯食の毎日だし」
「追加注文の料金はおまえが払えよ」
「わぁってるよ」
 若者の視線が、厨房へと立ち去っていく者の背中からラッドへと移る。黒い瞳の真摯なまなざしに、ラッドは既視感を抱いた。見覚えがあるような気がするのだが、生憎と思い出せない。
「あいつはどうしてる?」
「あいつ?」
「ラムザだよ。あんた、あいつの仲間だろう?」
 その固有名詞がラッドの記憶の泉に一滴を投じ、一つの出来事を浮かび上がらせる。

『話がある。俺達の部屋に来てもらおうか』
 あてがわれた部屋で落ち着くまもなく、やってきた訪問者。黒い瞳はまっすぐにラムザだけをみつめている。
 傍目にもはっきりわかるほどに、ラムザが身を硬直させる。
 数十秒にも及ぶ無言の間を経て、彼は絞り出すように言った。
『わかった』

「あー、昨日ラムザを呼び出していた」
「アデルだ。あんたのことはラムザから聞いた」
 ぶしつけに顔を指さされてもアデルは怯まず、「どうしている?」と同じ質問を繰り返す。
「部屋でなんか考え事しているぜ」
 ラッドとしては、年下の同僚が面前の相手にどんな説明をしたのか気にはなったが、質問に答えるのは問題ないと判断したからこそ事実を伝える。すると、アデルがカップの角でテーブルを叩いた。
「あいつ、まだ俺たちのこと認めていないんだな」
 苦々しいその口調に、悔しげなその表情に、ラッドは興味を感じた。
「認めるって、ラムザになんか言ったのか?」
「ああ。『仲間と一緒にライオネルに同行する』って言った」
 食事を注文するかのような何気ない口ぶりだったから、ラッドはその言葉の意味を理解するのに数秒の時間を要した。
「あんた、あいつがどういう経緯でライオネルにいくことになって、その際にどんなヤツを敵に回したか知っているのか?」
 重ねて問えば、アデルは「ああ」と首を縦に振った。
「王女を助けるために、北天騎士団と所属していた傭兵団を敵に回したんだろ? アグリアスって人から聞いた」
 彼は抑えた声で答え、手許のポットを引き寄せて自分のカップにお茶を注ぎ入れはじめた。その表情は涼しげで、動作は自然かつ滑らか。怖がっている様子はない。イキがっている様子もない。
 面前の若者から感じる全てが、理由はわからないがラッドを苛立たせる。
「北天騎士団とその麾下にある傭兵団のこと、ほんとうに知っているのか?」
「北天騎士団の組織力と統制力のすさまじさは、骨身に染みて知っている。傭兵団を率いているガフガリオンについても、あちこちの酒場で色々と噂を聞いた」
「どんな話だよ?」
「漆黒の鎧を纏った壮齢の剣士で、生者の生命力を奪って己の力にする暗黒剣随一の使い手。今は傭兵だが、五十年戦争のときは東天騎士団に所属し、殲滅命令が下る度に男女老若の区別なく全てを殺し、剣のみならず全身を朱に染め、死屍の山を文字どおりに築いた…」
「それ、事実だからな」
 実際に目撃しているからこそ、ラッドは厳然と肯定してみせる。ところが―――、
「そうか」
 アデルはたった一言で、かたづけてしまった。
 危機感がみじんも感じられない反応に、ラッドの苛立ちは頂点に達した。
「おまえは何もわかっちゃいない! 相手はあのガフガリオンさんだぞ。あの人は、かつての仲間だろうがいちど敵対したからには遠慮しない。本気で殺しにかかってくるんだぞッ!」
「俺は、ラムザに借りがある。自分を犠牲にして他者を助けるっていう、やられた側からすればとてつもなくむかつく方法だったが、借りは借りだ。返す前にあいつに死なれちゃ困るんだよ」
 卓を挟んで対峙する二人の視線が交差する。
 黒い瞳に映るのは、興奮で声を震わせ、焦燥で色を失った青年の顔。
 かたや、褐色の瞳に映るのは、何事にも揺るがない確固たる信念を抱いた若者の姿。
「―――っ!」
 ものの数秒でラッドは耐えられなくなり、視線を逸らした。蹴倒すように椅子をひいて席を立ち、大股で食堂を出て行く。
 アデルは席に着いたまま黙然とその背中を見送り、ぬるくなった茶を舌の上に転がした。

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