春雷(1)>>第二部>>Zodiac Brave Story

第一章 春雷(1)

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 仮初めの闇の中、微かな雷鳴が耳朶に滑り込んでくる。
 意識的に閉ざしていた視覚を解放すれば、正午近い時刻だというのに辺りは薄暗い。空一面に黒い雲が広がり、仲春の陽光は完全に遮られていた。
 また、正面から吹く風は生暖かく、湿り気を帯びている。遠雷の音は、徐々に近づいてきているようだ。
 天気の崩れを五感で認識したが、若者は動こうとはしなかった。片脚をまっすぐ伸ばし、もう片脚をこころもち曲げ、背中を礼拝堂の壁にもたれかけたというよりわずかに触れた姿勢を維持する。
「お、いた!」
 規則正しいリズムを刻んだ靴音が近づいてくる。若者は曲げていた脚を伸ばし、声がした方へ身体ごと向き直った。
 若者の視線の先には、二十代半ばの男がいた。上下とも焦げ茶色で統一された衣服の上で鈍い光を放つ銀の胸当てが、腰に帯びた一振りの剣が、傭兵という男の職業を示している。そして、精悍な顔立ちに浮かぶ気安げな表情が、若者に現在の立場を再認識させる。己の左手が無意識に腰に挿した剣の感触を確かめていることに気付き、若者は腕を脱力させた。
 こちらに歩み寄ってきていた男は、近すぎず遠すぎずの距離で足を止めた。両手をお手上げの形に上げ、口を開く。
「ダメだ、ここのお姉様方は美人揃いだが、頭が硬い!」
「………」
「『空き時間にでもお茶しようぜ』と誘ったら『姫君の安全が確保されるまで暇はない』とまあ、とりつく島もない。ま、その真面目さもいつもと違った魅力を感じるが…」
「ラッド」
 際限なく続きそうな与太話を、若者は男の名を呼ぶことで中断させた。自分でもきついと思う目つきで、本題を尋ねる。ラッドは興味深げに若者をみつめた。
「潮位はまだ上昇していない。だが、到着時刻から逆算して考えるに、潮が満ち始めるまであと一時間といったところだ」
「…そう」
「さっきガフガリオンさんにも報告したけど、かなり苛ついていたぜ。ラムザ、お前と同じようにな」
「――っ!」
 かぁっと頭に血が昇る様を、自分より高い位置から見下ろす褐色の瞳が観察している。若者――ラムザは、足下の雑草をみつめることで追及の視線から逃れた。だが、胸の内から絶えず湧き上がる焦燥から逃れることはできそうになかった。


 今回の仕事は道案内だ。ここオーボンヌ修道院からガリオンヌ領の主都イグーロスまで、ある一行がつつがなく移動できるようにすればいいだけの、荒事とは無縁に感じられる仕事。しかし、ある一つ事実が仕事の難易度を上げていた。
 すなわち、ラーグ公爵直属の軍師ダイスダーグ・ベオルブからの依頼であり、案内の対象となる人物がオヴェリア王女の一行である事実。
 昨今の世情を多少でも知る者ならば、オヴェリア王女が政局の鍵を握る人物であることを認識しているだろう。彼女をオーボンヌ修道院からイグーロスへと移送させる意義も、理解できるだろう。
 そんな重要な仕事に、道案内だけという限定はあるが、一介の傭兵が携わっているという現実。第三者が見れば、奇妙な事態だと首を傾げたくなるだろう。実際、任務の内容を聞かされたときラムザも不審に思った。なぜ、ラーグ公爵麾下の北天騎士団を派遣しないのか、と。
 しかし、これには理由があった。オヴェリア王女には王家から派遣された親衛隊が常に控えており、当然のようにイグーロスまで同行する。万が一、不測の事態が生じた場合、指揮権を有するのは親衛隊だ。同格の位を有する北天騎士団所属の騎士がいては指揮系統に混乱をきたし、任務に障るおそれがある。だが、ラーグ公爵側にしてみれば、王女の移送の一切を親衛隊に委ねるのは心許ない。王女の身辺に控えるという理由で親衛隊は全員女性であり、また、その数も十人に満たないからだ。そこで、北天騎士団の外部組織にあたる黒禍傭兵騎士団に白羽の矢が立ったのだった。
 以上の理由は、理屈にかなっている。
 ところが、人を納得させる力があるかと言う点におよぶと、話は異なる。少なくとも、ラムザにとってはそうだった。依頼主に名を連ねるダイスダーグ・ベオルブは、彼の実の兄だ。ラムザに黒禍傭兵騎士団を紹介してから一切連絡をとってこなかった、むろん監視役であるガフ・ガフガリオンから報告は受けているだろうが、兄からの依頼。その事実が、ラムザの心を掻きむしっていた。
「にしても、いつになったらお姫様は出てくるのかねぇ」
 事情を知らないラッドは明るい口調で言い、う〜んと伸びをする。ラムザが相槌とする表情を考えていたとき、野太い声が響いた。
「いい加減にしやがれ、もう一時間も待ちぼうけだぞ!」
 ラッドが顔をしかめて走り出す。ラムザも後を追った。
「まだ姫君の支度が調っていない。暫し待たれよ」
「さっきから馬鹿みたいに同じセリフを繰り返しているンじゃねぇ!」
 礼拝堂の正面を警備する二人の女性騎士に、初老の剣士が詰め寄っている。禍々しい印象を与える漆黒の鎧を纏った彼こそが、元東天騎士団部隊長にして現黒禍傭兵騎士団団長ガフ・ガフガリオンである。
「出発の日時を指定したのはそっちだろうが、さっさと出てきやがれ! …それとも、あんたらの大事なお姫様はいまになって尻込みしたンか!?」
「傭兵風情が無礼なことを言うなッ!」
「姫君への侮辱は、王家をも侮辱することぞ!」
 女性騎士達が声を荒げる。
 到着してから一時間ちかく待たされているのは事実だから、ガフガリオンの苛立ちもわかる。しかし、これから共同戦線を組む相手と揉めるのは、戦術的にも心理的にも上策ではない。礼拝堂に向かって罵倒する上官を止めるべく二人の傭兵が駆け出そうとした矢先、ガフガリオンの苛立ちが限界に達した。
 飛燕の早さで繰り出されたガフガリオンの拳が、左側に佇立していた女性騎士の鳩尾を突く。小さく呻き声を上げて崩れ落ちる仲間に気付き、もう一人の女性騎士が剣の柄に手をかける。だが、ガフガリオンは抜刀する暇を与えなかった。身体を半回転させてねじり、勢いのついた肘鉄を女性の頬に叩きつける。遠心力に負けてのけぞる上半身に、渾身の蹴りを叩き込んだ。女性騎士は数メートル後方に背中から倒れ、起きあがる気配を見せない。
「オレを止めるには力が足らンかったようだな」
 不遜に言い捨ててから、ガフガリオンは礼拝堂の大扉を押した。何の抵抗もなく、滑るように両開きの扉が開かれていく。彼は迷うことなく内部に入っていく。
「こりゃ、お姫様までぶっ飛ばしかねないな」
 物騒な懸念を残して、ラッドが上官の後を追いかける。
 ラムザは昏倒している騎士両名に目をやる。一瞬迷ったが、彼もまた礼拝堂の中に足を踏み入れた。

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